フロンの悪影響を発見した科学者、ジム・ラヴロック(ジェームズ・ラブロック)について

 今日は以下のテキストから、テキスト入力練習をしてみるよ。

大気の海―なぜ風は吹き、生命が地球に満ちたのか

大気の海―なぜ風は吹き、生命が地球に満ちたのか

 これのp187-198。

 ミジリーの驚異的な冷却剤(注:トマス・ミジリーと彼が発明したフロンガス)は、何か不都合があるらしいと最初に指摘したのは、穏やかで柔らかな口調、軽くカールした髪と明るい目と思慮深い笑顔を持った男性だった。ジム・ラヴロックは精神においてお興味の対象においても、現代の専門的な研究者というより、昔の自然科学者に近かった。彼の独立独歩の性格はよく知られ、(今の科学者としてはほぼありえないが)自分の裏庭に建てた実験室で仕事をしていた。彼はまた、いたずら好きでひねくれたところがあった。同業者の一人は「これまで会ったなかで最も創造性に満ちたひねくれ者」と評した。
 ラヴロックは大学や研究所の世話になりたくないと思っていた。それでも少なくともしばらくは?ふつう?の道を進んでいた。化学者としての教育を受け、1930年にロンドンの医療審議会で働き始める。しかししだいに、その保守的な----彼なら?融通の利かない?と言うかもしれない----環境にいらだちをおぼえるようになっていった。他の研究者がふつうの白衣を着ているところ、彼は「画一的になるのを避けるため」外科医の服装で通した。1959年に40歳の誕生日が近づくころには、もう我慢できなくなった。「毎日、研究室に行って研究をして家に帰る。まるで自分がこの五行詩の男のように感じた」。

若い男が言いました。
「俺はまるで
敷かれたレールの上を
走るだけのよう
車でもなくバスでもなく路面電車さ」

 路面電車のレールが墓場まで続いているというイメージを、ラヴロックは嫌悪した。上司に辞めると告げてさっさと逃げ出した。最初はテキサス州ヒューストンの大学でしばらく働き、アメリカ内でも高い給料をもらっていくばくかの資金を貯め、イギリスに戻ってイングランド南部ウィルトシャーに小さな自分の研究所を建てた。
 しかしフリーの科学者になるには、いくつか現実的な問題があることにラヴロックは気づいた。まず郵便の届け先が、名のある研究所ではなくて人里離れた土地の草ぶきの小屋では、まじめに受け取ってもらえず、学会の専門誌を手に入れるのにも苦労する。研究所に必要な備品を揃えるのはもっと厄介だ。今ほどテロの脅威に敏感ではなかった時代とはいえ、一般家庭のような住所から青酸カリや放射能物質を注文したら、それが届く前に警察がやってきてしまう。この問題を避けるため、ラヴロックはブラゾス(Brazzos)という会社を興した。この名前を選んだのは、ごく現実的な理由からだった。この名前はヒューストン近くを流れるブラゾス川(Brazos)に由来する。綴りが違っているのは、申告された会社の名がすでに使われているかどうか照会するのに1回25ポンドかかるのだが、2回失敗して、次はこれまで絶対に使われていない名前を選ぼうとしたからだ。
 ブラゾスの名を利用しつつ、ラヴロックは大きな会社と次々とコンサルティング契約を結んだ。そうした会社は、医療審議会時代から彼の研究を知っていたのだ。こうして彼は創意あふれる、ときによっては突飛な科学的アイデアを、存分に研究することができるようになった。彼の提言で最も有名なのはおそらく、地球上の生物は自らが棲む環境をコントロールして、地球が暑くなりすぎたり寒くなりすぎたり、棲みにくくなるのを防いでいるというものだ。彼がこの考えを思いついたのは、1965年にNASAのジェット推進研究所で火星生物探査の実験を行なっているときだった。火星ともう一つの隣人である金星の大気について検証しながら、ラヴロックはその地球との違いに衝撃を受けた。火星は凍えるほど寒く、金星は燃えるように暑いが、どちらの大気も化学的に安定していて公式にきちんと当てはまる。しかし地球はそうではない。たとえば地球の大気には、特に反応しやすい酸素が含まれているが、化学的に考えると、そこにあるべきものではないのだ。
 酸素は生物から生じた。地球に酸素があるのは、生物が自分たちにとって生きやすいyほう環境を大きく変えたからに他ならないと、ラヴロックは気づいた。それ以来彼は、生物が地球環境をつくりあげ、その環境の影響で生物が変わった他の例もさがし始めた。さがせばさがすほど、生物、空気、そして岩の間に、密接な相互関係があることがわかってくる。まるで地球自体が生きているようだ。
 ロマンチックな彼はこの理論を、ギリシャ神話における地球の女神の名をとって『ガイア理論』と名づけた(この名を提案したのは彼の隣人の小説家で『蠅の王』の作者であるウィリアム・ゴールディングで、ラヴロックに「言葉の達人に自分の理論を名づけてもらった科学者はほとんどいない」と言わしめた)。ラヴロックの理論は概して正しかった。生物が自分たちにとって便利になるよう地球を変える方法はいくつもある。しかし?ガイア?という名前と、ラヴロックの全体論的かつヒッピー的(注:本テキストは傍点)な理論が組み合わされたことで、同業者たちの多くは懐疑的な目で見ていた。彼の研究は入念で堅実なものであり、世界で有数の雑誌で発表されたにもかかわらず、まだ信用しない科学者も存在した。ラヴロックは特に気にしてはいなかった。ある有名な科学者が彼を「神聖なる(ホーリー)愚か者」と評したのを自慢にさえ思っていたが、自嘲的なユーモアをそなえた彼は、ひょっとしたらその科学者は「完全なる(ホーリー)愚か者」と言ったのではないかと考えた。
 ジム・ラヴロックがオゾン研究に着手したのは1960年代半ば、夏に発生するもやに興味を持ったのがきっかけだった。ときどき自宅周辺の景色が、もやのせいで台無しにされることがあったのだ。しかし自分が幼いときには、そんなものを見たおぼえはない。そこで理由を教えてもらうべく、気象庁に勤める友人を訪ねた。ラヴロックはイギリスの気象庁が、正式には防衛省に属しているのをとてもおもしろがっていた。「我々イギリス人は昔から天気に関してはうるさかったが、これは少々やりすぎではないか。今や天気は、軍隊で守る必要のある、国家的情報、財産だとみなしているのだろうか」。そしてアメリカの気象局が商務省に属していることについても、同じくらいうれしげに反応した。「彼らはおそらく、天気は売るだけの価値があると思っているのだろう」。
 もやの原因が自然のものなのか、人為的なものなのか、気象庁にも知っている者はいないようだった。そこでラヴロックはある仮説を思いついた。彼はミジリーの発明したフロンのことはよく知っていた。今やそれはスプレー缶や冷蔵庫に使われ、イギリス中どこでも見られるようになっていた。それは不活性で安全だったが、もしかしたら他のもっと不愉快な形の公害の?マーカー?として使えるかもしれない。フロンのレベルが高いときにもやが出るとすれば、原因は人為的なものということになる。
 ラヴロックはこれを検証してみようと考えた。ちょうどよい道具もある。ミジリーと同じように、ラヴロックも生まれながらの発明家だった。彼が初めて発明をしたのは10歳のときで----列車の窓から差し出して速さを測定する風力計だった----以来ずっと続けてきた。ラヴロックはそうした発明で十分に生計を立て、科学研究のための資金をまかなっていた。しかしオゾンにかかわる話では、ある機械が他の何よりも重要で大きな役割を果たしていた。ラヴロックはフロンをはじめ、数多くの化学物質の名残を探知する装置を発明していたのだ。彼はこれを使って、もやがどこから生じるのか突き止めようと考えた。
 田舎の隠れ家に戻ると、ラヴロックは夏の何日間か、もやとフロンのレベルを測定した。その後、年内にアイルランドの西海岸で同じ実験をした。もやが多いときは、必ず大気中のフロンも多い。彼が予測したとおり、もやは工業化に原因があるようだ。
 ラヴロックはこの結果を発表し、それで満足していた。しかしフロンの何かが心にひっかかっていた。フロンが彼の住む人里離れたバワーチョークにまで到達しているなら、他にはどこまで行っているのだろうか。フロンは不活性で?安定している?ため、破壊することはできない。おそらく大気のどこかに少しずつ蓄積されているはずだ。世界中を追跡し、危険な公害がどこまで進んでいるかを示すマーカーになるかもしれない。
 これを検証する一つの方法は、この装置で海のフロンのレベルを測定することだ。比較的、汚れている北半球から汚れの少ない南へと移動する。直接的な汚染は、陸地が多く産業も発達している北半球のほうがはるかにひどい。そこでラヴロックは自然環境調査局(NERC)に頼み込んで、調査船シャクルトン号に乗せてもらうことになった。船は1971年11月に出航した。
 測定初日から彼は困難にぶつかった。船で用意される?公式?の水は役に立たないのだ。問題は彼の道具ではなく、船自体にあった。シャクルトンは調査船なので、科学者が常に測定用サンプルを入手できるよう船首で自動的に水をくみあげている。ふつうの測定ならそれで問題ない。しかしラヴロックが行なおうとしている測定は、従来よりはるかにデリケートなものだった。ごく微量のフロンを探知するという目的のためには、水が通ってくる?クリーンパイプ?でさえ汚れすぎている。海面からきれいなサンプルを手に入れるため、別の方法をさがさなければならなかった。
 その最初の実験が、あやうく彼の最後の実験になるところだった。まず彼は、バケツをロープにつないで船べりから海に落とすという、単純な作戦をとることに決めていた。ところが船のスピードはおよそ14ノット(約30キロ)、バケツが強く引かれて、綱を持っていたラヴロックは海に引っ張り込まれそうになった。彼は自分に腹を立て「時速22キロメートルで水中を流れるバケツは、45キログラム以上の力で引くことを計算しておくべきだった」と述べている。それでバケツはあきらめて、技術者にもっと小さなビンを出してほしいと頼んだ。しかしあるのは実験室で使うガラスのビーカーだけだ。それではすぐに壊れてしまうだろう。何かありあわせたものでつくるほかなかった。
 ラヴロックは調理室へ行って、使えるものがあるかどうかさがした。シチュー鍋はロープの先につけると扱いが難しい。しかしもう使われていない古いアルミのティーポットはぴったりだった。それからラヴロックは嬉々としてこのティーポットで毎日海の水をすくい、他の科学者の驚きと軽蔑の視線を浴びていた。
 乗組員のほうは、この実際的だが変わり者で自らの研究を真剣に考えているような客人に温かい目を注いでいた。嵐の中で彼がティーポットにサンプルを集めているときは、甲板長が後ろでこっそり彼を見守り、万一にも波にさらわれそうになったら捕まえようと待ち構えていた。
 船が北から南半球に入ると、ラヴロックは違いを感じ始めた。空気は新鮮で清潔に感じられ、もやが減った。そしてフロンの数値も下がった。北半球では70ppt(1兆分率)存在したが、南での数値はその半分以下だった。それでもその測定で、ラヴロックの予測が裏切られた。フロンは徐々に世界中に広まっている。
 コストの総額はたった数百ポンドだったにもかかわらず、ラヴロックのシャクルトン号での調査旅行は、きわめて重大な意味を持っていた。彼は結果を《ネイチャー》に発表したが、最後にある添え書きを加えた。のちに彼はそれをひどく悔やむことになる。その論文の論点は、フロンが世界中に現れつつあることをしめすことだったが、彼としては、深く考えもせず?化学物質?からなんでも怖がる人々に警戒心を植えつけたくないと思った。フロンは不活性なので数pptを吸い込んでも、何の害にもならない。そう考えて付け加えた言葉が、のちのちまで彼を悩ませることになる。それはこんな言葉だった。「これらの化合物が、危険を引き起こすことは考えられない」
 
 それから数か月の間に、ラヴロックの調査結果は大西洋を越えてアメリカへと渡ったが、それを見たカリフォルニア大学アーバイン校の化学の教授であるシャーウッド・(シェリー)・ローランドの頭には疑問が生じた。ラヴロックが見つけたのは、大気中のごくわずかな濃縮フロンだったが、すべてを合わせるとこれまでつくられたフロンとほぼ同じ量になる。それはおかしな話だった。大気中の物質はほんの数週間しか存在せず、何か他のものと反応したり、雨で流されたりしてなくなってしまう。もしラヴロックの計測が正しければ、フロンは極端に長い時間、大気中にとどまっていることになる。ローランドは不安をおぼえたのではなく、ただ興味を持ったのだ。彼は永遠に続くものはないということを知っていた。フロンは、最後にどうなるのだろうか。
 ローランドは放射能に関する自分の研究に忙しかったし、学部の運営にも力を注いでいた。幸運なことに、彼の下にはこの問題を任せられそうな、博士課程を修了した優秀な研究者たちがいた。そのマリオ・モリーナという学生はメキシコシティ生まれで、外交官の息子だった。育ちのよさと、まごうかたなき知性を合わせ持った彼の前には、多くの扉が開かれていた。それまでもヨーロッパの有名な研究所で学んでいた。しかし彼はアメリカの大学院を気に入って、当時バークレー校で博士課程を終えたばかりだった。そして次の研究テーマをさがしていた。
 ローランドが提案した問題----大気中のフロンを追跡して、何が起こるか突き止める----は、学術的におもしろいと思えた。モリーナの計算でまずわかったのは、大気の低層部では、フロンにとって脅威となるものは何もないということだった。水に溶けないため雨となって地面に落ちることはない。また他にフロンを破壊するような反応も起こらない。最終的には風や雲や天気の変化のある大気の天井を抜けて、明るく大気の希薄な成層圏へと突入しなければならない。
 ここで厄介な問題が始まる。上のオゾン層へと昇っていくとき、フロンは初めて紫外線を浴びる。オゾン分子の神風攻撃をかわして吸収されなかった紫外線は、その分子に衝突する。小さな電光のように、これですべてのフロン分子が怪物に変わる。
 危険が生じるのは、フロンに塩素が含まれているからだ。塩素が分子の檻に閉じ込められているうちは問題ない。しかし紫外線を浴びて解き放たれると、塩素は荒れ狂い始める。いくつもの複雑な反応を通じて、どの塩素原子もオゾン分子(O3)の余分な酸素原子をさっさと引きはがし、あとにはふつうの酸素分子(O2)が残る。同じ塩素原子が次々と別のオゾン分子で同じことを繰り返し、飛び出した二つの原子が反応する。結局は、地球を守ってくれるオゾン分子二つが、使い道のない酸素分子三つに変わるのだ(化学式で書くと2O3→3O2)。
 しかし本当に困るのは、これらの塩素がたいへん効率的に仕事をすることだ。一つの塩素原子が一回の反応を終えたとき、反応が始まったときとまったく同じ状態になる。つまり同じプロセスを何回も繰り返せるということだ。成層圏で解き放たれた塩素原子は、ミニチュアパックマンのように、何千、何万ものオゾン分子をぺろりと食べ、それからようやく他のものと反応して消えるのだ。モリーナの計算によれば、一個の塩素原子が平均10万個のオゾン分子を破壊する可能性があるという。
 それでも危険が生じるのは、オゾン層に変化を起こすほどの量の塩素が存在しているときだけだ。モリーナはある計算を始めた。これまで外に出たフロンの量を調べ、これらの分子が成層圏に達するまでに、どのくらいの時間がかかるか計算した。すると……その答にモリーナはぎょっとした。100年たったら、オゾン層は分子の10パーセントを失うという結果が出たのだ。彼はすぐローランドに報告に行った。二人で計算を何度も確認したが、何度やっても答は同じだった。このまま排出が制限されなかったら、フロンは地球上のすべての生物に深刻な脅威をもたらす。ローランドはその晩、重い心を抱えて家に戻った。「仕事はうまくいっている。しかしまるで世界の終わりのような気がする」。彼は妻にそう言った。
 それから何週間か、モリーナとローランドは計算を何度も何度もやり直した。発表する前に、自分たちの発見に絶対の自信を持たなくてはならない。計算が正しいと確信したとき、ローランドの妻のジョーンは、家の中にあるエアゾールスプレーをすべて集め、まとめて捨ててしまった
 この調査結果は科学界の情報網によって、発表前から少しずつ広まっていた。ジム・ラヴロックはこの二人を知らなかったが、彼らの予測を聞いてとても興味を引かれた。彼もフロンが成層圏まで達する可能性はあると思い、本当にモリーナとローランドが予測したとおり、そこで分解するかどうか考えた。おもしろい理論を検証するチャンスを逃すまいと、ラヴロックは飛行機をさがし始めた。
 最初に行ったのは成層圏に定期便を出している気象庁だった。しかしそこのお役所体質は凄まじかった。彼の装置についての安全点検と、あらゆる書類に判子を押してもらうのに少なくとも二年は待たなければならなかった。
 ラヴロックはとても待てなかった。方針を変え、防衛省にいる友人何人かに話をした。近々、成層圏への飛行が予定されていないか。そしてその片隅に、小柄な乗組員と、さらに小さな空気の標本を集めるシリンダーを乗せることはできないかと。その頼みは受け入れられた。高度14キロメートルまで上昇する試験飛行を行なう予定のハーキュリーズ機に、ラヴロックは乗り込むことになった。一年のその時期、成層圏は高度9キロメートルから始まるので、測定できる範囲は5キロメートル分はある。もちろん公式には、彼はいないことになっていた。そのため、たとえ事故で爆発しても何の補償もない。しかし料金を払う必要もないし、何よりも、煩雑な事務手続きがなかった。
 数週間後、ラヴロックを乗せたハーキュリーズが、ウィルトシャーのライネム飛行場を離陸した。飛行機が上昇をしているとき、彼はエンジニアの隣に座って空気のサンプルを集めた。降下中は、エンジンが止まったときの対処法など、いくつかの実践演習を行なった。ラヴロックはやや緊張して、もし飛行機がスピンし始めたらどうするのかと聞いた。「なに、まったく心配はいらない」。パイロットが自信満々で答えた。「この飛行機は半回転もしないうち翼がもげるから」。ラヴロックは、それ以降は口をつぐんでいた。
 彼は戻るとすぐに、サンプルの分析を始めた。大気の低いところではフロンのレベルは一定だが、モリーナとローランドの予測どおり、成層圏では低下している。彼らの理論は正しいようだ。
 
 モリーナとローランドの発見は、1974年6月に《ネイチャー》で発表された。それに対する反応は……沈黙だった

 検索してみると、ジム・ラヴロック(ジェームズ・ラブロック)博士はガイア理論のほうで有名な人のようでした。
 ということで、以下の本は大気について研究した科学者・発明家に関するエピソードが山盛りで、とても面白い本でした。
→『大気の海 なぜ風は吹き、生命が地球に満ちたのか』(ガブリエル・ウォーカー/著 渡会圭子/訳/早川書房/2,100円)【→amazon