リットン調査団は誰によって送られたのか

 ぼく関係のTwitterから、
http://twitter.com/1192shin/status/9889845679

1192shin @kuratan リットン調査団の報告書はイギリスの国際連盟によって満州事変や満州国の調査を命ぜられたイギリスの第2代リットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットンを団長とする国際連盟日支紛争調査委員会、1931年の調査だけど、中国の依頼をうけて調査された記録。完全版が販売されてる。
5:27 AM Mar 3rd via web kuratan宛

http://twitter.com/kuratan/status/9890443696

@1192shin リットン調査団は「日本の要請によるもの」じゃなかったかな。ちょっと眠たいので寝落ちさせてください。もう少し調べておきます。
5:44 AM Mar 3rd webから 1192shin宛

http://twitter.com/1192shin/status/9890539273

1192shin @kuratan リットンは中国 イギリス 日本 の立会いで行われてますね。中華民国の提訴により連盟からリットン卿を団長とする調査団が派遣されました。
5:47 AM Mar 3rd via web kuratan宛

http://twitter.com/kuratan/status/9903980955

kuratan ちょっと携帯なのでうまく調べられないのですが、依頼が日本ではなく中国だったというソースが知りたいです。

http://twitter.com/1192shin/status/9913584994

1192shin リットン調査団の完全版がおおきな図書館にあるとおもいます。それにのってますよ。

http://twitter.com/kuratan/status/9911613491

少し調べた限りでは、リットン調査団は、中華民国の提訴を受け、日本が提案する形で行われたみたい。中国の依頼を受けて調査された、とか、中華民国の提訴により、というのでは、いささかミスリードな情報提供かも。
2:37 PM Mar 3rd via movatwitter

 ということで、『全文リットン報告書』(渡部昇一・ビジネス社)を読み始める。解説がいきなり炭酸水吹かせる。p24

 リットン報告書には当時のソ連についての言及がかなりあるが、しかしそれでも十分とはいえない。最近はいろいろな資料が出てきてコミンテルン国際共産主義運動)の活動が明らかになり、「あれはコミンテルンのやったことだ」という真相がつぎつぎに暴かれている。そのその一例が、張作霖爆殺事件(1928年)はソ連の手先の仕業だとするユン・チアンの『マオ----誰も知らなかった毛沢東』(講談社)である。

 って。
 これについてはぼくの日記のこれを読むといいよ。
張作霖爆殺事件はコミンテルンの陰謀、と言っている歴史作家ドミトリー・プロホロフはロシアの八切止夫か
『マオ----誰も知らなかった毛沢東』に出てくる話も、ソースは同じ(ドミトリー・ボルゴヌフ、あるいはドミトリー・プロホロフ、あるいはプロコロフ)ですから。
 トンデモな解説はともかく、『全文リットン報告書』の、問題の部分を電子テキスト化してみます。前掲書p40-

緒論
 
シナの正式出訴(1931年9月21日)
 
 1931年(昭和6年)9月21日、シュネーヴのシナ政府代表は、国際連盟事務総長に書簡を送り----9月18日夜から19日にかけて奉天(現:瀋陽)で発生した事件(柳条湖事件)に端を発する日支間の紛争〔満州事変〕に関し、連盟理事会の注意を喚起した。そして国際連盟規約第11条にもとづいて、「国際平和を危うくする事態がこれ以上進展しないよう緊急措置をとるべきこと」を理事会に訴えた
 9月30日、国際連盟理事会はつぎのような決議を行った。
 
9月30日の決議
 
1 理事会議長が日支両国に行った緊急の要請に対し、両国が寄せた回答およびこの要請にしたがってなされた措置を書き留め置く。
2 日本は満州において何ら領土的野心を懐いていないという日本政府の声明の重要性を認める。
3 日本政府は日本国民の生命の安全と財産保護が有効に確保されるにしたがい、日本の軍隊〔関東軍〕を鉄道〔南満州鉄道〕付属地内に撤収させるため、すでにはじめられた撤収をできるだけすみやかにつづけるべく、かつ最短期間内にこの意向を実現したいという日本代表の生命を書き留め置く。
4 シナ政府は、日本の軍隊が撤収をつづけ、シナの地方官憲および警察力が回復されるにしたがい、鉄道付属地外における日本国民の生命の安全と財産保護について責任を負うというシナ代表の生命を書き留め置く。
5 両国政府が両国間の平和や良好な了解を乱すおそれのあるいっさいの行為を避けたいと願っていることを信じ、事件を拡大したり、事態を悪化させたりしないために、両国政府がそれぞれ必要な措置をとるという保障を与えられた事実を書き留め置く。
6 両当事国に対し、通常関係の回復を促進し、そのために前記約束の実行をつづけ、それをすみやかに終了させるため、両国がいっさいの手段を尽くすべきことを要求する。
7 両国に対し、事態の進展に関する全情報をしばしば理事会に送付するよう要求する。
8 緊急会合を余儀なくするような事件が発生しないかぎり、〔1931年〕10月14日(水曜日)に、その時点での事態を審査するため、再度ジュネーヴで会合を開く。
9 理事会議長が同僚や特に両国代表に意見を求めたのち、事態の進展に関して両国や他の理事会員から得た情報を総合し、前記理事会を招集する必要がないと判断した場合は、その召集を取消すことを議長に許可する。
 
 以上のような決議にいたる討議中、シナ代表はつぎのような見解を表明した。「日本の軍隊・警官のすみやかで完全な撤収、および完全な原状回復を実現するために理事会がなすべき最良の方法は、中立的な委員会を満州に派遣することだ」と。
 
10月13日から24日の理事会
 
 理事会は紛争について検討するため、さらに10月13日から24日まで会議を開催したが、会議で提案された決議に対して日本代表が反対したため、全会一致はならなかった。
 
11月16日から12月10日のパリでの理事会
 
 理事会は再度11月16日、パリで会合を開き、約四週間、熱心に事態の研究にあたった。
 11月21日、日本代表は「9月30日の決議」の精神ならびに条項が守られることを日本政府は願っていると前置きしたうえで、一団の調査委員会を現地〔満州〕に送ることを提案した。その提案は理事会全員に歓迎され、1931年12月10日以下の決議が全会一致で採択された。
(後略)

 念のため、「11月16日から12月10日のパリでの理事会」の英文テキストも置いておきます。

Session of the Council at Paris, November 16th-December 10th.

The Council met again on November 16th in Paris and devoted nearly four weeks to a study of the situation. On November 21st, the Japanese representative, after stating that his Goverment was anxious that the resolution of September 30th should be observed in the spirit and letter, proposed that a Commission of Enquiry should be sent to the spot. This proposal was subsequently welcomed by all the other Members of the Council and, on December 10th, 1931, the following resolution was unanimously adopted.

 リットン調査団設立・派遣の経緯を見ると、
1・満州事変が「これ以上進展しないよう緊急措置をとるべきこと」を、中華民国代表が国際連盟に訴えた。
2・「中立的な委員会を満州に派遣すること」が最良の方法である、と、中華民国代表が見解を表明した。
3・「一団の調査委員会を現地〔満州〕に送ること」を、日本政府が提案した。
 ということで、「リットン報告書(リットン調査団)」が「中華民国の依頼」「中華民国の提訴」により作られた、というのは、ぼくの見解としてはミスリードな印象は拭えませんでした。「日本の提案」だという判断です。