カート・ヴォネガットのSF業界罵倒テキスト(翻訳)・ほか

 これは以下の日記の続きです。
カート・ヴォネガットのSF業界罵倒テキスト
 原文は以下のところ。
KURT VONNEGUT: On Science Fiction
 翻訳はサンリオ文庫ヴォネガット、大いに語る』(1984年3月、飛田茂雄)、p28-33。太字強調部分は引用者(愛・蔵太)によるもので、原文にはありません。
 打ち間違いなどがあったらご指摘ください。

サイエンス・フィクション(「ニューヨークタイムズ・ブックレビュー」1965年9月5日号に掲載)
 
 わたしは昔、スケネクタディー市(ニューヨーク州東部の工業都市)のジェネラル・エレクトリック社で、機械や機械改良の構想に囲まれて働いていたことがあるので、のちに人間と機械についての小説を----機械がその本来の性格からしてしばしば人間を支配するという小説を----書いた(『プレイヤー・ピアノ』という題の小説で、これはハードカバーとペーパーバックの両方で再版されている)。その結果、書評家たちから、わたしがサイエンス・フィクション作家であることを教えられた。
 目を疑った。なにしろ自分では、人生についての小説を、つまり現在まったくひどい状態に陥っている現実の一都市スケネクタディーで、このわたしが見聞きしないではいられないいろいろなことについての小説を、書いたつもりなのだから。以来ずっと頭の痛いことに、わたしは「サイエンス・フィクション」というラベルを貼ったファイルの住人ということになっているが、できれば逃げ出したいものだ。特に、まじめな批評家の多くがしょっちゅうそのファイルを小便用便器と見誤るものだから。
 どうやら、テクノロジーの動向に注意を向ける人間は無理やりこのファイルに突っ込まれるらしい。ちょうど茶色の背広を着た人間は決して都会の紳士と見なされないように。冷蔵庫のメカニズムを理解している人間が同時にまともな作家であることなど不可能だという根強い考えがはびこっているのだ。責任は大学にあるのかもしれない。わたしの知るかぎり、英文科の学生は物理や化学を軽蔑するようそそのかされ、中庭のすぐむこうに巣くっている理工学部の、退屈で、不気味で、石頭で、戦争志向の連中とは違うことを誇りにせよと教えられている。あいにく、わが国で最も発言力のある批評家の大半は揃いもそろってそういう英文科の出身であり、きょうこの日に至るまでテクノロジーを毛嫌いしている。
 ところが、サイエンス・フィクション作家として分類されることを大いに歓迎している人々、言い換えれば、さきざき〈事のついでに工業技術や科学研究の成果にも言及したありきたりの小説家〉として片づけられることを恐れている人々もいる。彼らがSF作家という現在の地位に満足しているのは、古風な大家族のメンバーがそうであるように、仲間がそれを好んでいるからだ。SF作家たちはしょっちゅう会合を開いておたがいを元気づけたり賞賛しあったりし、びっしりタイプした二十枚かそれ以上もの手紙を往復させては気勢を上げ、手を変え品を変えて百万の興奮と哄笑とを誘い出している。
 わたしも少しは彼らとつきあいがある。みんな心の広い愉快な人たちだが、いまわたしは彼らを憤慨させるような真実を述べなくてはならない。彼らはむやみに社交好きである。仲間といっしょに結社(ロッジ)を作っているのだ。彼らがこれほど仲間づきあいを楽しまなかったならば、サイエンス・フィクションというカテゴリーは生まれてこなかったかもしれない。彼らは夜を徹して、「サイエンス・フィクションとはなんぞや」という問題を論じあうのが好きらしいが、どうせなら、「エルクス(会員165万人を擁するアメリカの秘密結社めいた慈善友愛団体)とはなんぞや」とか、「イースタン・スター団(エルクスと同様の結社で、会員は300万人)とはなんぞや」について議論したほうがより有益ではあるまいか。
 とはいうものの……無意味な社交集団がすっかりなくなってしまうと、この世の中は退屈になるかもしれない。ほほ笑みがうんと少なくなり、出版物はいまの百分の一に減ってしまうかもしれない。そしてサイエンス・フィクション出版のためにこれだけは弁じておかねばならないが、だれかがほんの小さなSF作品でも書いたならば、出版社はきっとそれを世に送り出してくれるだろう。少し前までつづいたあの雑誌黄金時代において、容赦しがたい駄作に対する需要すら途方もなく高まった結果、電動タイプライターが発明され、事のついでにわたしのスケネクタディー脱出の費用もまかなわれた。うれしい時代! しかし、現在、教養課程のぐうたらな大学生が一挙に作家として認められるための登龍門はたった一種類の雑誌である。どういう種類かは言うまでもあるまい。
 だからといって、SF雑誌、SF選集、SF小説などの編集者の趣味が低俗だということにはならない。彼ら編集者は低俗ではないし、わたしはしだいに彼らの好みに近づいていきそうだ。この分野でまあ低俗という非難に値するのは、作家の75パーセントと、読者の95パーセントだろう。いや、ほんとうのことを言うと、95パーセントの読者を喜ばせるのは低俗性というより子供っぽさだ。人間の成熟した諸関係は(関係する相手がたとえ機械であろうとも)愚鈍な大衆をくすぐったりはしない。こういう大衆が科学について知っていることときたら、1933年以前の『ポピュラー・メカニックス』誌にすっかり書き尽くされている。彼らが政治や経済や歴史について知っていることは、ひとつ残らず『インフォメーション・プリーズ年鑑』の1941年版に出ている。彼らが男女の関係についてなにか知っているとすれば、主として「マギーとジグズ」(夫婦もの漫画と、それをもとにした古いラジオドラマ)のまじめ版とポルノ版のどちらかから仕入れたものにすぎない。
 
 わたしは一時期、ちょっぴり風変わりな学校でちょっぴり風変わりな高校生を教えたことがある。当時、サイエンス・フィクションは----SFと名がつきさえすればたとえどんなものでも----少年たちの大好物であった。彼らには作品のよし悪しなど見分けがつかず、どれもこれもみな〈愉快〉で〈いかす〉のだった。わたしの見るところ、彼らを強く魅惑したものは----さし絵抜きのマンガ本が持つ新奇さもさることながら----未熟なままの彼らでさえ操作できる未来が絶えず約束されていたことである。そういう未来において、彼らはあるがままで、つまりニキビも、性的無経験も、なにもかもいまのままで、どう悪く見積もっても上級下士官にはなれるはずであった。
 奇妙なことに、アメリカの宇宙開発計画はこの少年たちを興奮させはしなかった。計画が高級すぎるからではない。逆に、彼らはその計画が自分たちと同じ音痴の青二どもによって作成され、資金負担されていることを、みごとに見抜いていた。彼らはただ前より現実的になっていたにすぎない。自分は高校を卒業できないかもしれないと心配していたし、宇宙計画への参加を希望する変人はみな少なくとも理学士の称号を持っていなければならないことを知っており、ほんとうに上等な仕事はみな博士号を持った変人どもの手に渡されることも知っていた。
 ついでながら、彼らの大部分はめでたく高等学校を卒業できた。彼らはいま、だれにも操作できない未来や現在についての本、そして過去についての本までも楽しんで読んでいる----『1984年』、『見えない人間』、『ボヴァリー夫人』など。特に夢中になっているのがカフカの作品である。だが、サイエンス・フィクションというみこしをかつぐ人たちはこう答えるかもしれない----「よせやい! ジョージ・オーウェルもラルフ・エリソンも、フローベールも、カフカも、れっきとしたSF作家なんだぜ!」彼らはしょっちゅうそんなことを言っている。なかにはトルストイまで仲間に引きずりこもうという狂った連中さえいるのだ。それはまるで、わたしが〈ひとかどの人物は、本人が知ろうと知るまいと、ひとり残らず本質的にはデルタ・ウプシロン(D・U)という我が輩の結社(ロッジ)に属している〉と主張するようなものだ。もしカフカが本当にD・Uに属したなら、絶望的な不幸に陥っていたかもしれない!
 だが、聞いていただきたい----サイエンス・フィクションという分野を独立させて生かしつづけている編集者や選集編者出版経営者たちのことを。彼らは一様に明敏であり、知性と教養に富んでいる。その頭のなかではC・P・スノー(文芸と自然科学との分離対立を強く批判した英国の物理学者・小説家)の言う二つの文化がみごとに結合しており、その意味で彼らは数少ない貴重なアメリカ人の仲間入りをしている。彼らはやたらに多くの駄作を出版しているが、それは秀作を見つけるのがむずかしいという以上に、人間方程式のなかにテクノロジーを組み込む勇気ある作家ならだれでも、どんなにへたくそでも、激励してやるのが自分の義務だと心得ているからだ。あっぱれの心ばえではないか。彼らは新しい現実にふさわしいキリッとしたイメージを探し求めている。
 そして彼らはときどきその望みを果たす。教育畑の雑誌を除けばアメリカで最も低劣なものを出版している彼らが、時にはアメリカで最も優秀なものも出しているのだ。予算は乏しく、読者層は未成熟という悪条件にもかかわらず、わずかにせよ本当にすぐれた作品を発掘できるのは、この人工的なカテゴリー、つまり「サイエンス・フィクション」というラベルを貼ったファイルが、少数の優秀な作家にとっていつも居心地のいい場所を提供しているからだ。それらの作家は急速に年をとっており、本来なら大家と呼ばれるにふさわしくなっている。彼らは無名のまま見過ごされているわけではない。SF結社(ロッジ)が絶えず彼らに栄誉を与えている。そして愛情をも。
 結社(ロッジ)はやがて解体するだろう。あらゆる結社(ロッジ)は遅かれ早かれ解体する。そして、ファイルの外の、SF関係者が〈主流〉と呼んでいる世界でも、しだいに多くの作家が物語のなかにテクノロジーを持ち込むだろう。少なくとも、物語のなかで意地の悪い継母(ままはは)に向けていたのと同じくらいの注意を、テクノロジーに向けることだろう。まあそれまでのあいだ、もしあなたが会話や行動の動機や性格描写や常識に多少とも欠けるような小説を書いているならば、ついでにちょっぴり物理か化学を、さもなければ妖術でもいいから混ぜ入れて、できあがったものをサイエンス・フィクション雑誌に投稿してみるのも、そう悪いことではあるまい。

 元テキストにあった最後のフレーズ、

A marketing tip: the science-fiction magazine that pays the most and seems to have the poorest judgment is Playboy. Try Playboy first.

 は、結局エッセイ集収録の際には削ったのか。
 しかしこれが書かれた「1965年9月」と言えば、まだヴォネガットも4〜5作しか長編を発表していなかった時代。『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』が出版された前後ぐらいですか。
 ヴォネガットとレムはアメリカSF業界の「キャッキャウフフ」状況が嫌いで、クーンツとウェストレイクは「商売にならないから」という素朴な理由でSF(アメリカSF業界)から距離を置いた、という判断。そう言えば日本でも梅原克文のSF業界罵倒テキストもあったのだった。
 これだな。「梅原克文サイファイ構想」。久しぶりに読み返してみた。なつかしい。
梅原克文のサイファイ構想

 現在、ほとんどの出版社が「SF」の二文字を嫌っている。いや、それ以前に大衆読者が「SF」の二文字を嫌っている。
 最大の問題は、SF関係者たちが「SF」の「シニフィエ、記号内容」を二種類の意味で、無原則に使い分けてしまう点だ。つまり、ある時は「大衆娯楽小説」を「SF」と呼び、ある時は「マニアックで大衆受けしない小説」を「現代SF」と呼ぶのである。これでは大衆からの信頼を失い、ブランドの地位から滑り落ちるのは理の当然だ。
 たとえば近年では、SF作家クラブが、宮部みゆき氏や瀬名秀明氏らにSF大賞を授与し、特別賞を井上雅彦氏に授与した。そのことを、私は評価したい。
 だが、効果は「焼け石に水」だろう。もはや手遅れだと思う。

梅原克文 サイファイ関係スレッド - SF・FT・ホラー hozen.org
 これは2001年のテキストですか。
 梅原克文さん、『サイファイ・ムーン』って本まで出してた。2002年以降新刊は出ていないみたいですが。
 あと、紀伊国屋書店の文庫復刊フェアで「読ミガエル名作」。ヴォネガットが大量に復刊してた。ていうかこんなに品切れになってたのか。
紀伊國屋書店「絶版文庫復刊フェア」
『タイムクエイク』『ジェイルバード』『青ひげ』『チャンピオンたちの朝食』が復刊。
しかし本当にアメリカSF業界の1950-60年代はクズSFが多かったのか、実物読んで確認してみたくなる。日本SF黎明期にはそのあたりのSF翻訳が一番多かった(傑作が多かった)と思うのだが、まぁ全体の作品の量が多ければクズも傑作もあるよなぁ。