今日もちょっとだけ歴史修正主義者・反歴史修正主義者を修正しておくよ

 見出しは演出です。演出を通り越して釣りかも知れず。
 やれ日本軍が鬼畜だとか、皇民教育が、とか、日本軍はいいこともたくさんしたとか、軍命令はあったとかなかったとか、割とぼくにはそんなのは比較的どうでもいいので、ぼくが今のところ戦争について学んだことは、戦争は嫌なものであるということ(できるならなるべくしたくない。ネットの擬似戦争なんて、本物の殺し合いと比べたら全然たいしたことない)と、知識の不足は死と憎悪を招く、ということなのでした。
 南京事件南京大虐殺)とかホロコーストは、そちら方面の言語の知識がないので言及は避けますが、たとえばこんな感じ。
1・バターン死の行進はひどいものだった。でも日本軍にとってはあれぐらい歩くの当たり前で、米軍にとってはあんなに歩かされるのは一生の恨みモノ。体調コンディション最悪のときに、黄色い猿みたいなのにどつかれながら歩くなんて、ぼくだったら5キロも歩かないうちにヘタっちゃうよ。でも、もう少しお互いがお互いのことをわかっていたら、まぁ○十年ぐらいは恨んでも、一生の恨みモノじゃなかったかもしれないね。
2・沖縄の集団自決は、米軍に対する無知と戦場パニック(ヒステリー)が引き起こした不幸な事件。一般住民が英語とか米軍とかにもう少し知識があったら自決しなかったかもしれない。でも砲弾・銃弾ばしばし飛んできているときにそんなこと考えるのは無理だろうとも思う。
3・大江健三郎沖縄ノート裁判は、元テキストの誤読があるので、名誉毀損はちょっと無理だろう。
 ぼくが反・歴史修正主義の人と肌合わないなぁ、と思うのは、ていうかせっかくなので『歴史修正主義の克服』(山田朗・高文研)読んで思ったのは、たいていの反・歴史修正主義の人は、歴史修正主義がなかったら歴史に対して何も言ってなかっただろう、という存在感・立地基盤のいやはやさで、歴史を楽しもうとか、歴史で何かを学ぼうとか、そこらへんがあまり感じられないのですね。自分の陣地(左寄り)の立派さ・堅牢さを誇る、その誇りは対立陣地がなくても美しく存在できるのか、という。まぁ、これは山田朗氏の本を読んだだけの印象かもしれませんが、顔の真っ赤さぶりがちょっと思想童貞(ぼくのことではありませんが)を引かせる要因になってそうだ。
 歴史の本がぼくにとって面白いのは、そして時々退屈なのは、情報・知識の乏しいものが敗者となる、という約束ごとの部分で、たとえば歴史じゃないけど物語としての三国志諸葛孔明出てからあまり面白くなくなるのと同じようなものです。あと、どう考えてもそれは嘘だろうというようなことを書いているテキストを見つけるのも、少し面白いです。