米軍機事故で亡くなられた子供の裕一郎(ユー)君は、本当に「パパママバイバイ」というのが最後の言葉だったのか

↓以下の日記の続きです
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20041011#p1
JANJANの、以下の記事に対するこんな「ご意見」に驚愕して、少しまとめてみます。
http://www.janjan.jp/area/0410/0409309364/1.php

「パパママバイバイ」をgoogleで検索すると、たくさん出てくるようです。
これは、亡くなった当時3歳だった長男の「ユー君」の最後の言葉です。

いやそれ、間違ってるんですけど。間違ってると断定してはいけないかな。この事件に関しては公式の記録は存在しないので。なぜこんなことがネットで流布しているかというと、多分以下のようなサイトの記述が影響しているのか、と。

↓パパママ・バイバイ 横浜市緑区(現在の青葉区)の米軍機墜落事件<1977年>
http://www.cityfujisawa.ne.jp/~t.a.arai/takashi/atugikiti/papamamabyebye.htm
↓事件の概要〜ある日、突然〜
http://www.02.246.ne.jp/~origin/tuiraku/gaiyou.html

 青葉台病院に収容された林裕一郎君(昭和49年8月24日生まれ・当時3歳)と、弟の康弘ちやん(昭和51年3月28日生まれ・当時1歳)は、全身大やけどを負い包帯でぐるぐる巻きにされ「水をちょうだい、ジュースジュース‥‥」と叫びましたが、容体が悪化するので水もジュースも飲ませてもらえませんでした。
 そして、この日の深夜‥‥‥。
 青葉台病院には2人の幼さな児と椎葉悦子さん、林早苗さんらの大やけどを負った被災者が収容され、夜になってもあわただしい時間が過ぎていきました。
 午後10時過ぎに、裕一郎君は「痛い いたいよう‥‥」「水、みずをちょぅだい‥」の叫び声の合い間に黒いどろどろした物を吐くようになり、急速に弱々しくなっていきました。
 「おばあちゃん、パパ ママ バイバイ‥」の声を残して裕一郎君が息を引き取ったのは、午前零時50分のことでした。弟の康弘ちゃんも嘔吐が始まり、父親の一久さんらの必死の励ましの中「ポッポッポ」と鳩ポッポの歌をかすかにうたいながら翌日、未明の4時30分幼い生命を閉じたのです。

これはいずれも元テキストは「わたしたちはわすれない米軍機墜落事件」(<1997年>横浜・緑区(現・青葉区)米軍ジェット機墜落事故20周年行事実行委員会)に依拠しているようですが、俺の見た限りではこの「米軍ジェット機墜落事故20周年行事実行委員会」が残しているデータ・資料は、いささかイデオロギー的な偏りが感じられて、そのまま全面的に信じてはいけないかな、と思っています。

↓前の日記で土志田(林)和枝さんの遺稿集『あふれる愛に』(新声社)を元に、俺は以下のようなことを言ってみましたが
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20041008#p1

『あふれる愛に』という本が提供する物語は、和枝さんの不幸のそもそもの原因である米軍ジェット機の墜落事故や、それにともなう施設局の対応についての非難・批判ではありません。もちろんすべては事故からはじまり、それがなければ多分亡くなられた子供は今は三十代で、和枝さんも孫がいるおばあちゃんの年になっています。俺にとってこの事件で考えさせられたことは、治療に成功しない医師と、それが招く最終的な不幸の大きさ・重さでした。

あー、読み返してみたら、事故が起きたのは1977年、27年前なので、二人の亡くなられた子供がもし生きてたら裕一郎君はちょうど30歳、康弘君は28歳ですか。和枝さんは当時26歳なので現在53〜4歳。「孫がいる」ほどの年ではないかもですね。
それはともかく、精神病院へ和枝さんが国によって「強制転院」させられたとか、その部分を掘り起こしてみただけでも「わたしたちはわすれない米軍機墜落事件」とそれに依拠するテキストは怪しさ満載だったわけですが、この「パパママバイバイ」という言葉が裕一郎君の最後の言葉だ、と言っているところで怪しささらに倍、という気分です。
まず、いちばんすごいところから言ってしまいます。早乙女勝元さんの絵本(というか、子供向きの読み物のセミ・ノンフィクション)である『パパママバイバイ』の中ですら、この言葉はユー君の最後の言葉として語られていません
驚きましたか? 俺も早乙女さんの本を実際に読んで、腰が抜けるほど驚きました。
公的な記録が存在しないため、「実際に何があったか」については、当時の関係者の証言ということに頼らざるを得ないのですが、早乙女さんの著作の中では、そのあたりの状況については、以下のように記述しています。P17-18。

(引用者注・以下は「親せきのおばさん」のセリフとして語られます)
「…裕ちゃんは、ワァーワァー泣きながら、さかんにあばれて、『お水をちょうだい。ジュースを、ジュースをちょうだい。』
 と、せがみました。
 やりたいのはやまやまでしたが、ジュースもお水もとめられているのです。病気がもっと重くなるというからです。そのうち、幼い力もつきたのでしょうか。あばれかたも弱まって、ふうっと、静かになりました。
 かすかに口もとを動かして、
バイバイ』……って」
 ときに、九月二十八日の午前零時五十分。
 そして、すぐまたおニイちゃんのあとを追いかけるように、同日午前四時三十分、ヤス君が息を引きとりました。やんちゃな、仲のいい兄弟の悲しいさいごを見守った親せきのおばさんは、涙ながらに語りつづけるのです。
「康弘ちゃんは、やけどの痛みを伝えることばも知らず、ベッドの上で、前身ぐるぐるとほうたいに巻かれていました。目と口以外はまっしろで、かわいそうで、かわいそうで……。それでも、
『パパ……パパ……』
 と、かすれた声で、何度も何度も呼んでいました。
 明け方ちかくになって、なにか口ずさむような声が、ひくく、かぼそくきこえてきました。
ポッポッポー……
 死線をさまようなかで、もう痛みもうすれてきたのでしょうか。それは、いつもおとうさんといっしょのおふろで、おとうさんが口ぐせに歌ってきかせた鳩ぽっぽの歌でした。歌をうたいながら、康弘ちゃんは……とうとう……息をひきとったのです。この世に生まれてきて、たった一年ちょっとの生命でした」

滂沱。滂沱フォン。
いやここでオヤジギャグを言ってはいけませんが、「本当にあったことに極力近い証言」は、泣かせるものがあります。
で、そのあとに、早乙女勝元さんによる以下の「詩」が続きます。P18-19。

鳩を さがしに出かけていったのだろうか
鳩を 追って駈けていったのだろうか
  まだ かけることも
  あるくことさえ おぼつかない足に
  小さい靴を だれがはかせてやったのか
みんなが ねむっているまに
みんなが ゆめをみているあいだに
ゆめと ゆめのすきまを するりとぬけて
  <パパ、ママ、バイ・バイ>

このあとも詩は続きますが、要するに「パパ、ママ、バイ・バイ」というのは、早乙女さんが二人の子供の死によってイメージ的に喚起されたところの創作的語句。はっきり言って嘘。テキストであるこの詩の中でも、このセリフは特にどちらかが口にした、みたいな形にはなっていません。
これを「「ユー君」の最後の言葉」と言ってたり、そのようにネットで紹介したりしている人は、その論拠をもう少しちゃんとさせて欲しいところです。
ちなみに、土志田(林)和枝さんの遺稿集『あふれる愛に』では、その部分は以下のように書かれています。P34。

 ようやくの思いで一久さん(引用者注・和枝さんの夫)が青葉台病院にたどりついたとき、すでに裕一郎くんの小さな体は呼吸をやめていた。付き添っていた一久さんの母マツエさんに、
おばあちゃんバイバイ
 それが最後の言葉だった。九月二十八日午前零時四十分。
 マツエさんが泣きながら言う。
「あの子は、あの子は最後まで水をほしがって。水を、ジュースをちょうだいって……。かわいそうに」

次は、康弘君の最期について。P36-37。

(この子もダメなんだろうか)
 刻一刻と、一久さんの胸に不安が増大していく。何とかできないのか、この子のために何かしてやれないのか。いてもたってもいられないあせりの中で、一久さんはふと思いついた。
「なあ康弘、パパと一緒にハトポッポの歌をうたおうか」
 ハトポッポの歌。それは一久さんが毎晩、康弘くんと一緒にお風呂に入りながら教えてきた歌だった。
 その歌をいま一緒にうたうことで、康弘くんが少しでも元気をとりもどしてくれたら、と一久さんは思ったのである。
「いいかい康弘、うたうぞ。ポッポッポ、ハトポッポ……」
 さあ康弘、元気を出すんだ。祈る気持ちで一久さんはうたった。
「ポ、ポ、ポ」
「ハトポッポ……」
 康弘くんの声がはっきりと聞こえた。
パパ……ママ……じいちゃん……ばあちゃん
 突然、康弘くんがそう言った。一瞬、まわりの誰もが息をのんだ。パパ、ママは言えても、これまで一度も言えなかった言葉----じいちゃん、ばあちゃんを、このときはじめてはっきりと言った。
「先生、なんとかしてください」
 けんめいに心臓マッサージや人工呼吸が繰り返される。
「康弘、康弘……」
 康弘くんは何も答えなかった。

さらに滂沱
関係者の証言でありながら、少し記述に違いは見られますが、とりあえず「パパ、ママ、バイ・バイ」は伝説のセリフで、実際のものではない、ということはわかると思います。
以後この件(事件)に言及する人がもしいるようだったら、

「パパママバイバイ」は、米軍機墜落事件で亡くなられた二人の子供(ユー君、ヤス君)の最期の言葉を元に、作家・早乙女勝元さんが作られた本の中に出てくる詩の一節です。

とするのが多分正しいんじゃないだろうか、と。
なお、早乙女勝元さんの『パパママバイバイ』は、一部の記述に「はっきり言って嘘」なんてひどいことを言ってしまいましたが、全体には「反米! 安保許すまじ!」なんてイデオロギー的に声高に言っているものではなく「戦争とか兵器は嫌だねぇ」と、いささか枯れた爺さん的部分が感じられて(やはり実際の戦争体験者は違います)、左寄りの人の過激なテキストに抵抗感を感じる人でも、さほど無理なく読むことができるんじゃないかと思う、基本的にいい本でした(一部、記述に疑問を感じる部分もありましたが…これは後述)。早乙女勝元さんはいい人です(多分)。『東京大空襲』を読んでみたくなるぐらい。
イラストのほうも、なんか絵本的に省略されてますが、ファントムや自衛隊の救助ヘリコプター(S-62J)もちゃんとそれっぽく書かれていていい感じです。
そんな、この事件の要でもないセリフの一部にこだわるなんて、どうでもいい、と思っている人は多いような気がしますんで、次にいっちゃうよ
(本日は二番もあるんだぜ)

米軍機墜落事故で、自衛隊のヘリコプターはなぜ和枝さんたちを助けなかったのか

この事件のキモであり、いくら自衛隊に対して弁護したがる人たちでも、さすがにこれは許せないと思うのがこのエピソードでしょうか。「わたしたちはわすれない米軍機墜落事件」(<1997年>横浜・緑区(現・青葉区)米軍ジェット機墜落事故20周年行事実行委員会)では、このように書かれているようです。以下孫引用。
↓パパママ・バイバイ 横浜市緑区(現在の青葉区)の米軍機墜落事件<1977年>
http://www.cityfujisawa.ne.jp/~t.a.arai/takashi/atugikiti/papamamabyebye.htm

3,自衛隊の救難ヘリコプターは 
 事件発生と同時に米軍から連絡を受けた自衛隊はすぐに救難ヘリコプターを厚木基地から緊急発進させ、事件発生の10分後には現地の上空に到着しました。
 しかし、救難ヘリは大やけどを負つて救助を求めている被災者を助ける事なく、墜落前にパラシュートで脱出し、はとんど無傷で地上に降りた2人の米軍パイロットを乗せて厚木基地に帰ってしまい、再び飛んでくることはしませんでした。

この件については、早乙女勝元さんの『パパママバイバイ』でも以下のように語られています。

(引用者注:事故の状況に関する現場の説明が入ったあと)
 現場に働いていた人たちは、そういっています。
 その人たちも、爆風ではねとばされたり、傷をうけたりしていましたが、外にいて見はらしがききましたので、とっさに難をさけられたのです。でも、自分のことはかまっていられません。火炎地獄の中から這い出してきた人は、一分一秒をあらそうのです。火ぶくれだらけの女の人を助けて、すぐさま、車で病院へ向おうとしたとき、路上に血だらけでたおれている男の子が……。
「両手両足はもとより、からだじゅうの皮がむけて、血のかたまりとおなじでした。もう声を出す力もないほどでした……」
 それが、小さなヤス君だったのです。
 そのとき頭上には、ぶるんぶるんとエンジンのうなりをひびかせて、一機のヘリコプターが飛びまわっていました。海上自衛隊の救難ヘリでした。
 いちはやく情報を知って、火ぶくれ血みどろの人たちを助けにきてくれたものとばかり、だれしも思いました。重傷の人たちの手当は、早ければ早いほどよいのです。どんなケガでもそうですが、とくにジェット燃料によるやけどは、皮膚だけではなく、筋肉まで焼いてしまいますから、その治療には、はじめの五、六時間がとても大事なのです。それにしても、事故のおきたとたんに、救助のヘリコプターがやってきたのは、ちょっと、手ぎわがよすぎるというものです。
 やがて、このヘリコプターが、だれの命令で、なんのためにやってきたのかがあきらかになりました。
 救助は救助でも、自衛隊のヘリが助けたのは、パラシュートを引きずって、ゆったり歩いてきた二人のアメリカ兵だったのです。
「サンキュー」
 よくきてくれた、といわんばかりです。
 アメリカ兵を乗せたヘリは、地べたにうずくまっている火ぶくれの人や、まだ燃えさかる樹木や人家にはおかまいなしに、ワッサワッサとプロペラを回転させ、またたくまに空高く舞いあがって、消えてしまいました。

「燃えさかる樹木や人家」の火を消すことは救難ヘリには難しいと思うんですが。
まず、この件に関して早乙女さんは次のように書いています。P27。

 納得できぬといえば、墜落機のアメリカ兵にも、それはあてはまります。二人の兵士が、パラシュートで地上についたとたんに、自衛隊機がかけつけてきたことを考えますと、兵士たちと、基地との無線連絡は、かなり前からとれていたはず。それだけのゆとりがあったとすれば、ジェット機からの脱出があまりにも早すぎた、といえそうです。

事実の確認は難しいですが、この事件に関してもう少し事実と思われることを紹介しながら書かれている著作『米軍機墜落事故』(河口栄二・朝日新聞社)では、自衛隊機の到着が早かった理由について、以下のように述べています。P9。

 この墜落を、偶然付近を飛行中に目撃した海兵隊のヘリコプター・スペース14の操縦士は厚木管制塔に、RF4B六一一機が墜落し、乗員が脱出したことを通報した。連絡を受けた厚木管制塔は海上自衛隊のヘリコプターを現場に向けるよう指示した。墜落から約二十分後、二人のパイロットは海上自衛隊の捜索救難ヘリコプターによって救助された。だが、そのパイロットの脱出時間は、あまりにも早すぎたのではないかと、のちに大きな非難の的になっていった。

パイロットの脱出時間は、あまりにも早すぎた」のかもしれませんが、基地(厚木管制塔)に連絡をしたのは別の航空機(海兵隊のヘリコプター)だったようです。早乙女さんの著作発表時(1979年3月)には不明だったことが、河口栄二さんの著作が出た時点(1981年9月)では分かるようになったことがあるかな、とも思いました。
また、自衛隊機が事故発生後どのくらいの時間で来たのか、についても一部違いがあるみたいです。「事件発生の10分後には現地の上空に到着しました」と、「わたしたちはわすれない米軍機墜落事件」(<1997年>横浜・緑区(現・青葉区)米軍ジェット機墜落事故20周年行事実行委員会)は書いているみたいですが、土志田(林和枝)さんの遺稿集『あふれる愛に』では、以下のように書かれています。P23。

 ファントム機のパイロット二人は墜落前に緊急脱出。地上の騒ぎとは対照的にパラシュートでゆっくりと空から降りてきた。降下場所は荏田町から三キロほど離れた緑区鴨志田町。
 地上に降り立った二人は、ほとんどケガらしいケガもなく、約二十分後に海上自衛隊のヘリコプターに収容され、厚木基地に運ばれた。五人の重傷者を出すという大惨事のさなか、自衛隊が活躍したのは、実にこの二人のパイロットの救助だけだったのである。

自衛隊機が到着したのが「10分後」で、アメリカ兵を救出したのが「20分後」という感じでしょうか。
ちょっと興味を持って、自衛隊機のスペックと距離などを見てみました。救助に使われたヘリは、以下のものだということは分かっています。
↓シコルスキーS-62J『らいちょう』のスペック
http://homepage1.nifty.com/KWAT/list/jmsdf/s-62m.htm

最大速度 167km/h(外部搭載なし)
巡航速度 150km/h

厚木基地(MapFanウェブ)
http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.27.12.3N35.27.15.9&ZM=5
緑区(現・青葉区)鴨志田町(MapFanウェブ)
http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E139.30.29.5N35.33.30.2&ZM=5
微妙
厚木基地から事故現場、というかアメリカ兵が降下したところまでの距離は、だいたい10キロぐらい。シコルスキーS-62Jの最高速度だと、10分で27キロ(巡航速度だと25キロ)行けるので、着けなくはないと思いますが。
さて、自衛隊機が到着するまでの10〜20分の間、現場の人たちは何をしていたでしょうか。119番に電話して、救急車の到着を待っていた、とか思っていたら大間違いで(それだったらたしかに、場所によっては自衛隊機の到着のほうが早かったかも)、もう大至急、救急車なんて頼りにしないで、現場から直でそこにあった車で、救急病院に怪我(火傷)をした人たちを運んでいます。これは俺も知ってびっくりしたことなんで、みんなも驚いてください。まず、『あふれる愛に』から引用します。P14-16。

 林さん宅からおよそ四百五十メートル離れたところに、造園会社の事務所がある。この会社に奥さんとともに勤めていた川村春雄さんは、このとき事務所の二階で打ち合わせをしていた。
 そこへ、すさまじい爆発音がとどろいた。つづいて階下で、
「飛行機が落ちたぞーっ!」
 と叫ぶ声を聞き、川村さんは窓にかけよった。そして、林さん宅から黒煙とともに火柱が三十メートルもあがるのを見た。
 事務所から林さん宅までは、走って五分たらずである。すぐさま駆けつけた川村さんは、家の前の畑の中に、和枝さん、早苗さん(引用者注:和枝さんの義妹です)、そして裕一郎くんと康弘くんの四人が立っているのを見つけた。
 和枝さんを見たとき、川村さんには最初、それが男なのか女なのか見分けがつかなかった。和枝さんの顔も手足も、火傷と血でどす黒くなっていたからである。髪はパーマをかけたように焼けちぢれ、上着は燃え落ちて下着姿だった。
 救急車を待つ時間はなかった。早苗さんと子供たちの方は、つづいて駆けつけた人たちにまかせ、川村さんは和枝さんの救助にあたった。
 まず、一緒に来た奥さんの前かけをかりて、和枝さんの体をくるんだ。そして、同じく駆けつけていた、近くの東急建設小黒作業所員の車に乗せようと、足首をつかんで持ち上げた。そのとたんにズルッと皮膚がむけた。それほどひどい火傷だった----。
 病院へ向かう車の中で、和枝さんは、やけどの痛みにうめくながらも、付き添っていた川村さんに何度も子供たちの安否をたずねた。

『米軍機墜落事故』(河口栄二・朝日新聞社)では、事故直後については以下のように書かれています。P10。

 青葉台病院に最初に運び込まれたのは、椎葉悦子、ついで林裕一郎、康弘兄弟、林早苗の純であった。いずれも事故現場から五十メートルほどのところで宅地造成工事をしていた東急建設小黒作業所の社員が運転する車によってである。林早苗は義姉の林和枝とともにまず、国道二四六号に面している永楽整形外科病院に運ばれたが、この病院には医師一人と看護婦二人しかいなくて、とても重傷患者二人を同時に診られる状態ではない。とりあえず早苗だけが青葉台病院に移された。しかし診察を受けた和枝の熱傷は医師の予想をはるかに越えるひどいもので、結局和枝も手に負えないと判断され、応急処置のすえ救急車で昭和大学藤が丘病院に転送されることになった。

続いて、P22。

 和枝は逃げるとき、二メートル下の畑に一気に飛び降りたので、左腕をつき、骨折した。上半身の衣服はなく、スカートも燃え、下着だけのかっこうになっていた。裕一郎と康弘は駆けつけた武内清の車で青葉台病院に、和枝は橋爪茂利雄の車で、早苗は樋口義人の車で、それぞれ運ばれていった。

東急建設小黒作業所の社員のかたはとてもいい人です(多分)。建設会社の現場の人なら、動かせる車も持っていただろうし(1970年代後半の車の普及率はよく知らないですが)、救急病院に関する知識も当然、現場の事故ということがあるので頭の中に入っていたことでしょう。
そんなわけで、自衛隊のヘリが現場に到着した際には、はっきり言って救援すべき民間人(怪我している人)がいない状況だったんじゃないかと。
また、少しやっかいなことに「自衛隊法」というものもありまして。
自衛隊
http://www.houko.com/00/01/S29/165.HTM

災害派遣)第83条 都道府県知事その他政令で定める者は、天災地変その他の災害に際して、人命又は財産の保護のため必要があると認める場合には、部隊等の派遣を長官又はその指定する者に要請することができる。
2 長官又はその指定する者は、前項の要請があり、事態やむを得ないと認める場合には、部隊等を救援のため派遣することができる。ただし、天災地変その他の災害に際し、その事態に照らし特に緊急を要し、前項の要請を待ついとまがないと認められるときは、同項の要請を待たないで、部隊等を派遣することができる。
3 庁舎、営舎その他の防衛庁の施設又はこれらの近傍に火災その他の災害が発生した場合においては、部隊等の長は、部隊等を派遣することができる。
4 第1項の要請の手続は、政令で定める。

この「要請することができる」という部分の解釈が微妙なんですが、なんか阪神大震災以前は「要請がないと動けない」的に解釈されてたかもしれません(これは推測なので本当のところは不明。もう少し判断の材料が欲しいところです)。救難の要請が出ていたのは、自衛隊機が現場に向かった時点ではパイロットだけだったということで、いささか杓子定規的な判断もあったのかも。
さらに悪い状況としては、1979年1977年当時の横浜市長は、当時の社会党委員長を兼任するその年の11月に社会党委員長兼任となる革新系の飛鳥田一雄さん。「自衛隊は存在そのものが悪」なんて言っていそうな人が、果たして自衛隊に救難要請を的確なタイミングで出せたでしょうか(出したとしても数時間後とか)。
飛鳥田一雄ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E7%94%B0%E4%B8%80%E9%9B%84
俺が当時、自衛隊の幹部クラスで、「要請を待たないで、部隊等を派遣することができる」ような立場の人間だったとして、革新系市長のこわさを知っており、なおかつ嫌な性格の人間だったとしたら、現場で死にそうな人を見かけたとしても、要請なしで助けるかどうかは微妙です。助けられなかったら絶対革新系市長から「自衛隊のせいで殺された」と言われるに決まっているからです。石原慎太郎都知事が首長である今の東京だったら絶対、「なぜ助けなかった」と逆方向で激怒されるのは目に見えているので、アメリカ兵なんか放っておけ、という指令を出すと思いますけどね。

次に続きます。
(三番もあるんだよ)

アニメ『パパママバイバイ』を教材に使っちゃまずいだろ、という話

で、この早乙女勝元さんの『パパママバイバイ』はアニメにも当時なったみたいですが、
岸和田市だと貸し出ししてくれるみたいです
http://www.city.kishiwada.osaka.jp/hp/m/m252/jiti-sinkou/heiwashiryo/video.html
それを国立第二小学校が教材として見せたことで、石原慎太郎都知事(というか、お殿?)がお怒りの発言をしていたみたいです。
↓都議会議事録・平成12年第3回定例会  9月27日 一般質問 〔古賀 俊昭 議員〕
http://www.gikai.metro.tokyo.jp/gijiroku/honkaigi/2000-3/d5230320.htm

〇六十八番(古賀俊昭君) 知事及び教育委員会に質問をいたします。
(中略)
 次に、国立市立第二小学校で行われている異常な偏向教育についてであります。
 国立市立第二小学校は、今春、ある意味で全国的な、有名な学校となりました。卒業式が行われた三月二十四日、屋上に国旗を掲揚した校長に対して、児童が、謝れ、土下座しろと迫りました。まるで、あの紅衛兵の再来を想起させる事件であります。しかし、これは、子どもの心をここまでむしばんだ、反日教師たちの悲しむべき犯罪的偏向教育の結果にほかならないのです。
 去る八月、東京都教育委員会は、これらの一連の問題について厳正な態度で臨み、服務規律違反のあった教員に処分を断行したことは、至極当然のことであります。該当教員はもちろんのこと、教育に携わる関係者は、厳粛にこれを受けとめて、公教育の信頼回復に努めなければなりません。
 しかるに、この偏向教育に国民の強い批判が集中している際の六月、同じ国立第二小学校の三年生の学級で、「パパママ、バイバイ」というビデオを用いた授業が行われました。私も見ました。米軍の飛行機が住宅地に墜落した事故を題材にしたアニメ映画です。事故自体は、幸福な家庭や人命を一瞬にして奪った、まことにむごく痛ましい、本来あってはならない事故であることは当然です。
 しかし、だからといって、この事件を題材にして、小学校の子どもに、日米安保条約自衛隊をなくさなければ平和が来ない、自衛隊は、日本人を見捨ててアメリカ兵を助けるためのもので、国民の敵だと教えていいとは思えません。
 私は、日米安保体制は克服されなければならないと信じていますが、我が国の防衛についての政策判断によって、その必要性が民主的手続を踏んで選択されている以上、幸せな家庭を悲劇と苦痛の奈落に突き落としたアメリカと自衛隊が憎いと、怒りをアメリカと自衛隊に向けさせるよう、子どもの心にそうした心理を誘導するのは、子どもにとって決して好ましいことではないばかりか、公教育としての責任を放棄するものといわざるを得ません。
 このビデオは、実に巧妙につくられており、数多くの指摘されるべき問題がありますが、そのうちの一つは、自衛隊のヘリコプターが二人の米兵を救出する場面です。男の子が、助けにきたぞと叫ぶのですが、ヘリコプターは反転して、米兵のみを乗せて飛び去る。ちくしょうと、子どもがこのヘリに石を投げつける。つまり、被害者を見殺しにする自衛隊として描いているのです。自衛隊感情を植えつけようとする意図は明白ですが、もしかすると、このビデオ授業を受けさせられている児童の両親等の家族の中に、自衛隊の人がいるかもしれないということです。この偏向教育をした教師には、そうした感覚や、教師としての配慮はみじんもないのです。公正中立であるべき公立の小学校で、まだ八歳のいたいけな子どもたちに、平和教育の名をかりて、自衛隊への否定意識をすり込もうとしたもので、到底許すことはできません。
 この問題は、都議会文教委員会や新聞でも取り上げられましたが、それでも、この授業が行われた日時等が明確になっていないのです。そこで、この偏向授業の事実経過とその内容及び東京都教育委員会国立市教育委員会の対応についてお答えください。
 国立二小では、ほかにも、毎年五月一日のメーデーに、全校児童生徒を対象に、反戦映画が上映されています。これは第二小学校だけの問題ではなく、国立市の小中学校で類似の課題があると思います。こうした異常な事態に一日も早く終止符を打たなければ、公立学校に対する都民の信頼は、根底から崩れてしまいます。東京都教育委員会は、教育荒廃の末期的症状を示す国立市の公教育をどのように改善するつもりか、伺いたい。
 石原知事は、この国立市で行われている、自分たちの政治的主張を押しつけようとする一部教員による学校の私物化と学校支配について、どうお考えになりますか。都民である東京の子どもたちが、こうした異常な授業にさらされているのです。見解をお聞きしたい。
(中略)
〇知事(石原慎太郎君) 古賀俊昭議員の一般質問にお答えいたします。
(中略)
 次いで、国立市立第二小学校の授業についてでありますが、公教育というものは、法に基づいて公正中立に行われるべきものであります。教育公務員は、国民全体に奉仕する立場にあることを自覚すべきであります。教員の資質向上も含めて、そろそろ大胆な教育改革が必要と思います。
 亡くなった司馬遼太郎さんが、あるとき私に、日本人というのは不思議な人種で、どうもある種の日本人にとっては、いたずらな観念の方が、はるかに現実よりも現実的らしいと、笑いながら話しておられましたが、この種の教育者と自称する、しかも、自分が一人前以上のインテリと任じているんでしょうけれども、実は非常にこっけいな存在でありまして、私は、こういう人たちの迷妄を何とか晴らす必要があると思います。
 これはもうまさに、国立で起こっております出来事というものは、教育を手だてにした、子どもたちに対するテロ、国民に対するテロである、としかいいようがない。(発言する者あり)
(後略)

えー、まぁその、国立市立第二小学校の子供による「校長に土下座要求」というのは都市伝説ということになってるんですが。(これはgoogleで検索するとすぐにわかります)
あと、石原都知事の「亡くなった司馬遼太郎さんが、あるとき私に」というというのは、俺的には、待ってました(また人が言ってもいないようなことの引用か?)なんですけど。(これも俺の日記を「石原慎太郎」で検索するとわかります。今日の日記はただでさえ引用が多いので、それの説明までしているととんでもないことに)
「ちくしょうと、子どもがこのヘリに石を投げつける」という描写は、現場から3キロ離れたアメリカ兵を救出に来たという状況を考えると(現場の状況を知らない子供を考えると)フィクションが過ぎるな、と俺は思いました。
だいたい、「公教育というものは、法に基づいて公正中立に行われるべきものであります」というのは、どう考えても正論で、自衛隊に反対するビデオがオーケーなら、自衛隊が救難活動や国際平和のために貢献しているビデオ(政府が作った奴)を教材として流すことに、リベラル・左寄りの人が反対する根拠がなくなっちゃうと思うんですが。
とりあえずこの事件についてもう少しくわしく知りたくなると同時に、ビデオ 『パパママバイバイ』を猛烈に見てみたいです。
↓東京都の図書館・横断検索をしてみる
http://metro.tokyo.opac.jp/
アニメ絵本というものもあることが分かったけど、アニメそのものはどうも見当たらないなぁ。

追記・米軍機墜落事故直後の状況に関する国会答弁

JANJANの記者の人に教えていただいたので、少し長いけど転載します。太字は引用者=俺によるものです。
昭和53年04月14日・参議院 決算委員会より
↓国会議事録で検索してみてください
http://kokkai.ndl.go.jp/

○安武洋子君 血液検査には一人約一万円かかる。二千人ぐらいの人を検査しなければならない。これは大変なことだと思うのですね。私は、こういう悲惨な事故を引き起こした原因の究明というものは、これはちゃんとやらなければならないと思うのです。で、米軍によるこの事故の被害者への救済対策についてお伺いしたいわけなんですけれども、まずファントム機墜落直後の防衛庁のとった措置についてお伺いしておきます。
 昨年の十月五日の参議院内閣委員会の中で、当時の三原長官がお答えになっていらっしゃるのですけれども、日本人の被害者の救出をしないで米軍パイロットだけを救出したのは問題だと、こういうふうに指摘したのに対して、米軍パイロットだけを救出したということについて過ちがあったかどうか検討している、こういうことを御答弁なさっていらっしゃいます。もう相当日時がたっておりますので検討なさったと思うのですけれども、どのような間違いがあったというふうに御検討になったでしょうか、これは長官にお答えいただきとうございます。
国務大臣金丸信君) 先ほど皮膚の移植のお話も出たわけでありますが、この事件は私が就任する前の事故で、そのときの事態の話は聞いたのですが、三原長官のそのお話につきましては私は聞いてはおらなかったわけでありまして、その問題をどのように処理しておるか、どのようにしてあるのかつまびらかにいたしてはおりませんが、ただ私の聞くところによりますといわゆる米軍の飛行士が落ちた、救難活動をしておったというような話、それと同時に一方のはどういうような手を打ったかということにつきましては、つまびらかにいたしておりません。しかし私は、まことに気の毒だった、遺憾な事故だったと。
 ただいま、子供が死んでおるのにもかかわらずお母さんはまだ知らないというような状況。実は私はロートルですから皮膚ももうたるんできておる。このたるんでいる私の皮膚でも、使っていただけのであるならばひとつ私も提供してもいいというような気持ちは私は持っておるわけでありますが、果たして私の皮膚が使えるのやらどうなのやら、これも医学のことでありますから、もし使えるということであれば使っていただきたい、こう考えて、非常に気の毒だという考え方を持っていますが、詳細につきましては政府委員から答弁させます。
○安武洋子君 それは政府委員の方から答弁していただきますけれども、こういう重大な事故すらお引き継ぎにならないんですか。私はこういういまの御答弁というのは、何とこういう事故を軽視なさっていらっしゃるか、そういうことがありありと見えると思います。私はそれに抗議をいたします。そして事務当局の御答弁を伺います。
○政府委員(伊藤圭一君) 事故当日、午後一時二十三分救難隊を発動いたしまして、S62というヘリコプターが一機救難に向かっております。一時二十五分ごろに現場付近の黒煙を発見いたしまして、三十分ごろその黒煙の上に行っているわけでございます。そのときにパイロットが上空から現場を視認いたしましたところが、すでに消防車が現地に参っておりまして、救援活動が行われているというふうな認識をいたしたようでございます。そこで、すでに救援活動が行われているということでございましたので、ヘリコプターのパイロットといたしましては、御承知のように、通常航空機の事故がありましたときには、一番ひどい被害を受けるのがパイロットであるというのが常識的に考えられるわけでございます、そこでパイロットの救出に向かいましで、そしてその帰りに再びその状況を見ましたところが、すでに放水なんかも行われているということで、そのまま帰ってきたようでございます。
 そこでその救難の活動の事態といたしましては、十分ではないにしろ一応の任務を果したというふうには考えておりますが、さらにそのパイロットが、御承知のようにパイロットは余り傷もいたしておりませんでしたので、その帰りの時点でもう一度その現場の状況を確認し、そして航空隊に帰った上でその状況を的確に報告をするという必要もあったのではないかというふうに判断されます。
 同時にまた、陸上救難隊というのも発動いたしておりまして、四十数名の者が現場に向かう準備をしておったわけでございますが、すでに救難活動が行われているということで、距離も十八キロばかり離れたところでございましたので、その陸上の救難隊というものは出ていかなかったわけでございます。この点につきましても、かなり大きな火災が起きているというような状況からいたしますと、むだになってもその救難隊というものが一応現地に行ってその状況を把握し、やるべきことはやらなければならなかったのではないかというような反省をいたしているわけでございます。

「昭和52年10月05日・参議院 内閣委員会」の三原朝雄防衛庁長官の答弁も転載したほうがいいかな、とも思ったんですが、「そこらへんは究明中」的なことしか言ってなかったんで略しときます。興味のあるかたは確認してみてください。

この政府委員・伊藤圭一さんの発言は生々しい公的記録として興味深いものでした(国会議事録で俺が検索した際には、和枝さんその他関係者の固有名詞が出てなかった答弁なのでうまく見つからなかったテキストでした)。なんで自衛隊機が救援活動をおこなわなかったか、ということに関しての、国会答弁を見ての俺の解釈は、すでに消防車が動いてたりなどして、特にすることはない、という判断をしたから、ということでしょうか。墜落現場の状況を確認し報告するため、ヘリが帰りにもう一度現場上空を飛んだということ(ここらへんで子供に石投げられたんでしょうか)、および自衛隊のほうでも陸上の救難隊が向かう準備をしていたこと、消防車はとても早く(事故が起きてから5分ぐらいで)現場で活動をしていたこと、などが新しく知ることのできた事実でした。
↓以下の日記に続きます
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20041020#p2

映画『デビルマン』批評リンク集・はてなダイアリー版・その2

↓追記で2004年10月15日まで入れました
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20041016#p5
トータルで2004年10月9日〜15日まで。
口コミ・ネットコミの重要さを感じさせられました。