悪書追放運動について

1956年1月16日 読売新聞

悪書追放運動をもりかえす
新年号で逆戻り
子供の好みなども相談
 
 ヨイコを悪い本から守ろうと日本子供を守る会、母の会など全国の母親たちの悪書追放運動が起ってから早くも一年近く、このため昨年夏ごろには俗悪なマンガ本は売れ行きが六、七割に落ち、廃刊や休刊になったものは十数種という好成果をあげたが、世論の監視が下火となった新年号ではすっかり勢いをもり返し運動前と変らぬ発行部数となっている。この現状におどろいた日本子供を守る会(会長長田新氏)ではさる十三日の全国常任理事会の席上「今年も運動の最大の目標として悪書追放をとりあげ、さらに一歩すすめて良書推薦を行う」ことを決め今週早々子供の欲する興味はどこにあるかという分析を各大学心理学会、児童教育学研究会に依頼することとなった。【写真は夜店をにぎわすコドモ雑誌の山】
 
 日販など各出版会社の調査によると母親、現場教師を中心とする「日本子供を守る会」青少年保護育成運動を中心にもりあげた「母の会」の悪書追放運動が全国的に行われた昨年春ごろ百パーセントの売れ行きを示していた児童雑誌も、返本が目立ち、七月には平均一割五分の返本、激しくホコ先を向けられた「漫画少年」とか「冒険王」は三割五分から四割見当が小売書店から返されてきた。また夏休みに入るため普通なら新年号とともに最高の売れ行きとなる八月号もやはり一割五分程度の売れ行き減。
 ところが九月に入るとこの成果にいく分世論が弱まったせいかやや売れ行きを増し幼年ものは一割五分、少女ものは二割五分の返品だが、少年ものはわずか六分までにもり返し、各児童雑誌とも六、七、八月号は発行部数をぐっと減らしていたのを秋から再び増刷をはじめ、この新年号からはすっかり元通りとなり、普通号よりは一割五分も増刷したのをほとんど売り切っているという。「冒険王」「おもしろブック」は約三十万部近い売れ行きとみられている。児童雑誌の全発行部数もほとんど元通りの月七、八百万部になっている。
 この間、六、七月号からはいわゆる悪書やそのまきぞえのための廃、休刊が増え「漫画少年」「太陽少年」などの児童雑誌十種、「夫婦生活」「りべらる」などの雑誌九種がそのウキ目にあった。また存続している雑誌にしても運動を契機として出版界に出版倫理化運動実行委員会ができたり、また子供を守る会の母親たちと作家、編集者の懇談会がもたれたり、自働雑誌執筆者の集り「七日会」「児童漫画会」が生れ、編集者のグループで「鋭角」という雑誌が発行されたり、反省の気運が強くなったため内容もやや変化して「殺人や人権無視の“残虐”ゴジラなど架空の怪魔のでてくる“荒唐無けい”なものは影をひそめた」(子供を守る会清水量子氏談)ことは事実であるが、最近はプロレス、剣豪ものが増えてきて「反省といっても技術的な面ではやや良くなったがまだまだダメ。相変らず低俗な興味で子供をつっている」(神崎清氏談)など俗悪から低俗へ変った程度という見方が強いようだ。またモグリ出版社で出し、街頭でタタキ売っているゾッキ本も一時影をひそめ、都内でも一番多く出る上野駅周辺でも昨夏から秋にかけて姿がみられなかったが、十月ごろから再び店をはり現在は四、五軒が常時出ている。(上野署調べ)
 日本子供を守る会でも昨年十一月には「子どもを守る文化会議」を開いたりして地道な悪書監視の眼を光らせ、今年からは良書を積極的に普及させようと河出書房刊の「小学生」を推薦しようとしていた矢先、それがわずか第二号を発行したまま、このほど休刊になってしまった。
 この現状に同会ではさる十三日、東京神田で全国常任理事会を開き、
1・良書がダメになり悪書が栄えるということはおもしろいものにひかれる子供の興味を良書がはっきりつかまえていない点から起ることであるから“子供は何を求めているか”を各大学心理学会、児童教育学研究会に分析してもらう。
2・同会の調査部で毎月、各児童雑誌を分析、その結果を毎月各地区ごとに母親、教師、子供の懇談会を開いて子供が良いものに眼を向けるようにする。
3・昨夏からとだえていた母親と児童物執筆者、同雑誌編集者の三者懇談会を定期的に開いてより良いものに内容を改善していく。
 の三項目を決め今年は悪書追放運動をさらに深くじっくりすすめていくことになった。


1956年1月18日 読売新聞 社説

社説
悪書から子供を守ろう
 
 子供の心をむしばむ悪書が、街にはんらんしている。昨年六月ごろ、子供を守る会、母の会などが、悪書追放運動をはじめてから、一時はその売れ行きも、いちじるしく減少したようだった。が、本年に入って急に勢いを盛り返し、運動前と変らぬ発行部数になったという。
 子供の心は純真である。悪書に対する抵抗力は皆無といってよい。盗賊も怪異な人物も、すべて英雄化し、実在するかのように思わせるのが、悪書の魔力である。子供はその魔力に魅せられてしまう。悪書が子供によろこばれるのは、乾からびたお説教をならべて得々としているいわゆる良書の勧善主義にも、その責任がある。だからといって、ヒロポンのように少年の心をむしばんでいる現実を見逃すべきではない。
 われわれは、いかに子供が害されても、もうけさえすればよいという悪徳業者を、心から憎まずにはおられない。出版はあらゆる事業の中で、もっとも知的なものの一つである。どのような書がよいか悪いかという区別は、彼らみずから熟知しているはずだ。無知な売春宿の経営者が、その業を恥ずかしいとも思わぬのと、根本的に違っているのである。悪いということを知っていながら悪書を出版するのは、完全な良心の喪失といわざるを得ない。だから、彼らの反省をのぞむのは、鬼の目に涙を期待すると同様である。彼らは実物教育によって、その転向を強要する以外に方法はない。悪書追放運動をもりあげ、悪書を出版しても割に合わぬものだということを、徹底的に思い知らせるほかはないのだ。
 この意味で、われわれは「日本子供を守る会」や「母の会」などの悪書追放運動の盛り返しに、つよい希望をつないでいるものだ。これらの会の昨年の運動が効果がなかったのではない。昨年の運動は相当の効果をおさめ、悪徳業者の少なくない数が休業または廃業した。だが、追放運動がゆるんだすきに、悪書が勢いを盛り返したのである。悪徳業者の生活力は、雑草のように強い。ちょっとでも除草をおこたると、雑草は庭一面にはびこる。雑草は絶えず除かねばならぬし、悪徳業者をのさばらせぬためには、不断の努力で追放運動を続けなければならない。いかに鳴物入りで追放運動をやっても、線香花火で終ってはならないのである。
 悪書がはんらんするにつけ、われわれは法律でこれらを取締まろうとする動きが、ともすれば起りがちであることを恐れる。子供が悪書を愛読し、狂信すれば、恐らく天下父母の心は、法によって鎮圧することを要望するに至るだろう。だが、これはわれわれとしては、もっとも警戒すべきことである。もし、悪書であるか、そうでないかの区別を、もっぱら官僚ないしその御用委員会の判定に委ねるならば、恐らくは言論の自由は、大幅に、かつ急速に狭められるであろう。これは決してわれわれの取越し苦労だというべきではあるまい。
 子供が悪書を愛読するのは、大人の社会の投影ともいえるかも知れない。いわゆるベスト・セラーズといわれている出版物にも、背徳的なもの、殺伐なもの、わいせつなもの、怪異なものが、あまりにも多い。それらの広告も、扇情的な文字をつらねている。これらを大人が愛読しているのでは、子供が悪書をよろこぶのも当然だろう。子供から悪書を取上げる前に、まず大人が身辺から悪書を追放することである。
 われわれは悪書追放をそれらの会に任せ放しにせず、学校当局やPTAが、精力的な活躍を行うことを要望したいのである。