朝鮮人虐殺のモトになったデマを流した右翼・山口正憲について

 久々の日記なんだけど、例によって引用ばかりで申し訳ないです。
 以下のテキストなど。
工藤美代子「関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実」が好きな方に薦める本

虐殺といえる被害者は官憲が事件にした233人(ほか日本人59人、中国人3人)だけで、他は自警団に殺されて当然だった独立運動家や社会主義者のテロリストが800人、残りは地震と火事による被災死者だというのが本書の主張だね。
ところが、本書も取り上げている埼玉県の本庄事件というやつ。警察署内に保護されていた朝鮮人被災者を地元自警団が襲って皆殺しにした事件の被害者が86人(注1.正確には、ほか留置場に逃れた1人だけ助かっている)だったのは、なす術もなく暴徒の行動を傍観していた巡査の証言、警察の遺体確認で明らかだし、実行犯多数が起訴されている。ほかに熊谷でも同じような事件があったんだが、て、ことはナニ、 被害者233人の半分くらいは、ほとんど地震被害のなかった埼玉県北部で発生したと、そういうことにしちゃうわけなの? 
また、留学生3千人の6割は夏休みで半島に帰省していたことにするし、旅行者は一人も関東地方にいなかったことにするし、密入国した独立運動家云々と言いながらカウントに入れないし、震災当時の在首都圏朝鮮人の人数(定住者約1万2千人)を少なく見積もるのに、ずいぶん骨を折っているよね(注2.著者は留学生=大学生、旧制高校・中学・女学校生と誤解している。ところが実際は3千人の3分の2くらいが研修生を名目にした労働者で、若い女性が多数を占めていた。当時の労働条件下、長期の夏期休暇を取るなんて贅沢は、彼女たちには、賃金カットや往復する旅費の問題で話にならなかったというのが本当。ただし、彼女たちの大半は勤め先に匿われて虐殺被害を逃れている)。
いわれてきた虐殺被害者数2千6百人が、本来的意味での震災被害者すべてを含むかのように著者は主張するけれども、個々的に事件発生の地域的分布状況を確認すると、震災被害の大小と一致せず、むしろ、震災被害の大きくなかった周辺部で多発しているので、そうでないことは明らか(注3.当時、東京市旧15区の人口は220万人、現23区域と多摩地区を合せた東京府合計が約400万人。神奈川、千葉、埼玉3県合計が約400万人。首都圏全体では約800万人だった。被災死亡者約10万人だから、大雑把に80人に1人の死者という割合だが、朝鮮人に限ると5人に1人が死亡したことになる)。
そこで著者は辻褄合せに、「井戸に毒を投げ込んだり、強盗、放火して廻ったテロリストたち800人」なるものを創作するわけだが、どうも、この手、底の割れた瞞着や、黒を白に変造しようとする数字操作だらけで、この著作、はっきり言って子供だましのレベルというしかないな。
また、「不逞鮮人が…」という流言蜚語を発生させるもとになった横浜の放火・略奪・殺人事件も、警察の捜査で、日本人「山口正憲」がボスだったゴロツキ集団ら数グループの仕業だったことは、とっくに突き止められているし、事後の調査でも朝鮮人が集団強盗を働いた事実は1つも出なかった。なのに、山本権兵衛内閣の後藤新平内相が、あたかも真相を隠蔽したかのごとく、あらぬ憶測でもって決付ける。
テレビはもちろんラジオもなく、当時は新聞だけが頼りの時代だったが、地震被害が軽くて済んだ東京日々新聞社が5日夕刊を出したのが最初と記録にあるのに、不可解なのは、本書が9月3日付という記事を幾つも引用していること。しかも、その記事の中身はとみると、これがまた、すべて伝聞情報で、「不逞鮮人云々」とは、みんな自警団が「そう言っていた」との目撃談。こんなのなんか、著者の超主観的な解読とは裏腹に、まさしく、悪質な伝聞情報の流布が、自警団らによる虐殺事件を多発させた元凶だった事実を裏付ける記事ばかりとしか読めないけどねぇ。
この種、デマ情報記事を「真実の報道」と、さらには「殺されて当然なテロリストたちが…」と断言する材料にするなんて、およそノンフィクションの範囲を完全に逸脱しているというほかはなく、まるで野卑な興味に迎合するばかりの三文小説レベル、あまりにも不出来。
個々的の事件についてなら多少は過少・過大算出ともあるとして、しかし、震災直後に吉野作造氏が調査して報告した、全体でおよそ朝鮮人2千6百人前後+アルファ(日本人&中国人)とする虐殺被害者数の信憑性を、こんなに姑息で強引な情報操作を繰返すことでしか、著者が自らの推論を主張できない事実で、却って高めることになったといえよう。

 とりあえず、「日本人「山口正憲」がボスだったゴロツキ集団」に興味を持ちました。
流言とデマの社会学|中央線で読む新書

関東大震災での「朝鮮人流言」。吉河光貞「関東大震災の治安回顧」によれば9/1の19時に横浜の本牧町の火災現場で「朝鮮人が放火している」という流言が最初。(横浜は東京よりも被害が大きく、強奪が起きていた。なかでも右翼団体の立憲労働党総裁・山口正憲の一派が9/1の16時頃から4日にかけて、団員を武装させ、民家を強奪していた) これら日本人の暴挙が誤解され、訛化されたのではあるまいか、と吉河。この朝鮮人流言は2日未明には放火ばかりでなく、強盗・強姦・殺人・投毒などに拡大。2日の午前中には神奈川町・鶴見町・川崎町に、2日午後には東京府内まで。東京府内において小石川・牛込方面では山口正憲の立憲労働党本部があり、自ら略奪を働いた山口が、あつかましくも使者を派遣して流布したのではないかと、吉河。2日中には千葉・茨城・群馬・栃木、3日には福島にまで到達。震災直後は電信・電話などの通信網がほぼ全滅、新聞も発行不能で、鉄道もほとんど動かない状況でありながらである。

向陽台通信 大地震!その時、向陽台は? 番外篇(1)関東大震災

 今ではデマであったことが明らかになっている不逞鮮人襲来の噂がどうして生じたかを、吉村昭は「関東大震災」の中で、詳しく検証しております。背景にあるのは、明治43年、日本による韓国併合以来、土木関係労働者として多数の朝鮮人が日本に来て働いていたこと、しかし日本人の側に拒否反応が強く、彼らは日本社会に溶け込めないでいたことが挙げられます。前年の大正11年に「朝鮮人労働者同盟会」が設立され、日本の社会主義者がこれを拍手で迎えたことも一部日本人の反感をそそっていました。噂は1日の夜7時ごろ、横浜市本牧町付近で、「朝鮮人が放火した」という形で発生しました。翌2日に、この噂は「朝鮮人強盗す」、「朝鮮人強姦す」となり、夕刻には「戸塚の朝鮮人土木関係労働者二、三百名が現場のダイナマイトを携行して襲ってくる」と具体性を帯びてきます。 警視庁では、震災後、このデマがどのような経路で広まっていったかを調べましたが、それは三つのルートで広まりました。(1)川崎から蒲田、大森を経て品川方面へ、(2)鶴見、中原、丸子、調布、大崎を経て東京市内へ、(3)神奈川、長津田二子玉川三軒茶屋を経て澁谷方面への三ルートです。その伝わる速度は速く、九月二日の内に、東京全市から千葉、群馬、栃木、茨城へ伝わり、翌三日には福島県にまで達しております。
 流言の火種はありました。横浜市中町に住む山口正憲という、立憲労働党総理を自称する男が、「横浜震災救護団」なるものを組織し、手下と共に武器を手に、類焼を免れた商店や外人宅を回って、食糧・金品を強奪したことがあげられます。誰言うとなく、この連中は朝鮮人ではなかろうかという憶測が生まれました。これに事実誤認も加わります。西府村の二階堂友治は、京王電鉄から笹塚車庫が半壊したから修理に来てくれという依頼を受け、朝鮮人労務者18名をトラックに乗せて、甲州街道を現場に向かいました。ところが、これが不逞鮮人がトラックに乗って襲来するという噂が実現したものと受け取られ、烏山で自警団により全員がトラックからひきずり下ろされ、死亡1名、他は重軽傷という暴行を受ける始末となりました。

 これはひどい