なぜ「インドでは、「○○」と教えるそう」というテキストがダメに感じるか
これは以下の日記の続きです。
→諸般の事情で、Twitterからは距離を置くことにします。あと娑婆の話
「インドでは、「○○」と教えるそう」という、その情報が「引用元の不明確な(ゆえに、正確な引用かどうかも不明な)」情報である、ということは「ネットで疑似情報は流さないほうがいい」という、ぼく自身の(ぼく自身だけかも知れない)情報提供者・流通者に関するダメ感がありますが、
→はてなブックマーク - 諸般の事情で、Twitterからは距離を置くことにします。あと娑婆の話
barbieri 「いい話なんだから、真偽は関係ない」 あ〜これどこかで聞いたな。水伝とかでwwww
↑このコメントで更に腑に落ちる。それかも。
→「水からの伝言」を信じないでください
→ともかく、「ありがとう」がよい言葉だと教えられるのだから、それでよいのでは?
本当にそうでしょうか? 教えたいことが正しいとしても、本当ではない「実験事実」を本当だといって(つまり、ウソをついて)教えてしまっていいのでしょうか? 実は、このような「実験事実」は本当ではなかったと、あとになって生徒たちが知ったとき、その授業についてどう考えるでしょう?
また、科学的なことは別にしても、「きれいな結晶ができるのは、よい言葉」などと教えていいものでしょうか? 見た目のきれいさ、汚さだけに、とらわれてはいけないということも、道徳で習うことですよね。
そして、もっとも大事なことは、なにが「よい言葉」でなにが「わるい言葉」かというのは、人の心についての、とてもむずかしい問題だということです。こういう問題については、私たちが、人として、いっしょうけんめいに考えて、少しずつ答えをみつけていくべきなのです。「水の結晶」なんかに答えを教えてもらうべきではありません。
「水からの伝言」が科学に対して失礼なのと同じくらい、「インドでは、「○○」と教えるそう」は、俺の感じとしてはインドに対して失礼(実在のインド・インド人がどう思うかは不明だけど)。
これが「インド」ではなく「ゾロアスター教徒」とか「サントメ・プリンシペ民主共和国」だったら?
あるいは、これが「よい言葉」ではなく「わるい言葉」だったら? たとえばこんなの。
日本の親は、「人に迷惑かけちゃダメですよ」と教えるが、○○では、「お前は人に迷惑をどんどんかけなさい」と教えるそう。
○○が日の丸組の喜びそうなものだったら、公式リツイートしまくる日の丸組と、「それどこ情報よ?」と疑問に思う普通の人たちのリツイートが同じぐらい並ぶことは想定できる。
俺にとっては、嘘・疑似情報の可能性がある場合は、その内容がよい・悪いに関係なく、その情報を流している人間には肯定的になれない。
以下、今回情報を流布させた人ではなく、元ネタになったと思われる、ひろさちや氏のテキストについて語ります(否定的・疑問的に扱います)。ただし「元テキスト」(書籍としての『こだわりを捨てる―般若心経』)に関しては未読である、という条件下ではありますが。
→般若波羅蜜多心経>
あるときわたしはインド人と話していて、
「日本では真の宗教教育が行われていない。それで日本の教育はおかしくなっている」
と言いました。するとインド人は、当然のことに、「じゃあ日本では、どんな教育をやっているんだ?」と訊いてきます。そこでわたしは、
「日本では、親は子に、学校の先生は子どもたちに、
"他人に迷惑をかけるな!"
と教えている。こんな教育はおかしいだろう・・・・・・」
と答えました。それでインド人は、わたしの言わんとすることを納得してくれました。だが、横にいた日本人には通じません。当然ではないか!?そう教えて、なぜいけないのか!?日本人はそうわたしに尋ねました。
だから、わたしは、それじゃあインドでは、こどもたちがどう教わっているか、インド人に聞きなさいと応じました。インド人はニコニコしながら、
「わたしたちは子どもたちに、"あなたは他人に迷惑をかけているのですよ"と教えています」
と答えてくれました。わたしに言わせるなら、これが本当の宗教教育なんです。
まず、この「インド人」は実在するのか、実在するとしても「インド人一般」の「宗教教育」に関することなのか。
そもそも、ひろさちや氏が会って「宗教(教育)」の話をしたインド人は、「ヒンドゥー教徒」の可能性が高いわけですが、
→インド - Wikipedia
インドの人口に占める各宗教の割合: ヒンドゥー教徒80.5%、イスラム教徒13.4%、キリスト教徒2.3%、シク教徒1.9%、 仏教徒0.8%、ジャイナ教徒0.4%(2001年国勢調査)
仏教とヒンドゥー教とは関係ないので、『般若心経』「娑婆」について語る文脈で「インド人」を出すのは不自然。
ひろさちや氏が会った人が現役のインド人仏教徒だとしても(その可能性もけっこうある)、インド人の中では少数派であり、インド人一般のような形での汎用は不可能。また、インドの現役仏教徒と日本の仏教諸派とはいろいろな意味で違っていることは想定できるので、「日本の教育」「宗教教育」という言葉の定義からずれている可能性はある。
そもそも「他人に迷惑をかけるな!」は「宗教教育」なのか。倫理・道徳教育ではないのか。日本に、公的な意味での「宗教教育」は、クリスチャン系・仏教系の私立校を除くと存在しないと思う(存在そのものがメジャーではない)。なおかつ、「インド」で「宗教教育」が存在するのか、皆目わからない(調べればわかるかな?)。
「宗教と関係のない日本の教育の教え」と、「日本ではその真偽が不明な(多数派かどうかも不明な)インドの宗教教育の教え」とを並列して語り、後者を「本当の宗教教育」と断言する、ひろさちや氏の立ち位置が謎。
ということで、
→http://twitter.com/atomchildren/status/23999155050
以前、どこかで聞いた話。日本の親は、「人に迷惑かけちゃダメですよ」と教えるが、インドでは、「お前は人に迷惑かけて生きているのだから、人のことも許してあげなさい」と教えるそう。前者は、息苦しさを、後者には、ホッとするものを感じる。迷惑かけずに生きられるわけない。
→http://twitter.com/kamekoo18/status/24404862707
日本の親は、「人に迷惑かけちゃダメですよ」と教えるが、インドでは、「お前は人に迷惑かけて生きているのだから、人のことも許してあげなさい」と教えるそう。前者は、息苦しさを、後者には、ホッとするものを感じる。迷惑かけずに生きられるわけない。
これのテキストに関しては、元ネタテキストがかなり謎テキスト、と俺の心の中では強く感じる。
参考リンク。
→悪びれない人たち〜「恥の文化」に対する反逆者たち - 木走日記
他のアジアの国の親たちが、とにかく自分の家族をまず大切にし友人や他人に対する配慮にはあまり重きを置いてはいないのに比し、日本(東京)の親たちは、何よりもまず、友人や他人への配慮を子に求めているのです。
↑「日本の親は、「人に迷惑かけちゃダメですよ」と教える」に関しての根拠に、少しはなるだろうか。
→「他人に迷惑をかけない」という要請は、現代の子ども達の適応に何をもたらすのか(汎適所属)
「他人に迷惑をかけるな」、という時の「他人」の相違点(1948年と2006年)
↑追加考察。
→らばQ:「日本ってすごい…」外国人が日本で撮ったゲームセンターの写真が話題を集める
・オレは日本人の友達とゲームセンターに入ったことがある。彼はアル中でボトルから直接ワインを飲んでいて、彼が飲みながらゲームするのを周りの中学生や高校生が見ているのに、誰も何も言わなかったよ。
えー!? まぁ俺は、電車の中で酔っ払いがクダ巻いてたら、黙って別の車両に逃げる根性無しだけど…。
あと、基本。
→般若心経 ひろさちや訳
→摩訶般若波羅蜜多心経 - Wikisource
→【初音ミク】般若心経ポップ【PVつき】
↑何ですかこれは。今ひょっとしてブーム?