米軍機事故で亡くなられた子供の裕一郎(ユー)君は、本当に「パパママバイバイ」というのが最後の言葉だったのか

↓以下の日記の続きです
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20041011#p1
JANJANの、以下の記事に対するこんな「ご意見」に驚愕して、少しまとめてみます。
http://www.janjan.jp/area/0410/0409309364/1.php

「パパママバイバイ」をgoogleで検索すると、たくさん出てくるようです。
これは、亡くなった当時3歳だった長男の「ユー君」の最後の言葉です。

いやそれ、間違ってるんですけど。間違ってると断定してはいけないかな。この事件に関しては公式の記録は存在しないので。なぜこんなことがネットで流布しているかというと、多分以下のようなサイトの記述が影響しているのか、と。

↓パパママ・バイバイ 横浜市緑区(現在の青葉区)の米軍機墜落事件<1977年>
http://www.cityfujisawa.ne.jp/~t.a.arai/takashi/atugikiti/papamamabyebye.htm
↓事件の概要〜ある日、突然〜
http://www.02.246.ne.jp/~origin/tuiraku/gaiyou.html

 青葉台病院に収容された林裕一郎君(昭和49年8月24日生まれ・当時3歳)と、弟の康弘ちやん(昭和51年3月28日生まれ・当時1歳)は、全身大やけどを負い包帯でぐるぐる巻きにされ「水をちょうだい、ジュースジュース‥‥」と叫びましたが、容体が悪化するので水もジュースも飲ませてもらえませんでした。
 そして、この日の深夜‥‥‥。
 青葉台病院には2人の幼さな児と椎葉悦子さん、林早苗さんらの大やけどを負った被災者が収容され、夜になってもあわただしい時間が過ぎていきました。
 午後10時過ぎに、裕一郎君は「痛い いたいよう‥‥」「水、みずをちょぅだい‥」の叫び声の合い間に黒いどろどろした物を吐くようになり、急速に弱々しくなっていきました。
 「おばあちゃん、パパ ママ バイバイ‥」の声を残して裕一郎君が息を引き取ったのは、午前零時50分のことでした。弟の康弘ちゃんも嘔吐が始まり、父親の一久さんらの必死の励ましの中「ポッポッポ」と鳩ポッポの歌をかすかにうたいながら翌日、未明の4時30分幼い生命を閉じたのです。

これはいずれも元テキストは「わたしたちはわすれない米軍機墜落事件」(<1997年>横浜・緑区(現・青葉区)米軍ジェット機墜落事故20周年行事実行委員会)に依拠しているようですが、俺の見た限りではこの「米軍ジェット機墜落事故20周年行事実行委員会」が残しているデータ・資料は、いささかイデオロギー的な偏りが感じられて、そのまま全面的に信じてはいけないかな、と思っています。

↓前の日記で土志田(林)和枝さんの遺稿集『あふれる愛に』(新声社)を元に、俺は以下のようなことを言ってみましたが
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20041008#p1

『あふれる愛に』という本が提供する物語は、和枝さんの不幸のそもそもの原因である米軍ジェット機の墜落事故や、それにともなう施設局の対応についての非難・批判ではありません。もちろんすべては事故からはじまり、それがなければ多分亡くなられた子供は今は三十代で、和枝さんも孫がいるおばあちゃんの年になっています。俺にとってこの事件で考えさせられたことは、治療に成功しない医師と、それが招く最終的な不幸の大きさ・重さでした。

あー、読み返してみたら、事故が起きたのは1977年、27年前なので、二人の亡くなられた子供がもし生きてたら裕一郎君はちょうど30歳、康弘君は28歳ですか。和枝さんは当時26歳なので現在53〜4歳。「孫がいる」ほどの年ではないかもですね。
それはともかく、精神病院へ和枝さんが国によって「強制転院」させられたとか、その部分を掘り起こしてみただけでも「わたしたちはわすれない米軍機墜落事件」とそれに依拠するテキストは怪しさ満載だったわけですが、この「パパママバイバイ」という言葉が裕一郎君の最後の言葉だ、と言っているところで怪しささらに倍、という気分です。
まず、いちばんすごいところから言ってしまいます。早乙女勝元さんの絵本(というか、子供向きの読み物のセミ・ノンフィクション)である『パパママバイバイ』の中ですら、この言葉はユー君の最後の言葉として語られていません
驚きましたか? 俺も早乙女さんの本を実際に読んで、腰が抜けるほど驚きました。
公的な記録が存在しないため、「実際に何があったか」については、当時の関係者の証言ということに頼らざるを得ないのですが、早乙女さんの著作の中では、そのあたりの状況については、以下のように記述しています。P17-18。

(引用者注・以下は「親せきのおばさん」のセリフとして語られます)
「…裕ちゃんは、ワァーワァー泣きながら、さかんにあばれて、『お水をちょうだい。ジュースを、ジュースをちょうだい。』
 と、せがみました。
 やりたいのはやまやまでしたが、ジュースもお水もとめられているのです。病気がもっと重くなるというからです。そのうち、幼い力もつきたのでしょうか。あばれかたも弱まって、ふうっと、静かになりました。
 かすかに口もとを動かして、
バイバイ』……って」
 ときに、九月二十八日の午前零時五十分。
 そして、すぐまたおニイちゃんのあとを追いかけるように、同日午前四時三十分、ヤス君が息を引きとりました。やんちゃな、仲のいい兄弟の悲しいさいごを見守った親せきのおばさんは、涙ながらに語りつづけるのです。
「康弘ちゃんは、やけどの痛みを伝えることばも知らず、ベッドの上で、前身ぐるぐるとほうたいに巻かれていました。目と口以外はまっしろで、かわいそうで、かわいそうで……。それでも、
『パパ……パパ……』
 と、かすれた声で、何度も何度も呼んでいました。
 明け方ちかくになって、なにか口ずさむような声が、ひくく、かぼそくきこえてきました。
ポッポッポー……
 死線をさまようなかで、もう痛みもうすれてきたのでしょうか。それは、いつもおとうさんといっしょのおふろで、おとうさんが口ぐせに歌ってきかせた鳩ぽっぽの歌でした。歌をうたいながら、康弘ちゃんは……とうとう……息をひきとったのです。この世に生まれてきて、たった一年ちょっとの生命でした」

滂沱。滂沱フォン。
いやここでオヤジギャグを言ってはいけませんが、「本当にあったことに極力近い証言」は、泣かせるものがあります。
で、そのあとに、早乙女勝元さんによる以下の「詩」が続きます。P18-19。

鳩を さがしに出かけていったのだろうか
鳩を 追って駈けていったのだろうか
  まだ かけることも
  あるくことさえ おぼつかない足に
  小さい靴を だれがはかせてやったのか
みんなが ねむっているまに
みんなが ゆめをみているあいだに
ゆめと ゆめのすきまを するりとぬけて
  <パパ、ママ、バイ・バイ>

このあとも詩は続きますが、要するに「パパ、ママ、バイ・バイ」というのは、早乙女さんが二人の子供の死によってイメージ的に喚起されたところの創作的語句。はっきり言って嘘。テキストであるこの詩の中でも、このセリフは特にどちらかが口にした、みたいな形にはなっていません。
これを「「ユー君」の最後の言葉」と言ってたり、そのようにネットで紹介したりしている人は、その論拠をもう少しちゃんとさせて欲しいところです。
ちなみに、土志田(林)和枝さんの遺稿集『あふれる愛に』では、その部分は以下のように書かれています。P34。

 ようやくの思いで一久さん(引用者注・和枝さんの夫)が青葉台病院にたどりついたとき、すでに裕一郎くんの小さな体は呼吸をやめていた。付き添っていた一久さんの母マツエさんに、
おばあちゃんバイバイ
 それが最後の言葉だった。九月二十八日午前零時四十分。
 マツエさんが泣きながら言う。
「あの子は、あの子は最後まで水をほしがって。水を、ジュースをちょうだいって……。かわいそうに」

次は、康弘君の最期について。P36-37。

(この子もダメなんだろうか)
 刻一刻と、一久さんの胸に不安が増大していく。何とかできないのか、この子のために何かしてやれないのか。いてもたってもいられないあせりの中で、一久さんはふと思いついた。
「なあ康弘、パパと一緒にハトポッポの歌をうたおうか」
 ハトポッポの歌。それは一久さんが毎晩、康弘くんと一緒にお風呂に入りながら教えてきた歌だった。
 その歌をいま一緒にうたうことで、康弘くんが少しでも元気をとりもどしてくれたら、と一久さんは思ったのである。
「いいかい康弘、うたうぞ。ポッポッポ、ハトポッポ……」
 さあ康弘、元気を出すんだ。祈る気持ちで一久さんはうたった。
「ポ、ポ、ポ」
「ハトポッポ……」
 康弘くんの声がはっきりと聞こえた。
パパ……ママ……じいちゃん……ばあちゃん
 突然、康弘くんがそう言った。一瞬、まわりの誰もが息をのんだ。パパ、ママは言えても、これまで一度も言えなかった言葉----じいちゃん、ばあちゃんを、このときはじめてはっきりと言った。
「先生、なんとかしてください」
 けんめいに心臓マッサージや人工呼吸が繰り返される。
「康弘、康弘……」
 康弘くんは何も答えなかった。

さらに滂沱
関係者の証言でありながら、少し記述に違いは見られますが、とりあえず「パパ、ママ、バイ・バイ」は伝説のセリフで、実際のものではない、ということはわかると思います。
以後この件(事件)に言及する人がもしいるようだったら、

「パパママバイバイ」は、米軍機墜落事件で亡くなられた二人の子供(ユー君、ヤス君)の最期の言葉を元に、作家・早乙女勝元さんが作られた本の中に出てくる詩の一節です。

とするのが多分正しいんじゃないだろうか、と。
なお、早乙女勝元さんの『パパママバイバイ』は、一部の記述に「はっきり言って嘘」なんてひどいことを言ってしまいましたが、全体には「反米! 安保許すまじ!」なんてイデオロギー的に声高に言っているものではなく「戦争とか兵器は嫌だねぇ」と、いささか枯れた爺さん的部分が感じられて(やはり実際の戦争体験者は違います)、左寄りの人の過激なテキストに抵抗感を感じる人でも、さほど無理なく読むことができるんじゃないかと思う、基本的にいい本でした(一部、記述に疑問を感じる部分もありましたが…これは後述)。早乙女勝元さんはいい人です(多分)。『東京大空襲』を読んでみたくなるぐらい。
イラストのほうも、なんか絵本的に省略されてますが、ファントムや自衛隊の救助ヘリコプター(S-62J)もちゃんとそれっぽく書かれていていい感じです。
そんな、この事件の要でもないセリフの一部にこだわるなんて、どうでもいい、と思っている人は多いような気がしますんで、次にいっちゃうよ
(本日は二番もあるんだぜ)