スタニスワフ・レム=インタビュー(5)

 これは以下の日記の続きです。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20110301/lemd
 レムのインタビュー、続きます。

問:SFのほかにどんなものをお読みですか? アメリカやイギリスのSFを多く読んでおられますか?
レム:では、ほぼ全リストを提出しよう。まず、ヘラルド・トリビューン(パリ版)、ニューズ・ウィーク、フランスのレクスプレス、ルモンド、フィガロを読む。それから、ル・ヌヴェル・オプセルヴァテール、それとときどきニューヨーカーの類。
 次に----サイエンティフィック・アメリカン、シャーンス・エ・ヴィ、サイエンス(英国の)、ディーダラス。それから、ソ連のプリローダ(「自然」)、テクニカ・モロデスニイなど、ポピュラーなものポピュラーでないものとりまぜて科学雑誌類。そして手に入る新しい科学書
 ついでフィクション類。アメリカのものでは、メイラー、マラムッド、ベローが大好きだ----そして、本当のことをいうと、『雨の王ヘンダースン』のような優れた本一冊には、一トンのSFよりも、なお適切な情報が含まれていて、わたしにとっては大きな価値がある。
 わたしはまた、フランスと西ドイツの文学も知っている。もちろん、ある程度までだ。1日は24時間しかない。ところがわたしの見るところ、ここ10年間のフランス文学は空白状態にある。ドイツの状況もさして変わりがない。ドイツの作家アルノ・シュミッドのSFないし擬似SF的作品をご存知か? とても面白い。アメリカSFに似ていなくても面白いので、翻訳ではないと思う。
 
問:あなたの作品がポーランドや西側諸国で人気があるのはなぜだと思いますか?
レム:わたしの人気の理由は知らない。わたしの意見はほかのどの意見とも同じくらい正しい。わたしの作品がさまざまな国で同一の理由で人気があるとは思わない。
 わたしの非フィクションの著作も知られているソ連でわたしが重視されるのは、まあわかる。ソ連の人々にとってわたしは、いわば賢人と芸術家とコンピューターの雑種(あいのこ)だ。わたしに来るファンレターでいちばん多いのはソ連からのもので、ありとあらゆる種類の原稿がついていて、素質もある。ドイツからも来る。
 何をもってわたしは評価されているのか? ファンレターを統計的に分析して有効な回答が出せるかどうかは疑わしい。なぜなら、あれが好き、これが好きというのを知ることと、「なぜ」「何が原因で」そうした感情移入をするのかを詳述することとは、まったく別のことだからだ。
 ただ一ついえるのは、困難な、不愉快な、あるいは答えられない問いを、わたしは決して回避しない----仕事においては----ということだ。つまり、わたしは、ESP、予知、テレパシー、UFOの存在を信じない。だから、それらについては決して書かない。
 人気というものはまた、作者と読者との間の何らかの張力をも内包する。われわれはまだ楽園にはいない。わたしは、たとえばこれこれの題材、主題についてもっと書いてくれとか、純理的な論文は書くなとか、注文される。時間があればいくつかの手紙に返事を書き、根拠を示して反論するが、わたしの心は変わらない。つまりわたしは、自分の選択に関しては----自分の流儀においては、断固不動なのである。文学によって世の中が救済されるなどということは信じない。ただ、書くことにおける精神的、知的な価値は信じる。
 たぶんわたしはこう細くすべきだろう。わたしにまったく接触してこないか、接触のありかたが不分明な読者の集団もある、と。たとえば、ハンガリーや……日本の読者だ。彼らがわたしの作品をどう思っているか、わたしは知らない。どちらの国でもわたしの本が出版され、版を重ねているが、ハンガリー語そして/あるいは日本語を学び、わたしの作品についての批評を読むだけの余裕がわたしにないことは、理解してもらえると思う。
 
問:西側の人間がポーランドのSFやポーランド文学の伝統に比較的無知であることが、われわれがあなたの作品を鑑賞するうえで妨げになるとお思いですか?
レム:いや、そうは思わない。第一に、ポーーランドにはSFの伝統など何もないからだ。アメリカのSF雑誌に載った『ソラリス』の書評を二、三見たが、書評子はこういっていた。「『ソラリス』の異質性は明らかに「東ヨーロッパの伝統」によってもたらされるものに違いない」これはとてもおかしかった。なぜならわたしはそういう伝統について何も知らないからだ。スラブ系には一人、偉大なSF作家がいた。カレル・チャペックである。わたしは彼の作品が好きだ。だが、「伝統」の総体ねえ? いや、そんなものはないのだ。
 ポーランド文学の伝統となると----もちろんわたしはいくつか、西側の読者にはまったく理解できない小説を書いている。というのは、そこにはわが国の(ポーランドの)社会文化的、歴史的背景への強い依存があるからだ。しかし全体としてみればそれらはわたしの作品のほんの一部である。
 わたしが遭遇する困難はむしろ言語の特性上の困難だ。わが国の国語の中心的な力は内的な単語構成の統合法レベルに集中している(西欧の言語には見られない気まぐれな変化をする)。しかもさらに都合の悪いことには、わたしの力を入れる部分は新造語なのだ。それらは翻訳することができない。同等なものを「再発明」しなくてはならない。これは非常に困難な作業だ。わたし自身、そんな芸当はとてもできないだろう。
 しかし、わたしの生まれ育ちとは関係のない、別の問題がある。洗練度、わかりやすさ、わたしの作品の全般的なレベルは一定ではない。徐々に上昇している。
 わたしの初期の作品は、実際、単純なものだった。のちに書いたものはずっと精巧化されている。これは計画していたわけではない。アタックする問題が困難になればなるほど、その解決も複雑化するのだと思う。
 全体としてわたしは、自分の作品がそんなふうに複雑さを増してきていることを喜ばしく思っているとはいえない。わたしはなるべく単純な書き方で書きたいのだ。
 しかしそこで決断が必要になる。CETIとして知られている問題をとりあげていただきたい(地球外知性とのコミュニケーションのこと----ds)。地球外知性との有名な「テレパシー」的コミュニケーションといったようなものが存在するなどと、わたしは一瞬たりとも本気で信じることはできない。この「解決法」は正当なものではない。解決法ですらない。単純な子供だましの手品にすぎない。理論的言語学においても、比較人類学においても、文化相互間のギャップを「テレパシー」によって狭めようと考えること自体、まったくのナンセンスになる。わたしにとって何の認識的価値もないそんな概念をもとに、どうやって小説を構築できよう?
 あるいは人間と知的機械との関係をとってみよう。わたしはそうした機械が神の概念に自動的に代替するとは信じない。だから、そういう方向に進むSF作品のすべては、読者としてのわたしにとってはナンセンスなものだ。*1こうした「解決」は何の価値もない。わたしにはそれをどうすることもできない。
 科学さえも、神秘的な思考にからまるとてもナイーブな外捶的傾向におちいっている----たとえば有名な、サイバネティックス論争だ。はたしてわれわれはうかつにも、われわれを滅ぼす、あるいは支配する新しい人工的な生物を作っているのか? 未来は危険に満ちている。こればかりは、歴史的に知られている危険に還元することができない。
 
問:あなたはSF作家やファンよりも科学者のほうを多く知っていると言っておられる。科学と彼ら、あなたと彼らの関係はどのようなものですか?
レム:わたしの知り合いの----科学者ということかな? そうだな、ノーベル賞受賞者二人と、何人かの宇宙物理学者、サイバネティックス学者、などを知っている----何年も会っていない。大半はソ連人だ。わたしは、残念ながらあのCETI会議に参加しにアメリカへ行くことはできなかったが、その会議の成果を集めた中にわたしの論文もいっしょに出版されるはずだ、彼らにとってわたしは必ずしも作家、つまりSF界の人間ではない。わたしはときにはあっさりと、彼らのいわば同輩になる。
 わたしは専門的な科学雑誌にいくつかの論文を発表している(たとえば理論生物学について、倫理基準と科学技術の変化との関連について、「他者」との星間的コンタクトの技術的前提についてetc)。だからそういう問題について議論する----手紙を書く。彼らもわたしに手紙を書き、新しい本を送ってくれ、わたしもできるだけのことを彼らのためにする。
 わたしはわが国の宇宙飛行協会やサイバネティックス協会の会員だったが、時間のやりくりがつかず----本気で仕事をするためには----また、何であれ名ばかりの会員であることをわたしは好まない。だから脱退した。しかし、何人かの真に才能ある科学界の人たちとの友情からは脱退していない。
 さて、このあたりでおしゃべりも終わりとしよう。わたしはこのおしゃべりが気にいった。なぜなら、困難なことがわたしは好きだからだ----そしてもちろん、自分が話さない言語で明確に表現するのは容易なことではなかった。だから、わたし自身についていささか説明するこうした機会を与えてくれたことに感謝する。

 これでインタビューは終わりですが、その後にレム自身の膨大な「補注」がありますので、それを次からは掲載します。
『雨の王ヘンダースン』(『雨の王ヘンダソン』)は中古で入手可能です。

雨の王ヘンダソン (中公文庫)

雨の王ヘンダソン (中公文庫)

生に倦み、内的欲望に駆られ、富からも教養からも逃れ、アメリカを捨てアフリカ奥地をさまよう初老の男ヘンダソン。その空しい冒険を乾いた笑いのうちに描き出し、病める現代の混沌と無秩序を暴く、アメリカ文学の白眉。

 これは以下の日記に続きます。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20110304/lemf
 

*1:訳注4 SFにおけるロボットの扱いを論じたレムの文章としては、『サイエンス・フィクションにおけるロボット』(久霧亜子・訳。NWSF9号)がある。