悪書追放運動について
1955年5月1日 読売新聞
きょうから“悪い本”追放運動
討論会やら個別回収
お母さんら街頭にくり出す
きょう一日から青少年保護育成運度が一ヵ月にわたり全国的に展開される。昨二十九年はこの月間にヒロポン一掃が取上げられ大きな成果を収めたが、ことしは青少年を悪い出版物や映画、レコード、オモチャなどから守る運動が母親たちや関係団体の手で進められることになった。同じ悪書に悩まされているイギリスではすでに取締法案が議会に上程されているが、わが国でも“民間団体による自粛が望ましいが、それがだめなら法律化をまつばかり”と厚生省太宰児童局長らも“統制”をちらつかせており、いまや自粛運動は背水の陣をしかされているわけだ。
○…日本子どもを守る会では今月中に中央常任理事会を開き全国的に不良出版物追放の運動をくりひろげるほか地域婦人団体、PTAの力を結び子供に安心してすすめられる文化映画、ニュース映画を母の手で作る運動を進める。また東京都世田谷区千歳烏山小学校のPTAのお母さんたちは十一日子供たちのみている漫画本や雑誌を持ちより、もっとよい雑誌を--というテーマで討論会を開く。
○…東京母の会連合会(会長宮川まきさん)では六日「悪書追放大会」を都内の母親四千人を集め共立講堂で開き、お母さんたちがリヤカーや車をひいて、各家庭から悪書を回収するなど具体的な運動方針をきめる。さらに四十地区の母の会三十万の会員に呼びかけ、各支部ごとに“これが悪書だ”という街頭展示会を開く。
荒川区三河島や池袋地区などでは早くも街頭に乗出し、三河島母の会(会長吉田政枝さん、十九支部、会員五十名)は少年会館という集会場を作り図書千冊をそろえたほか三十日“コドモを守るための悪書追放”というスローガンに漫画入りの二色刷りポスター二千枚を街頭や電柱にはって歩いた。また“悪書を供出しましょう”というチラシを印刷中で、これを持って各支部長ら幹部が戸別訪問、ヒザづめで理解を深めてもらい、各支部ごとに回収しようという。池袋母性協会(会長菱たのいさん、二十一支部、四千人)でも一日から四十人の役員が街頭補導に乗りだし、池袋駅付近で悪書の購読や映画の選択などを指導する。二日は支部長会議を開き、ポスターを作ってはりつけるほか小型トラックや宣伝カーを繰出し、スピーカーで全町内のすみずみまで悪書の害毒を説明して歩くj。また両親座談会を管内小学校別に開催、父親にも理解を深めてもらう予定だという。
○…映画倫理規規制管理委員会では五日ごろ委員会議を開きこんご成人向けのものと青少年向けのものと区別して指定することをきめる。ドイツ、イギリスなどではすでに実施されているがわが国でははじめての試み。各盛り場の興行街では業者側の話合いで一、二週交代でどこか一館は必ず青少年向けを上映する専門館を実現する。
○…一方、紙芝居でも目に余るものが多いが最近葛飾の文化サークルが「たとえかせぎにならぬ日があっても、歯を食いしばって良いモノをやろう」と申合わせるなど反省の動きが起っている。文部大臣賞を連年もらっている教育新聞社(社長竹川清雄氏、中央区八重洲通四の七)は悪いものばかりではないことを母親に認識してもらうため各地区の母親の会合に受賞作品の無料公開をしようと連合会に申込み、二日には池袋母性協会、七日三河島母あの会の順で全都内の支部を巡回、良い紙芝居普及運動が起されることになった。
“自粛出来ねば法律で” 太宰児童局長
一方青少年を守るために法律化を考慮している厚生省太宰児童局長の見解はこうだ。
「青少年を悪い環境から守っていくことは家庭と社会と国家が一体となりはじめてできる。欧米ではアカの他人でも未成年がエロ本をみたり桃色映画をみようとすればきびしい注意を与えるほどだ。各業界から自粛の火の手が上がっていることは極めて結構なことで成功してほしい。これが失敗に終る時は好ましいことではないが法律による取締りもやむを得まい。
読売新聞1955年5月6日
不良文化財と戦う 児童福祉週間に贈る埋もれた実例
毎年子供の日はめぐってくるが子供をめぐる環境は少しもよくならない。基地、飲食街をめぐる問題のほかに、漫画、流行歌、紙芝居、映画などの不良文化財がますますのさばってくるからだ。それらがどんな被害を及ぼしているか、今さらいうまでもなかろう。業界の一部や父兄のあいだに自粛の声があがっているが、はたしてこれで不良文化財は姿を消すだろうか。かけ声だけの運動が多いなかに、地方にうずもれてはいても不良文化財をはばむ力は子供たちの中に大きく根をおろしつつある。日本の子供全体の数からみれば、こういう子供たちの数はまだまだ少ないかも知れないが、そういう子供たちの中にこそ、明日の日本を築く明るい希望を見出すことができるだろう。(K)
命まで奪う漫画
鳩山さん廃止お願
東京大田区高畑小学校
東京都大田区高畑小学校五年生楢府敏宣君(一一)はさる二日午後五時ごろ自宅近所の踏切で国電にふれ即死した。付近の子供たち数人とチャンバラをしてあそんでいたが、だんだんおいつめられて踏切にのがれ、上り電車が通り過ぎたので一安心したところを下り電車にひかれたものらしい。同校六年一組みんなで話し合った結果この踏切にしゃ(遮)断機を作るよう鳩山首相に手紙を書こうということになった。これは亘理聡君(一二)の作文の一部である。
「なんてばかばかしい死に方をしたんだろうと思います。いくらあきらめようとしてもあきらめられません。チャンバラはどうしてやったかというときっと漫画を読んでいるうちに面白くなってやったと思います。漫画が楢府君のとうとい一つきりない命をうばったのです。漫画は世界で何より悪いものです。こんなものを書いている人はどんな気持でいるでしょうか。鳩山さんはどう思うでしょうか。悪いと思ったら漫画廃止運動の親方になって下さい。僕達も協力します」
一月ほど前同校でこんな事件があった。便所に行くため階段をおりるとき二階からナワをたらしてつたっておりた。途中でターザン気取りにアーオーとふったからたまらない。もんどりうって下まで落ちてしまった。幸いたいしたケガはなかったが、ターザンの漫画や映画はのがしたことがなかったというその子は、以来漫画をみるとゾッとするようになった。こんなことがかさなって漫画追放の気運は今同校にもりあがっている。
同校六年担任の江口季好先生が漫画本追放を志してすでに久しい。漫画本に非常に多い誤字脱字がそのまま作文にでてくる。ノートや学級新聞にさえ必ずチャンバラなどの漫画を書いている。子供と一緒にチャンバラしたり、健全な読書眼を与えるため山びこ学校や生活つづり方を読んで話しあったり健全な読物を与えるため二十円ずつ貯金して学級文庫をととのえたりという努力が続けられた。一年くらいして子供たちにもようやく変化がでてきた。「いくつ読んでもたいてい漫画のすじが同じだ」「長編漫画はつくれないが短編なら僕のつくった方が面白い」といって大人の漫画家をけいべつしはじめたり「この漫画にはこんなに字の間違いがある」と持ってくる。
こんな気分のときこの事件がおきた。鳩山さんにお願いするとともに妹や弟、あるいは下級生に漫画追放運動をひろめようという気分が自発的にもりあがっている。
“生活の歌を”
流行歌手への夢さます
名古屋桜川児童合唱団
お富さんやウシュクダラ調の歌もどれほど子供の心をゆがめているかわからない。健全な子供の歌を育てようという運動が今全国的に進められているが、全体としてはまだその第一歩をふみだしたところ。その中で名古屋市桜山児童合唱団のやり方はめざましい。
まず同合唱団の中心になっている名古屋市昭和区荒田町祖父江脩氏(三三)の話を聞いてみよう。
「今から七、八年前のこと、当時売出しのコロムビア専属童謡歌手川田芳子(現在十八)の独唱会が名古屋でひらかれました。私はそこでの気ちがいじみた子供たちの動きに心を動かされたのです。もちろん大入り満員で、終ったトタンにサイン・ブックをもって殺到する。彼女の服をひきちぎるほどの騒ぎも演じたのです。こういう傾向がだんだん盛んになり、はてはお富さん、ウシュクダラまででてくるのですが、今のうちに何とかしなければと思っていたとき、ビング・クロスビイの“我が道を行く”を見て合唱団を始めようと思いたったのです」
広島で原爆をうけた祖父江氏は、当時まだ名古屋で療養中だったが、近所の子供を自宅に集めてたのしく歌う会をはじめた。
祖父江氏はかねがね児童音楽についてこんな意見を持っている。音楽は歌うことによって生活を楽しくするものでなくてはならない。そのためには子供の生活の中から生れた歌が必要である。「金の鈴」や「おさるのかごや」のような童謡は1・生活から生れていない。2・健康でなく子供のセンチをかきたてるだけ。3・短音階であって大人の流行歌に通じる道である。そして4・父兄や子供に流行歌手への夢をかきたてるだけであると。
ただ歌をうたうことが好きな子供だけ集めてこの会ははじまったが、父兄は「うちの子供は流行歌手になれるかもしれない」という夢をもって集まってきた。子供に聞いてもそんな感想しか持ってない。
「たからくじがあたったらス7テージ服のきれいなの買ってひろいところで独唱会をやりたい」
彼はどのようにして子供たちを変えていったか。
合唱団の名の示す通りこの会は絶対に独唱はやらない。オペレッタでどんなにつまらなくみえる役でもそれが全体の効果の上になくてはならないものであることを、手をかえ品をかえ力説する。それでも納得しない子供は一度のけてけいこする。すると全体がいかにつまらなくなるかということがわかる。彼はこの合唱団を、歌を通じて遊ぶ会と言っているが、この理解を助けたのはこうした先生と子供の人間的ふれあいが大きかったことも忘れられない。同時に生活の中に歌をとり入れていった。そのためには「金の鈴」調の歌ではなく子供たちの生活から生れた歌でなければならない。子供たちに詩をつくらせ、それを作曲して歌わせる。どんなにへたな詩しかつくれなくてもどの子の歌も必ず一度作曲してみんなに歌わせる。子供たちも喜ぶまいことか。そこから生れたのは「朝おきの歌」「おそうじの歌」「おせんたくの歌」「お使いの歌」などがある。たとえばこんな調子だ。
お使い お使い とんでいこ
ふろ敷もって ナベさげて
おとうふ買いに ろじの道
この歌が子供たちにどんな変化を与えたか。お富さんを歌う子供はほとんどいない。「朝おきると朝おきの歌を歌ってとびおきますし、お使いを言いつけても明るく歌を歌いながらとんでいきます」「お母さん、これ僕のつくった歌だよというときの子供の顔、ともかく非常に朗らかになりました」というお母さんの声や合唱団で得たなかま意識で、学校や職場でグループをつくって明るい歌声をひびかせている話をきけば十分だろう。
学生の手で紙芝居
土地の歴史や明るい童話
川崎セツルメント
紙芝居の悪影響も見のがせない。ところが東京都文京区氷川下にこんな話がある。
「二、三日前にね、子供が『おこづかいちょうだい』といったから、『今はダメよ』としかったのよ。今までだったらそこでだだうをこねるのに『おかんじょうもらってからね』だって。『どこでそんなことおぼえたの』『“ぼくのかあちゃん”(紙芝居の題名)の中に出てたじゃないの』そう言えば家の子も紙芝居見なくなったわ」
子供たちがこんなに親の苦しい生活を考えるようになったのはどうしてだろう。まずこの紙芝居がちがっていた。これは川崎の労働者街の子供たち、くわしく言えば川崎セツルメント(隣保事業団)にきて勉強している子供たちが自分たちの母ちゃんの苦しい生活を子供たちの立場からながめてつくったものだったから共感したのだろう。それだけでなく、これを見た子供たちは「僕の母ちゃんみたいな紙芝居をつくろうよ」といいだしている。
セツルメントの仕事は診療、法律相談、勉強会、子供会といろいろだが、社会に密着した学問のあり方を追求する学生たちの献身的な努力によって運営されている。そういう努力の過程でうみだされたのがこの紙芝居だ。ここではほかに土地の歴史からはじまってこの町の生活をえがいた紙芝居や明るい健康な童話を紙芝居にしたものが何本かつくられているが、これに刺激されてこれに負けないものをつくろうという意欲が各地の子供たちのあいだにわきあがっている。
読売新聞 1955年5月8日夕刊
ニュース追跡 絵と文 岡部冬彦
原稿料もいらない
三、四流誌の抜粋
“公然性”ゆえに刑法のお世話
このあいだ押収されたワイ本のことを聞きにいったのに、警視庁防犯課では話がどうもセクサスの方にいってしまうのである。こっちはセクサスは知ってるが、ほかのは知らない。そこでいろいろ聞いてみると、このワイ本というのは完全なモグリ出版、押収を予期して発行所の名ものってないばかりか、印刷してあってもデタラメ、しかもその取次店(卸)は何度も手入れをうけている常連だという。そうなるとセクサスとこの種の本とどうして同じ扱いをうけるかということになるが、マアマアとこの種の方をもう少し聞くことにする。
だいたいワイ本というのは春になると増えるんだそうだが、作るのもいとも簡単。いろいろな三流、四流雑誌のソレらしきところの紙型を集め、一時の本の形にしてケバケバしい表紙をつける。原稿料などというものはないからモトは紙代と印刷代だけ、四、五十円の値段でも十分もうかる。これを露店や地方の本屋、駅で列車を待つ人などに売りつける。ヒロポンと同じように中央では厳しいので、だんだんワイ本も地方にひろがっているそうな。もとより名のある本屋の出している定期刊行物ではないから中身はヒドイもの。そこで刑法第百七十五条とやらのお手数をかけることになる。つまり純然たる春本であって芸術とかナントカいうのには全く関係のないものなのである。
「セクサスがアメリカの機械文明に対する批判だということはわかります。芸術の“あってほしい世界”もわかります。が、われわれは法律という現実の立場に立たなくてはならない。検察庁とも連絡をとり慎重に考慮した結果ああいうことになったのですが、知識人からいろいろ攻撃をうけました。扱いはいわゆる春本と同じになりましたが、法律からいうと仕方がない、マ、こういう事は数年に一回あるかないかの事ですが、われわれとしてもトラの尾をふむような気持ですよ」
判例によればワイセツとは“いたずらに性欲を興奮又は刺激せしめ、普通人の性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの”なんだそうだが、公然性というのが大いに関係あるらしい。全くの春本でも“販売、陳列、販売の目的を持って所持すること、頒布”が罪になるのでヒソカに自分で持っているならかまわない。それをいくら芸術作品とはいえ、だれでも、どこででも買えるようにしたことがイカン、のであるらしい。つまり百七十五条という法律も公然性の大小で動かすもの、ラシイのである。
「道徳とか宗教、慣習、教育など、こういうものがあって、その一番下に法律がある。だからわれわれはなるべく後にさがりたい。私はクリスチャンではないが、カトリックなどでは芸術といえども制限がある。あれほど厳格でなくとも、法律が出なくてもすむ基準みたいなものが欲しいですなァ」
ワイ本はもちろんアウトなのだが、結局セクサスの話になってしまった。
青少年保護条例で、たとえ本屋で売っていても未成年者が買ってはいけない本を指定した県がある。神奈川、香川、岡山、和歌山など。
“いつも百七十五条の色メガネでモノを見るといわれますが…”
1955年6月8日 読売新聞
悪書追放に都条例
自粛では手ぬるい
オモチャ、映画ふくめて立案急ぐ
子供たちを悪い本やいかがわしい映画、放送、オモチャなどから守ろうとするお母さん達の悪書追放運動は不買同盟の結成などとなって全国的に展開されているが、東京都ではこれを法的に取締ろうとして近く都の青少年問題協議会にはかって「不良出版物などの取締都条例」を作る準備を進めている。子供を守るためのこうした条例はすでに和歌山など四県で出来ており、その中には子供の夜間外出を禁止するなどという行過ぎもあって問題になっているばかりか、条例設定それ自体が言論弾圧に通ずるものとして批判され、さきに中央青少年問題協議会なども各都道府県の組織へ「新しく作ることはやめるよう」呼びかけているので波乱はまぬがれないが、都としては悪書の源が東京であることや、いまのように軽犯罪法をふりかざして警察官が取締りに当るよりはましだろうという見解から実現を期したいといっている。
不良出版物などの追放条例は児童保護条例として岡山県をはじめ和歌山、愛知、神奈川などの各県ですでに作られているが、東京や大阪では業者の自覚にまつとともに世論の動きをみてはそのつど軽犯罪法、食品衛生法などを適用して取締っていた。しかしこういった法律は全体を含めてのものであるため児童を中心とする取締りには無理が出来、また軽犯罪法をもって警察官が随時取締りを強化するとかえって言論弾圧など物議をかもす結果ともなっていた。
一方いま全国の家庭から追放をうけている不良出版物、オモチャの大半は東京、大阪を中心に製造され各地に流されている現状で、各地からの非難もあり、都でもいつまでもいまのままにしておくわけにもゆかず、条例作成を検討することになったという
都で作ろうとしている条例は内容的には中央青少年問題協議会で決めた趣旨にのっとって不良図書、映画、オモチャを対象として民間有識者を中心とした委員会制度を作り、この委員会で図書、映画、オモチャなどの良否を決め、不良なものは主婦連をはじめ地婦連、母の会など各団体に通知して児童に買わせないようにするほか、警察側の悪書取締りの対象ともする。
映画の場合は不良映画と非難するとかえって児童の好奇心から入場者が増えるという逆効果となるおそれもあり、地方によっては指導員が映画館に入り児童に注意、指導しているところもあるがこれも行過ぎなので都では児童向きでないと委員会が決定した映画には児童に入場券を売らないようにするなど業者との協力体制をとる。また悪質なオモチャの場合は製造中止の協力処置をとるというもの。
なお半面優良出版物、映画、オモチャなどは推薦するほか、ほう償制度も考慮する。
原口都民課主幹談「あくまで業者の自主にまっていたが、どうしてもゾッキ本屋に出るモグリ業者のあとがたたないので条例を作り取締まることにきめ協議会にはかることにした。条例を作ることは出版、言論の自由を規定する憲法の関係もありなかなか微妙な問題だが児童の保護指導を骨子とする条例を作るつもりだ。なおこんどの機構改革で民生局児童部が中心となって成案を急ぐことになっている」
“法律化には反対” 青少年問題協議会
なおこの問題については昨年八月中央青少年問題協議会に「青少年に有害な出版物、映画等対策委員会」という長い名前の専門委員会が設けられ、
1・有害なものを青少年から排除するための国民的運動の展開 2・関係業者の自粛問題 3・優良出版物、映画などの選賞方策 4・特別の立法措置などの四項目にわたり九ヵ月間慎重に審議を進めた結果、空気銃、飛出しナイフなど直接身体に危険のあるものは別として、出版物、映画などの精神的内容をもつものを法的に取締ることは戦前の検閲制度復活の恐れがあるので国民の良識、業者の自粛反省によって解決すべきだと去る五月九日の本委員会で正式決定し条例化しないようにという結論を出している。
日本子供を守る会常任理事清水慶子さんの話「都条例をつくるなんてとんでもない話です。こういう気運にならないように民間が先手をうち、よい方向にすべりだしている矢先なんです。中央青少年問題協議会でもあくまで自粛ということで行くべきで、条例で取締まるのは憲法違反の疑いがありうるとはっきり結論をだしています」
1955年6月27日 読売新聞
子供を守る運動 三方面に広がる
不良幼稚園を一掃
出版・映画 よいものを積極的に推薦
母の会連合会やいくつかの地域婦人団体が起ち上がって旋風をまき起した。“悪書追放運動”は問題が社会に広く根をおろしている事柄だけに、広範な反響を呼び成果をあげつつあるが、根本的にはこれを与える側の大人の“もうけ主義”に一切の責任があるとして、例えば不良幼稚園一掃の動きにまで進展(文部省)一方少年向き悪書などについて関係各省庁で「青少年に有害な出版物、映画等対策案」の内定をみ(中央青少年問題協議会)また特に中・高厚生の問題である映画については、「禁止」から積極的な推薦政策がとられる(青少年映画委員会)など、いわば幼-少-青年の各層に対する各様の動きに発展してきている。以下はその三者の動き--。
不良幼稚園の一掃
全国の幼稚園数は四千三百、園児数六十一万人に達し最近では同年齢のこどもたちの約半分は通園しているほど“幼稚園ブーム”を現出、昨年一年間だけでも一挙に一千園もふえた。だがこれらの幼稚園の中には千円もの月謝をとりながら園児童にくらべて極端に教室がせまかったり保母数が不足しているモグリ幼稚園が相当はびこっているばかりか、保育の面でも小学校のような学習指導要領がないため園によってマチマチで単なる“もうけ主義”だけに終っているものが少なくない。
このためせっかく準義務教育として小、中学校なみに“学校”扱いしている幼稚園教育の大きな障害になっているとして文部省では現在の幼稚園基準を引上げ不良幼稚園の一掃をはかると共に、新たに幼稚園教育要領を作って来年四月から実施、幼稚園教育を小学校に直結させようと準備を急いでいる。
とくに私立幼稚園は他の私立学校と違って個人経営や学校法人以外の法人でも設置できるという特例が認められているので“流行”にのってひともうけをたくらむ寺子屋式の幼稚園が大都市を中心に雨後のタケノコのようにでき同省の調べでは二十五年二一〇〇、二十六年二四五五、二十七年二八三五、二十八年三四二二、二十九年四三八七で、この調子でいくと三十年には六千近くなろうという。しかもこの新設園の大半は私立で二十九年の例では増加した九六五のうち私立が六八五を占めている。文部省では省令による新基準を作り、監督を厳にしようというわけで一人当り建物は〇・九坪以上(現行〇・七坪)運動場一・九坪(〇・九坪)に引上げるなど不良幼稚園は相当大幅に整理されることになる。
また教育内容の面でも教育目標を「音楽リズム」「保健体育」「言語」「美術創作」「社会」「自然観察」などに分け、さらに具体化した教育課程を作り小学校入学までに一応基礎的な教育とシツケをしようという。
悪書追放
文部、厚生、労働、郵政、警察庁など関係各省庁で構成する中央青少年問題協議会ではあらゆる角度から青少年を守る対策を立案審議中であったが、このほど「青少年に有害な出版物、映画等対策」(案)を内定、七月七日の委員会(関係各次官を委員とする)にはかって正式決定のうえ早急に実施に移す。
1・青少年に有害な出版物、映画などを排除する国民的運動の展開および啓発宣伝。2・出版物、映画等に関する現行選奨(児童福祉法に基く中央および都道府県児童福祉審議会の推薦機能を強化し青少年向き出版物、映画等でとくに優れたものについて製作奨励賞を与える)3・関係業者の自粛方策として出版物、映画、新聞、放送(テレビ)レコード、紙芝居、オモチャ、ショー、広告宣伝物等各領域別の自己規制を尊重し、その強化徹底をはかり、それのできてない領域には速やかに設けるよう勧奨する。4・青少年に有害な出版物、映画等の排除に関する特別立法は、現状では業者の自粛と国民の自覚に期待することとし中央青少年問題協議会は必要な事項につき引続き調査研究する。
映画対策
映画倫理規定委員会ではこのほど青少年関係団体、映画界などの協力を得て「青少年映画委員会」を設け“しいのみ学園”など五本の青少年向き推薦映画を決めた。これは不良映画が問題化されるにつれ香川、神奈川県に「青少年保護育成条例」が制定され、最近では東京都でも計画されているが、映倫では、これらの動きは検閲制度復活の逆コースの心配さえもあるとして先手をうって青少年関係団体と映画界で自主的に優良青少年向き映画を推薦、有害映画を次第に駆逐しようとしている。
選定の基準は美に対する情操を高めるもの、社会の良識を養うもの、人間的愛情を豊かに育てるもの、明るいもの。これに従って月一回の定例会のほか臨時委員会を招集し推薦映画を定める。
これと逆にふさわしくない映画は成人向きと銘うち十八歳未満の入場を遠慮してもらう。この両面作戦で有害映画をなくそうというネライ。「青少年向き」「成人向き」ときめられた映画は同委員会から各都道府県青少年問題協議会、児童福祉協議会、全国PTA協議会、母の会などの地域婦人団体に知らされこれら機関の手を通し伝えられる。
1955年6月25日 読売新聞
最近の児童雑誌
視覚にうったえる俗悪さ
滑川道夫
講談社の雑誌も落ちるところまで落ちて、俗悪娯楽雑誌と選ぶところがなくなったという感じがする。「幼年」「少年」「少女」の各クラブは、つい数ヵ月まえまでは、少なくとも他の娯楽雑誌よりは相対的な意味においてすぐれた面が多かったし、ほこりをもっていた。俗悪雑誌追放の声のあがったころから大判に切りかえて、急速に俗悪化してしまった。他の娯楽雑誌に圧倒されアセリがでたためかもしれないが、残念である。
「幼年クラブ」は「扇の的」の口絵にはじまり、「おさる三銃士」の連載マンガになる。呼びものは山川惣治の「うみのサブー」と高垣眸自身に再構成してもらいたかった「まぼろし城」である。低学年の雑誌でさえもこういう調子で、かろうじて山川氏が努めて良心的になろうとしている点は高く評価されてもいいと思う。少なくとも相対的意味において少しでも俗悪読みものの向上が切実に父兄や教師に要望されているからである。それにしても、「幼ク」の付録にヒヒ退治の「岩見重太郎」のマンガ本があるのにはがっかりする。これと類似する付録は「美空ひばり映画マンガ全集」「おセンチ交響楽」「スターブロマイド」いずれもなくてもがなのオマケである。(少女クラブ)それに輪をかけて伝統をほこった「少年クラブ」がいまどき講談「御三家三勇士」マンガ「西郷どん」「にんき映画まんが全集」とたたみかけている。
それにいっそう輪をかけた悪どさを表明しているのが、小学館の別名集英社の「おもしろブック」である。本文があぶない橋を渡っているばかりでなく付録は単行本のマンガ(とくにくだらない)小天狗小太郎、プロレスの助、右門おてがら娘と絵物語「竜神丸」と四冊のオマケである。これらは本誌のマンガよりもいっそう悪どい刺激を与えている。それにくらべると「少女」とか「少女ブック」はたくましい商業主義に徹しているだけに、かえって読者に対する実用性を考慮するような傾向がほのかに見えている。「宮本武蔵」と「鉄腕アトム」を売りものにしている「少年」や「なかよし」の方がはるかに俗悪化していると言える。その点になると、小学館の雑誌も推賞辞ほどほめられたものではない。一部には「冒険王」などよりもはるかにひどい作品がのっている。「幼年ブック」「幼稚園ブック」などは、年齢層が低いだけにそうえげつないやりかたはしていないが、傾向としては共通なものがある。
とにかく、わたしが改めておどろいたことは、付録も計算に入れると、いまの子どもの娯楽雑誌が平均六三パーセントはマンガと絵ものがたりという視覚にうったえて、思考力をマイナスにするようなものによって占められているという事実である。
わたしは、あらゆる児童文化財に対して絶望しても、いまの児童雑誌に対する悲願は、なんとかして、日本の子どもたちに、正しくものごとを考える力を減殺しないでほしいということである。一メートルでも半歩でもいいから前進してほしいという悲願をもたざるを得ないのである。児童雑誌の良心性が九月号あたりから現実化するだろうという期待をもっている人びとが少なくないということだけは銘記してほしいと思う。
(成蹊学園小学部主事)
1954年2月21日 読売新聞
子どもの文化環境
神崎清
児童文化の問題は、一個のオモチャ、一冊の絵本から出発する。が、今日必要な観点は、そうした文化財が大量に生産・販売される社会、文化財をうけ入れる学校や家庭の機構全体をひっくるめた文化領域のなかで、子どもの生活の現状をながめることである。生活の場で、文化財というモノが、子どもの精神・行動に作用している現実の姿を動的にとらえることである。
しかし、子どもの文化環境は、大人の文化環境と別個に存在しているわけではない。苗床と畑の関係において、日本という文化国家の一部を形づくっている。この文化国家のテッペンから谷底を見おろすと、どんな光景がうかんでくるか。刺激的な活字、毒々しい絵具、扇情的な音波の乱雑な累積であって、児童文化の世界は、ただ荒廃の一語につきる、といえるであろう。
かつて戦争がん具の追放がさけばれたとき、大きなデパートだけが応じた。デパートは、ほかにも売る商品がたくさんあったからである。鉄扇や刀の生産系統を追いかけてみると、裏長屋のまずしい人たちの家庭内職につきあたり、その生活問題をどうするかということで、運動が足ぶみしてしまった。戦争がん具にかわるものとしての教育がん具、科学がん具の生産も、かけ声だけで、芽をふきださなかった。
いま子どものあそびの世界では、戦争がん具がチャンバラごっこ・探ていごっこ・インディアンごっこの主要武器になっている。ある学校の調査によると、望遠鏡やヨットを持っている子どもがすくなくて、ピストルや刀を持っている子どもが、全体の三分の二をしめていた。
幼稚園の小さい子どもまでが、五本の指でピストルの形をこしらえ、パン、パンと口で発砲しながらあそんでいるのを、母親たちは知っているであろうか。がん具のピストルに入れる紙カンが破裂して、ケガをした幼児も、二人や三人でない。
戦争がん具に満足しなくなった中学生が、苦心をして材料をあつめ、本ものにちかいピストルをつくりあげて、警察をおどろかした。これは子どものさかんな発明心が、武器生産にむけられた好個の実例である。
もとより、子どもの生命力からあふれだしてくる活動欲や競争本能を頭からおさえるのは、まちがいだが、しかし、子どものエネルギーが、戦争がん具をとおして、集団的な戦争ごっこ、ギャングごっこに組織されていくところに、危険な問題が露出している。軍艦マーチの復活は、その最大の伴奏といわなければならない。
戦力放棄、永久非武装を規定した日本の憲法の改正問題が、大きな論争の的になっているとき、子どもの世界では、一歩をさきんじて、保安隊と同様、すで「戦力なき軍隊」ができあがりつつあるのである。
こうした戦争がん具の流行は、はたして子ども自身の要求から生れてくる自然発生的な原因であろうか。それとも、日本の支配者がにぎるマス・コミュニケーションの組織的な影響であろうか。
戦争は、国際的紛争の暴力的な解決である。軍備は、暴力を肯定する思想の上に成りたっている。日本は、文化国家の看板を出しているけれども、軍国主義の切株を掘りだして根だやしにしたわけでない。平和が大いに賛美されていた時代でさえ、ただ戦争を概念的に否定しただけであった。教育基本法にりっぱな理想が書いてあっても、教育機関が、子どもの日常生活から暴力を追放し、平和的・合理的にものごとを解決しながら、あかるい社会を建設していく態度、方法を身につけさせることに成功したとは、どうしても思えないのである。
子どもの読物では、戦後しばらく童話の出版が王座をしめていたが、いまは、冒険、活劇ものが、アメリカの西部劇映画や、チャンバラものにあきられて、完全にリードしている。子どものあいだで大へんな人気のある「少年王者」を分析した学者の報告によると、十六個のさし絵のうち、六個 はアッパー・カットで人をなぐっている場面、四個はピストルでうちあっている場面であったという。
「冒険王」以下の雑誌の表紙に出てくる子どもは、いつもピストルをにぎっている。こうした視覚教育をとおして、子どもの心にうえつけられる暴力的傾向は、たやすく軍備肯定、戦争肯定の思想とむすびついていく。本来健康なはずの子どもの英雄主義や冒険精神が、文化的建設に向かわず、血なまぐさい争闘や犯罪へおちこんでいくのを、このまま見すてておいて、いいものであろうか。
アメリカの開拓者物語も、日本の子どもの読物のなかで、大きなスペースをしめている。きまってインディアンが悪者であり、最後は白人の勝利、黒人の全滅となって、めでたく幕をとじるのである。アジアを舞台にする冒険物では、あやしげな中国人や何々スキーという名の悪漢が登場してきて、日本の少年を苦しめるが、正義を愛するアメリカ人があらわれて助けてくれる、という筋が一つの類型になっている。
「北の方のおそろしいシロア国」という言葉ほど、俗っぽい読物の政治的感覚をうまくあらわしている言葉はない。こうした無責任で金もうけ主義の文化財、俗悪文化財で組立てられた文化環境のフンイキのなかで、日本の子どもが、知らず知らずのあいだに、黒人、アジア人へのべっ(蔑)視、ソ連への恐怖、アメリカへの依存へかたむき、民族的偏見のとりこになっていくのは、なんというおそろしいことであろうか。
アメリカの基地は、ヨコスカや立川ばかりでなく、児童文化のなかにもできあがっているのである。大阪のある小学校の六年生は「私はなぜアメリカに生れなかったのか、と考えずにはいられない。アメリカの小学校も、やはり大きいのでしょう。一度でいいからアメリカへいってみたい。アメリカの友だちと勉強してみたい」と書いている。
向米一辺倒の政府と、マス・コミュニケーションは、当然の成行きとして、ついにこのような植民地型の子どもをうむに至ったのである。MSA再軍備の強行と教育の圧迫は、児童文化の植民地化にいっそうつよい拍車をかける結果になることを警告しておきたい。
(筆者は日本子どもを守る会副会長)
1954年10月15日 読売新聞
子供と新聞放送
第二回全国児童文化会議から
児童の幸福と健全な育成をはかるための「第二回全国児童文化会議」は十月十三日-十五日の三日間、全国教育委員会の児童文化担当者ならびに指導者九十名を集め、東京神田の一橋大学講堂で開かれた。討議された議題は▽児童に影響を与える各種文化財(図書、出版物、紙芝居、がん具、映画、幻灯、演劇)の現状とその対策▽新聞、放送の児童に与える影響▽児童の組織活動の育成と指導者育成について▽児童関係施設の整備拡充策について▽児童をめぐる環境の浄化対策についての五つだったが影響が大きいにもかかわらず看過されていた新聞、放送が児童文化の問題として取上げられたことは、この会議の一つの成果といえよう。
大人の娯楽番組も慎重に
科学的内容が大切
親もそろって読み、聴こう
子供と新聞
子供と新聞はどういう形で結びついているのか。まずその現状を国立国語研究所が東京都、千葉県八街市、同県神埼町の三ヵ所で、小学校一年生から中学三年生までを対象に行なった調査からみてみると、新聞を読みはじめた時期は小学校四年のときというのが一番多い。新聞を読んでいる比率は小学校一年二・三%、二年一〇・二%、三年三一・七%、四年五五・四%、五年七五・五%、六年八七・八%で中学生になると九五%で、ほとんどのものが読んでいる。
どの記事を一番よく読むかについては年齢によって差異があるが、全般的な傾向としては1・マンガ 2・写真 3・スポーツ、広告 5・子供欄 6・社会面の順である。
記事内容については美談、学習記事がためになる、殺人事件、交通事故はいやだと答えている。そして希望としては子供欄、マンガをもっと多くというのが圧倒的である。男女別にみると男子はスポーツ記事を好み、女子は美談が好きという傾向が出ている。
新聞を読む態度としては一般的な興味からというのが大半で、学習的な興味、社会的な興味、地域的な興味から読んでいるのはごくわずかしかいない。読まない理由は、文章がむずかしいからというのが大部分である。
子供欄の量と漫画の質を……
新聞への注文
調査の数字をみてもわかるように、マンガは子供にとって新聞のすべてといえるほどの地位を占めている。しかも子供がマンガから直接的、間接的にうける影響が大きいことは雑誌の例から見ても明らかなことである。新聞マンガは雑誌に比べると子供に悪影響を与えるようなものは少ないが、時として科学性を欠いたものがある。子供に夢をもたせることは必要だが、非科学的なものは害こそあれ益はないのだから、十分に注意してほしいというのが第一の注文。第二は写真の扱い方についてで、事故の現場写真など、そのむごい場面をそのまま出さないでほしいという意見、第三は広告の問題で、子供は映画をみる場合、新聞広告をみて行く事が非常に多いのだから、広告文、写真にエロなもの、残忍なものを使わないように注意してほしいという点。
子供欄については内容的には問題はないが、毎日少なくても一定のスペースをもつことが望ましい。これは現在の家庭経済からいって子供のための新聞をとってやる余裕がないのだから、一枚の新聞に家族全員がよめるページがそれぞれあることが望ましいという理由からである。
社会面については家庭で話題にできるような明るい記事がほしいということが強調された。
子供の時間は夕食後がいい
ラジオ テレビ
ラジオと子供の関係は新聞の場合よりさらに深い。家庭におけるラジオの占有権は子供にあるといってもよいくらいである。それだけにラジオの場合は単に子供の番組を注意してつくるというだけでなく、大人の番組にも常に子供も一緒にきいているという配慮がほしいということが強調された。
子供たちの言葉を例にとってみても、悪いことばはまずラジオの大人の娯楽番組から覚えている。娯楽番組も娯楽そのものでなく生活必需品としての娯楽ということを番組をつくる人は考えてほしいということである。
子供の時間については第一に時間の点である。現在の時間は子供たちはまだ外で遊んでいる時間だから、これでは昨今の子供たちがきかない。またラジオを使っての家庭教育という点からいっても、この時間では家事が忙しくてきけない。やはり夕食後いっしょに話合いながらきける時間にぜひ子供番組を入替え、同時に子供番組の数をもっとふやしてほしいという要望である。
第二は内容の問題で、マンガと同時に非科学的、前近代的なでたらめな番組がかなりある。夢をのばせる科学的な明朗なものがほしいという意見である。
以上の要望は放送全体に対しての要望であるが、民間放送についてはとくに広告放送の内容をもっと吟味すること、局の中に子供番組の研究委員会のようなものをつくって、スポンサーに左右されない番組を出してほしいという点が希望された。
テレビについてはテレビがこれから一般化してくるが、その教育的要素が大きいだけに、将来の子供のための教育的な番組が大きな要素を占めるように、いまから運動しようということが申合された。
◇ ◇ ◇
以上が新聞、放送と子供の問題の討議のあらましであるが、これらの要望と同時に親たちは、新聞や放送の子供に与える影響の重要さを意識して、いっしょによみ、いっしょにきくことによって子供を健全に育ててゆく気持を持つことが大切であることが強調されていたことは、見逃してならない点である。
児童文化会議に出席して
低調さこそ最大の収穫
青江舜二郎
今年のこの会議は1・児童文化財(映画、劇、紙芝居、読物) 2・新聞、放送(マスコム) 3・児童の組織活動 4・施設 5・環境浄化の各分科会を中心に行われ、私は第一分科会に出席した。
第一分科会においては議長(諸野嘉雄(?)氏)が問題点をはじめから、児童を対象とする各種文化財において(一)悪影響をあたえつつあるものをいかに具体的に排除し、浄化するか(二)好もしきものの普及浸透をさまたげているものは具体的には何かの二点にしぼり、さらに二日目において、児童を指導対象としない文化財について、やはり同じくくこの二点にしぼって、討議を要請したのが、議事の円滑な進行に大いに役に立っていたと思う。最後の日の午後に各分科会の報告があり、会員のアンケートによるこの会議の「評価」が発表されたが、会の成果を「普通」としたものが圧倒的に多かった。これは私の印象ともまったく同じで、まさに残念ながら低調であったといわざるをえない。
その原因は私はまず出席者の顔ぶれにあったように思われる。地方側出席者約九十名のうち六十名は、社会教育課長、主事、教育委員などの大委員で、教員、主婦会、青年団などのような、いわゆる「現場」の人が少なかった。したがって〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓(判読不能)に欠け、いっこうに空気が盛上がって来なかった。
第二の原因としては「好ましからざる事象」についての具体的な認識、調査、観察が貧しかったことがあげられる。これは出席者の顔ぶれとも必然的に関係があるのだが「悪いオモチャ」とか「悪い紙芝居」とか「悪い放送プロ」とかいっても、業者側から「具体的事例を」とつっこまれると、実はその発言者がほとんど「悪いもの」を見たり聞いたりしていないために押しかえす力がなく、業者も知らないデータや事例でいやおうなしにその人たちを沈黙させるというようなことがほとんどなかった。これは、今後の出席者側において大いに反省すべきことおと思う。わずかに「がん具」のところで、きわめてあっさり見送りになった空気銃が、その後おくれて出席された動物愛護会の人のくわしいデータと真情のこもった発言によって、私たちを強く動かし、ついにそれを児童の世界から「しめ出す」という方策を講ずるところまで一気に発展したが、これこそこの会議の真のあり方を示したものといえよう。
このようにして各分科会から提出された建設的な意見は、最後に議長によってまとめられ、文部省を通じて「事務的」に関係団体に要請され通達されるのであるが、私はこれと同時に、この会議の名を通じてひろく一般に報告、声明すべきではないかと考える。それによって民衆は、いま、いかなるところに児童をむしばむものがあるかを知り、それに対応して、各地区の児童関係諸団体および個人が、心を合わせて日常の生活の中にこれを処理して行くという態度が、おそらくは、ずっと積極化するように感じられてならない。--もっとも貧しい庶民の内職によってつくられる一円、一円の小物がん具の中に問題になるがん具が多く、しかもそれが年間五十億にも達するという。そしてそんなオモチャしか買えないのはまたこうした庶民の子供なのだ。こうした日本の底ぬけの貧しさ、救いのなさは、もはやこの会議の力をもってしてはどうにもならないのであろう。わざわいは外にあるのだ。今年の会議は読物、パチンコ、赤線区域などの問題でも、そのみずからのまずしい限界をさらけ出して見せたがゆえに「低調」であった。しかしこの低調さこそ、実はこの会議の最も大きな収穫ではなかったか。
(劇作家)
1955年4月14日 読売新聞
悪書追放・警視庁も重大関心
リストに60出版社
青少年性犯罪激増のもと
不良出版物から児童を守る、“見まい、読むまい、買うまい”のいわゆる“三まい運動”はようやく大きな国民運動となりつつあるが、警視庁でも青少年犯罪の大半が不良出版物の影響である点を指摘、この運動の前途に深い関心を寄せている。警視庁がとくに問題視しているのは児童出版物より一般向け桃色出版物で、刑法すれすれの線で出版されるこれら桃色雑誌、単行本が青少年犯罪に大きな関係をもっている点を重視、世論による反省と自粛が行われない限り、取締りをいちだんと厳しくしなくてはならないという観点から見ていることは、やがて出版の自由と法的規制の本質問題にふれるものとしてその成行きが注目される。
警視庁ではまず昨年度の青少年犯罪四百五十七件は一昨年の百七十三件にくらべ三倍近い激増で、原因を調べるとそのほとんどがこれら不良出版物からの影響であることがわかったとしている。また同庁少年課の調べによると青少年犯罪のうち性犯罪はいままで一割以下だったものが二十九年度は二割に激増、その多くが不良出版物、ストリップなどの影響によるものとみており、そのうち出版物を読んで最近、婦女暴行、窃盗をはたらいたり特飲街に出入りするようになったとハッキリ動機を自供しているものだけでも二百四十九名に上りとくに婦女暴行は五十件、いかに不良出版物が青少年に害毒を流しているかわかるといっている。
同課の調べによるとなかには十三歳の少年がふと姉のもっていた「夫婦生活」を読んだことで刺激され二十一歳の婦人にいどみかかった例もある。とくに注目されるのは青少年性犯罪の被害者が鏡子ちゃん事件でもわかるようにいたいけな幼女が多く十一歳未満の幼女が百十一名犯され、なかには五歳の可愛い幼女さえ被害をうけていることである。某高校一年、十七歳の少年は五歳から十歳の幼女ばかり二十数名にいたずらしていた。
いま警視庁のリストに上っているこの種不良出版物は月刊雑誌約三十、特価本約二十、出版社はおよそ六十社、一回六千部程度発行となっているが、その多くが堂々と本屋、駅、貸本屋にならべられている。そのうちあくどい不良出版物については「わいせつ文書」として刑法による発売禁止の措置をとり昨年度は“風流タイムズ”“夫婦生活”など二十九種七万五千余部を押収、今年に入っても“奇譚クラブ”“セクサス”など五種六千四百部を取締っており、月刊雑誌では“りべらる”“千一夜”“デカメロン”“オールロマンス”“風俗草紙”などがいずれも一回ないし数回発売禁止処分を受けている。
しかし取締法規は刑法に規定された「わいせつ文書」があるだけで、刑法に抵触しない限り取締まれないため刑法すれすれの線で出版されているものが野放しのまま店頭に並べられ、青少年に悪影響を与えているとわかっていながら取締りに困っているのが実情で、たまたま盛り上がってきた国民運動に注目、これをきっかけに取締り面でも呼応して、もしこの運動が成果をあげ得ない場合は上からなんらかの手を打とうとしているものと見られている。
警察防犯課員談「不良出版物ははじめからわいせつ的な意図のもとにつくられているが、刑法にひっかからないうようたくみに表現しているため取締りがむずかしい。刑法ではたんに『わいせつ文書の頒布など』となっており文学、美術品でも対象になるためここにむずかしい問題がある。しかし実情は刑法に規定されたエロだけでなくグロテスクなものなど青少年を守るためにも考えなければならないと思うものが相当あるが、わいせつ以外のケースは取締まれないので業者の良識にまつほかはない。われわれは鏡子ちゃん事件を二度とくりかえさせてはならないという信念で対策を考えている」
現行法規で取締れ
社会評論家神崎清氏の話「警視庁当局が桃色出版物に対する取締りを強化するということはきいていた。ただし最初はエロ弾圧であったのが力学的に一般言論への弾圧とならねば幸いだ。現行法規でも取締りは十分やれる。一般的桃色出版は最近の世論の非難にあって売れ行きは落ちる、ぞくぞく廃刊している、挑戦的な“〓〓通信”など一時は二万部とうたわれていたのがいまや激減、六月号から廃刊に決定したそうだ。出版団体、配給機構、民間諸団体の三段構えの浄化運動が着々と実を結びつつある今日、当局の伝家の宝刀がサヤ走るのはちょっと待ってもらいたい。それより先に1・会員組織の秘密出版 2・書店などで売られるガリ版刷りわいせつ文書など監視すべきものが沢山ある」
1955年7月23日 読売新聞
児童雑誌への批判
出版社の立場から
浅野次郎
最近児童読物に対する批判が華々しく展開されているが、従来児童雑誌の分野に対する批評が極めて低調であり、一般の関心がはなはだ薄かったことは事実であった。そうした実情のもとにおいて、一挙に枯野に火を放つように「俗悪書追放」「マンガは一種の怠慢奨勧だ」等々の提唱が、マス・コミの波に乗って全国に広がっては、一般の父兄が児童雑誌に対し「見ない」「読まない」「買わない」という極めて消極的な態度になるのも無理からぬことである。しかしこれも過程における一現象であって、次第に建設的な児童雑誌批判がなされるようになったことは喜ばしいことである。
六月二十五日本紙上の滑川道夫氏の児童雑誌評は、この点、概念的な印象感想の域を脱していなかったように思う。氏は、現在の児童雑誌はすべて俗悪であるという固定概念をふえんし「落ちるところまで落ちた」「いっそう輪をかけた悪どさ」「なくてもがなのオマケ」「とくにくだらない」「えげつないやりかた」「…にはがっかりする」などの言葉によって終始していた。現実にある児童雑誌をより一層高めてゆくための建設的な意見、内容の一つを取上げての分析的批評は見られず、ただ切捨て御免的強圧のみが印象づけられた事は残念でならない。
児童に対する読書指導は児童自ら何が良書か、どのように読み、どのように取捨して身につけるべきかを、考えさせ判断できる能力を養うことではないかと思う。
ただ「俗悪だ」「読んではいけない」と児童に命じ、焚書(ふんしょ)までしても問題は決して解決しないのである。児童が、なにを、どう読みとっているか--そうした児童の読書現実の観察からこそ、建設的な批評が生まれ、健全な児童雑誌の発展も約束されるのではあるまいか。
ジャーナリズムにおける児童雑誌評は、いままで皆無といってよかった。最近の児童雑誌に対する批判を契機として、子供ものだからという安易さを排した本格的な具体的雑誌評がとりあげられることを切望してやまない。これのみが児童雑誌の諸問題を解決するキイポイントであると思う
(小学館児童編集部長)
1955年11月28日 読売新聞 夕刊
漫画ブーム
“お手軽すぎる”
河盛好蔵
ちかごろは漫画ブームだそうである。漫画雑誌がいくつも出て、それがみなよく売れるそうだし、新聞は言うに及ばず、大人の雑誌から子供の雑誌に至るまで、漫画ののっていない雑誌はなく、著名な漫画家は息をつぐ暇もないほど仕事に追いまわされている、と言われるから、うわさ半分に聞いても、漫画の流行時代であることはまちがいなさそうである。しかしどんなものでも、それが流行するからには、世間にその要求があるためで、つまり、現在の日本人は大人も子供も非常な漫画好きということになる。
だが、漫画の好きなのは日本人だけではないらしい。伊藤進平氏の話によれば、アメリカには三千人の漫画家がいて、彼らの作品を配給する業者が百五十社もあるそうである。ブロンディやそのほかのアメリカ漫画は日本にも輸入されているが、世界中にもばらまかれているにちがいない。鉄のカーテンの向こうでも漫画が大いに悦ばれていることは、ソ連の有名な漫画雑誌「クロコディール」をはじめ、その衛星国からもたくさんの漫画雑誌が出ていることをもっても分る。
ぼく自身についていっても、漫画は決してきらいではない。毎朝、新聞をあけると、まっさきに見るのは漫画である。まず政治漫画を見て、それから連載漫画を見る。そして、サザエさんなり、デンスケなり、トドロキ先生なりが相変わらず罪のないヘマをやっているのを見て、まず今日も無事にすみそうだという理由のない安心感をもつのである。
もちろん、毎日感心したり、面白がったりして見ているわけではない。なんという古くささ、なんという低俗--と舌打ちする場合も少なくないのであるが、しかしこれらの連載漫画が、もし新聞から消えてなくなったら、定めし物足りない思いをするにちがいないと思われる。
だが、わざわざ漫画雑誌まで買って漫画を見るほど好きかというと、わが親愛なる漫画家諸君には悪いけれども、ぼくにはまだそれほどの情熱はない。その理由の第一は、横山泰三氏の言うごとく「漫画家だって要するに絵描きでなければいけない」はずだが、絵として鑑賞できるような漫画にはめったにお目にかからないからである。また漫画にはなによりアイディアが大切であるが、これはこれはとひざを打つような奇想天外なアイディアをもった漫画にもめったに会わないからである。
つまりぼくが新聞をよむとき、まず最初に漫画を見るのは、朝眼を覚ますとまずタバコを一本ふかすのと同じく一種の習慣もしくは中毒症状になってしまっているからであって、漫画そのものに別段敬意を払っているわけではない、ということになる。そしてぼくと同じような気持で漫画を見ている人は案外多いのではないだろうか。極端に言うと、新聞あっての漫画であって、漫画自身は一人立ちをしていないのではないかと思うのである。
こんなことを書くと、そんなら漫画雑誌が売れるのはどういうわけだと詰問されそうだが、それは新聞や雑誌で漫画家諸君が顔を売っているからである。その上、漫画雑誌から外国の傑作漫画を取ってしまったら、果していつまで読者の興味をつなぐことができるか疑問ではないかと思う。現に、漫画雑誌の編集者は外国漫画を独占するのにシノギを削っているではないか。油断はならないのである。
ぼくは一部の人のように、漫画の流行を憂うべき傾向とも、なげかわしい風潮とも少しも思っていない。しかし漫画家諸君が現在のような安易な仕事をいつまでもつづけていたら、きっと人々にあかれるだろうことは確実である。ぼくはフランスの週刊誌「マッチ」を購読しているが、あのなかの漫画は(もちろんすべてが分るわけではないが)見れば見るほど含蓄があって、興味深いのにいつも感心する。アイディアもすぐれているが、それよりも、そういうアイディアを思いつく頭脳に敬服するのである。
それにくらべると、わが国の漫画はいかにもお手軽である。何を表現しようとするのかよくは分らない漫画はもとより落第であるが、あまりに簡単に分りすぎる、と言うより、どうしてこんなくだらないことに面白がっているのだろうかと思わせる漫画が多すぎるようである。見る人の頭脳の体操になるような、われわれに考えさせてくれるような漫画をもっとたくさん書いてもらいたい。
ちかごろは政治漫画の貧困がよく言われるようだが、日本の漫画家はどうも政治漫画には適しないようである。それは彼らの政治的立場がはっきりしないからだと思われる。しかしぼくは政治漫画については多くを望まない。風俗漫画で結構だから、風刺された当人までが、その鋭さと鮮やかさのために、快感を感じるような、切れ味のよい漫画をもっとたくさん書いてほしいと思う。
(文芸評論家)
「漫画読本」追う週刊誌
時事色をいかす「漫画読売」“組織的製造元”も現われる?
最近のマンガブームに先べんをつけたオトナ用マンガの製造元は、文芸春秋新社である。
昨年十一月「文芸春秋」の別冊を「漫画読本」と銘うって出版したのが始まり。この企画、東北線の車中で、横山隆一が、なにげなく、文芸春秋の編集長池島信平にもちかけたのがきっかけであったことは周知の通りである。出版ジャーナリストの中で、商売上手とカンのよさで知られる文春の編集子たちでさえ、この企画には、おっかなびっくり、全く自信がもてなかったという。それが、売ってびっくり玉手箱となった。銀座、有楽町かいわいは、二日で売切り、十七万部を数日で売りつくしたばかりでなく、一週間目には、神田の古本街の店頭にプレミアムつきで、ならべられたほどであった。
出版界の盲点であり、タカラの山であったわけだ。
それから一年「漫画読本」は、七号を重ね、最近は隔月発行で、部数三十万をこえている由。当分は、この体制でゆくという。
読者層は「文芸春秋」の読者とほぼ同じであるが、田舎では、あまり受けていない。都市、とくに東京での人気が強い。外国マンガなどを多くとり入れているせいもあるが、マンガも、ある程度、泥臭くないと、田舎受けはしないらしい。「漫画読本」の編集のネライもスマートさにある。「マンガとは、本来、スマートなものだ」というのが、編集部のマンガ観である。
「週刊読売」(読売新聞社出版局発刊)が発行されたのは十月。題材に時事色が強く、政治モノなどを活用して「漫画読本」にない特色を生かそうとしている。マンガに加えて、読物のページも多く、記事にならないニュース種や、コボレ話をベテラン記者に書かせている。編集意欲は「漫画読本」より積極性をみせ、こんご隔月発行の予定。
過去一年、おおげさにいえば、独占出版を続けてきた「漫画読本」に対し「漫画読売」の台頭はマンガブームにいっそうの拍車をかけよう。独占出版といえば、文芸春秋新社は「漫画読本」を出版するに当り「漫画増刊」「漫画特集」「マンガサロン」「マンガクラブ」などの題名を、約十種ほど商標登録して、権利擁護を図ったほどである。一部では訴訟問題さえ起りかけたが、いまのところ、題名をめぐっての係争はない。
「週刊サンケイ」が漫画特集を出したのは去る五月。それ以来、七月、十一月と三回特集号を出したが、これは「週刊サンケイ」誌のはじめの部分に、マンガを集めた形式で、マンガオンリーではない。わずかのページをさいて「漫画特集号」と銘うったにすぎないが、販売効果はかなり上がったという。十二月四日号には、二百号を記念して「漫画人生問答 西側への招待」というサブタイトルで約三十ページのマンガページをのせて売出した。こんごは、ブーム現象のの様子を観察しながら、漫画ページの増減をはかるという組織性をもたせているのが特長である。
朝日新聞も「週刊朝日」の新春特別号を「新春お笑い読本」と題し、マンガを多くのせて、肩のこらない読物にする予定であるが定期刊行までは計画していない。
そのほか、漫画雑誌発刊の予定は、いまのところ見当らないが、毎日新聞が、日曜マンガ新聞のような形式の新手を考慮中といわれ、実現すれば、ブーム現象は、いっそう高まろう。マンガブームがひろがり、マンガジャーナリズムが機動化するにつれて、マンガ雑誌の出版が、次第に、大資本の会社へと移ってゆく傾向が強い。
ひとくちに、マンガブームといっても、各製造所の台所はそう楽なものではない。稿料がかさむ。
漫画集団の中堅以上になると稿料が平均一ページ一万円以上。もちろん安いほうは三、四千円なんていうのもあるが、文章の稿料にくらべかなりの割高になる。それに安心して使えるマンガ家の数が少ない。勢い、流行マンガ家のところへおしかける。が、マンガ家の製造能力は、意外に低い。アイディアの枯渇が激しい。日本のマンガ家は、いわゆる作家として、手工業的にしか仕事をしない。アメリカのように、アイディアマンや、デザイナーや、多くの弟子をやとっておいて、マンガ家自身は、監督者のような立場から、マンガを作成するというシステムをもった人がいない。日本マンガの特殊性と、システムぎらいな通有性から、こういうやり方に批判的なマンガ家が多いようだが、現在のブーム現象をうめ合わせるには、アメリカ流の、システム派マンガ家の出現を期待する声が強い。横山隆一あたりは、日本式小ディズニープロの構想をもっているが、これが実現すれば、わが国で、はじめての組織的マンガ製造元ということになろう。
(W)
編集者が漫画家にオンブしているだけではすぐ共倒れになってしまう。マンガに対するセンスのある編集者が漫画をひっぱってよい漫画の本を作るようになるのは漫画ブームが終ってからだろう。(岡部冬彦)※カットあり
新年号付録合戦
子供ものは力道山
1割高で倍も売る
新年号雑誌のはしりは「平凡」「明星」「オール読物」など二十種ほどの大衆娯楽ものが顔をならべ、次いで幼児、少年少女もの、総合雑誌、文芸雑誌、婦人雑誌の順に、十二月二十日ごろまでには全部発売される。いま日販、東販など五大取次店の倉庫は、別々にトラックで運び込まれる新年号の荷さばきにごったがえしている。とにかく「新年号が売れないとその年は景気が出ない」というジンクスがあるとやらで、各社はここぞとばかり知恵のありったけを絞った末が、例年の付録合戦だ。殊に児童ものと呼ばれる幼児、少年少女雑誌などは、USO放送のいいぐさではないけれど、どれが本誌で、どれがおまけか見分けもつかない盛りだくさん。付録の人気は売上げを左右するときけば無理もない。【カットは日販に集まった雑誌新年号の山】
案外、地味な娯楽誌
▽先ごろ悪書追放のヤリ玉に上げられた幼児向きの某漫画雑誌は夏以来がったり売れ行きが落ちていたが、大人の世界も子供の世界も漫画ばやりの風にあおられて、最近また息を吹き返し、付録にはつけもつけたり漫画別冊四冊、姉妹誌の「冒険王」には五冊という徹底ぶり、幼児誌「ぼくら」も四大付録のうち三つが漫画別冊、内容も、従来のターザンものや冒険ものよりプロレスや柔道などを仕組んだものが圧倒的、力道山が盛んに登場している。
ひっぱりだこ漫画家
▽このように子供付録の中心が漫画であり、大人の世界でさえ漫画読本大歓迎という御時世に、一流漫画家はひっぱりだこで、その争奪戦はものすごい。各社立会いで順番を決め、番にあたった社は漫画家をカン詰にして仕事を急がせる。少しでも仕事がのびれば矢の催促。編集者もおつき合いで徹夜することもしばしばある始末。
別冊一本で二十万円はかせぐといわれる売れっこ漫画家もまたつらいかなである。
最高記録は付録九つ
▽いわゆる児童雑誌のなかでは、付録の数が九つというのが最高で、小学館発行の「幼稚園」から「六年生」までの学年雑誌。ここでは漫画は一冊ぐらいにとどめ、カルタやスゴロク、ボール紙の組立がん(玩)具。学習年鑑といったものを学年に応じて盛りだくさんにつけている。
大人の世界の剣豪ブームはまだ子供物にはあまりあらわれていないが、ただ一つ光文社の「少年」が「少年宮本武蔵」という絵物語を付録につけている。
婦人雑誌は定石通り
▽これら子供雑誌にくらべると、中学、高校向けの受験雑誌はもとより、娯楽雑誌や婦人ものはぐっと地味だ。殊に受験雑誌は、新年号だからといって特に付録を増すのでなく、受験期日の切迫に対応しての問題集や受験心得など、受験者必読書を呼びもの付録にしているのも面白い。
九月に創刊したばかりの「若い女性」が「あなたを美しくする絵本」「歌のアルバム」などはじめて付録をつけ、若い娘たちの教養雑誌をねらっての編集。婦人雑誌では「主婦の友」が例年通り「日記兼用の家計簿」(毎日のお惣菜献立と家庭ごよみつき)と「婦人、子供、男子の洋裁と洋装」の日本建。その他「婦人生活」「主婦と生活」「婦人倶楽部」などのいわゆる家庭雑誌はいずれも洋裁、和裁、編物集と例年の定石通り。本誌では連載小説の入れ替え、口絵や本文に多少の増しページをするなどの細かい芸をみせ、定価はいずれも二割高となっている。
農村景気に期待する
▽子供雑誌があれほど盛りだくさんの付録をつけても定価は平常の月の一-二割高。これでよく採算がとれるとよけいな心配もしたくなるが、各社とも「ふだんの倍は売れますから」と案外落ち着いて、薄利多売、部数をかせぐことを目標に、いずれも相当の増刷を見込んでいる。都会はクリスマス前後とお正月を見越し、地方は豊作にふくらんだ農村景気に大いに期待している。配本の適正こそは、新年号販売の関ヶ原と各取次店とも慎重、審議を期している。
徹夜の発送荷造り
▽十二月に入ると新年号の動きはいよいよ活発となり、各製本所から取次店の倉庫へ、店頭へとくり込む部数は日増しにふえるばかり。全国向けの出版物を扱う九段下の東販やお茶の水の日販では、トタンぶきの仮りバラックまで増設し、アルバイトを五、六十人も動員して、受入れと荷さばきの体制をととのえているが、東京、地方同日発売卸のために、鉄道関係は、八月ごろから配車準備の相談を重ね、期日が切迫すれば、徹夜の発送荷造りも珍しくないという。
(M)
1955年12月14日 読売新聞
マンガブームのナゾを探る
本社全国世論調査
今年はマンガブームにはじまってマンガブームに暮れようとしている。新聞や週刊誌がマンガに大きくページをさいているだけでなくマンガだけの雑誌、単行本が飛ぶように売れ、高級インテリを対象とする総合雑誌でさえも口絵にマンガを入れるなど、そのブームぶりはまさにすさまじい限りである。わが国でもマンガは遠いむかしから広く一般庶民に親しまれ、平安朝時代に早くも日本におけるマンガのはじまりといわれる戯画が現われているし、江戸時代には落書、明治、大正時代にはポンチ絵として国民にもてはやされてきた。しかし現在ほど流行したことはなかったようである。なぜ老いも、若きも、男も、女もこのようにマンガにひきつけられるのだろうか。本社ではこのマンガブームを解明するためにさる十一月二十、二十一日の両日、全国世論調査でこの問題をきいてみた。以下はその調査結果である。
世論風刺に魅力
十人のうち八人は見る
第一問 あなたは新聞や雑誌などの漫画をご覧になりますか、どうですか。
答 1・よく見る 三四%
2・時々見る 四三%
見ない 二三%
第二問 (前回の1および2に答えた人にきいた)あなたはマンガの魅力や興味はどこにあると思いますか。
回収総数二六一五を基数とした場合の比率。
答 社会世相の風刺 二〇%
面白い 一二%
簡単でわかりやすい 七%
ユーモアがある 四%
気持を明るくする 四%
生活と結びついている 三%
ただなんとなく 二%
子供のために 一%
その他 六%
わからない 一八%
(合計七七%)
第三問(一問の1および2に答えた人にきいた)最近のマンガの中で物足りないとかこんなものは困るとかお感じになったものがありますか。
回収総数二六一五を基数とした場合の比率。
答 ある 一五%
ない 六二%
(合計七七%)
教育上良くない
子供マンガに15%が心配
第四問 最近子供たちの間にマンガ熱が高まっていますが、あなたはこれについて何かお感じになったことがありますか。
答 教育上わるい 一五%
かまわない(影響ない) 九%
悪影響ないものならよい 八%
教育的なものならよい 七%
度を越さぬよう制限すればよい 四%
社会的知識がひろまる 二%
悪い遊びをまねする 二%
その他 一七%
わからない 三六%
第五問 あなたは新聞や雑誌のマンガの分量は、いまぐらいでよいと思いますか、どうですか。
答 いまぐらいでよい 六八%
もっと多くのせてもらいたい 八%
へらした方がよい 七%
わからない 一七%
第六問 あなたは新聞、雑誌、映画などで外国マンガをご覧になっていますか。
答 見ている 一四%
時々見ている 三四%
見ていない 五二%
第七問 あなたはどのようなマンガがお好きですか。
答 社会世相の風刺 三一%
家庭マンガ 二五%
子供マンガ 七%
歴史・時代もの 七%
ナンセンスもの 五%
その他 二%
わからない 二三%
【調査方法】今回の調査は層化任意標本抽出法により、全国から二百六ヵ所の調査地を選び、全国有権者総数の約一万六千分の一の確率で選挙人名簿から被調査者三千人を選び出した。これらの対象者につき直接面会して質問した結果回答のあったカードは二千六百十五枚、回収率は八割七分であった。(事故三八五の内訳は転居一三二、不在一〇六、旅行または出かせぎ七〇、病気五八、死亡一〇、その他九)なお百分比はコンマ以下を四捨五入した。
若い世代が圧倒的
分量は、もう飽和点
【解説】まず現在国民がどのくらいマンガを見ているか聞いてみた。「よく見る」三四%、「時々見る」四三%で、両方を合わせると七七%になる。国民十人のうち八人ちかくのものがマンガに親しんでいるといえよう。「よく見る」では自由専門四八%、事務技術四七%の順で年齢的には二十代四七%、三十代四一%と若い世代層が圧倒的に多い。「見ない」では無職三八%、農林水産二九%、五十代四四%が多く、はっきりした対照を示している。これらの傾向からうかがえることは、マンガ愛好者が若い知識層に多いということで、農漁村や無職などのとしよりは余りマンガに興味を持っていないようだ。見ないという人があげた理由では、忙しい、興味がない、きらいだ、老人だから、などのほかに、子供っぽい、バカにしている、というのがあって、マンガは大人が見るものではないと頭からつっぱねている。
ではマンガを見るという人たち(七七%)は、マンガのどんなところに魅力や興味を感じているのだろうか。これは現在のマンガブームを解明するうえに最も必要なことであろう。理由のうち一番多かったのは「社会世相の風刺」三一%となっている。これは民主主義のおかげでなんでも自由に批判ができる時代のせいもあろうが、マンガ独特のピリッとからい社会世相の風刺を国民が不満のはけ口として歓迎しているからだろう。この社会風刺を解する人は事務技術、自由専門に多い。「面白い」一二%は農林水産、女、四十代、五十代以上。「簡単でわかりやすい」七%(一目でわかる)は商工企業、農林水産など日ごろ仕事に追われている人たちの意見となっている。解釈によっては面白いという意味にも通じるが、とくに「ユーモア」と答えたのが四%あった。これは事務技術、自由専門の知識層があげている。「わからない」という一八%は、農林水産、労務現業、女、五十代以上に多くみうけられ、とくに農漁村の年とった婦人はマンガを理解していないようである。
つぎにやはり見ている人たち(七七%)に最近のマンガに対して注文や不満があるかどうかを聞いてみたところ「ある」一五%「ない」六二%で、国民の大多数は別に大した注文や不満を持たずにマンガを見ているようである。しかし自由専門、事務技術、商工企業、二十代は相当批判的である。不満としてあがられた理由は、子供マンガに悪いものが多い、ワイセツなものが多い、常識はずれ、余りに興味本位だ、サイレントマンガはわかりにくい、などだが、子供向けの悪い例としてはギャングもの、西部劇やチャンバラもの、空想冒険ものなどがあげられていた。
そこで子供のマンガ熱について大人はどのような関心を持っているか。第四問では「教育上悪い」と答えた者が一五%、これはマンガばかり見てろくに勉強をしないという親の心配が出たものだろう。面白いのはこれと対照的に「かまわない」(影響ない)と楽観している人が九%あることだ。教育上悪いと心配するのは三十代、四十代とちょうど小学生ぐらいの子供を持つ層、かまわないというのは五十代以上。そのほかでは悪影響のないものならよい、教育的なものならよいなどをあげている。
第五問では最近の新聞や雑誌にのるマンガの分量について「いまぐらいでよい」六八%「もっと多くせよ」八%「へらした方がよい」七%「わからない」一七%の回答をえた。いまぐらいでよいという比率が最も高いのは、定期刊行物におけるマンガの掲載量がほぼ飽和点に達していることを示すものであろう。もっと多くのせよという意見は労務現業、三十代に多く、いまよりもへらせは商工企業、事務技術、自由専門、五十代となっている。
第六問で外国マンガを国民がどのくらい見ているかをきいたが、「見ていない」と答えたものが五二%「時々見ている」三四%「見ている」一四%で国民の半数以上の人が見ていない。見ていると答えた人では、やはり事務技術、自由専門、男、二十代層が多い。時々見るという三四%と見ている一四%を合わせると四八%になるが、これを第一問の回答1・2 七七%と比較すると二九%の差が出ている。これは外国マンガを掲載している新聞雑誌が割合少ないことと、風刺の基盤となる風俗、生活がわが国のそれと大きくちがっているため理解しにくいことなどの理由によるものとみられる。
第七問、国民がどのようなマンガを好んでいるかとの質問で、最も多かったのは社会世相の風刺であった。これは第二問のマンガの魅力や興味で指摘されている理由と同じになっていて、国民がマンガに一番もとめているものはやはり社会世相の風刺であることがわかる。ついでは家庭もの、子供マンガ、歴史・時代もの、ナンセンスの順になっている。社会世相の風刺を好む層は事務技術、自由専門、男、二十代、三十代の知識層、家庭マンガは女、三十代、四十代、子供マンガは農林水産、女、三十代と家庭の主婦が好んでいるようだ。ナンセンスマンガが自由専門層に愛好されているのに対し、歴史・時代ものは農林水産、商工企業、五十代以上にファンが多くなっている。
なお第七問では関連的な質問として好きなマンガの題名を聞いてみた。その結果は、サザエさん、轟先生、デンスケ、ミーコちゃん、クリちゃん、ブロンディ、カッパ天国、社会戯評など新聞や週刊誌による連載マンガが多かった。そのほかでは政治マンガで知られる近藤日出造氏の作品もあげられていた。
1955年12月31日 読売新聞
ことしの出版界
三つのブーム
筆頭は「新書」続く「漫画」「剣豪」
作られたベストセラー
今年の出版界を象徴するものは三つのブームであった。いわく、新書ブーム、漫画ブーム、剣豪ブーム。新書ブームの出発は昨年度の伊藤整「女性に関する十二章」(中央公論社)が、大当りに当ったことに端を発し、発売十日目には佐藤弘の「はだか随筆」(中央公論社)と伊藤整の「文学入門」(光文社)とが同時に発売された。「はだか随筆」の方は、学者の書いた「Y号聖談」(辰野隆の評題)として、今日にいたるまで、新書版ベストセラーの最高記録(六十万部という)を保持している。「文学入門」の方は、中村武志のサラリーマン小説「目白三平」と並んで、光文社のカッパ・ブックスが、その後一冊残らずヒットする先例をひらいた。
今年になると、文字通り各社の新書合戦で、新潮社、筑摩書房、講談社その他が争って新書版を、自衛手段としても企画せざるをえなくなり、以前から新書を出していた河出書房、角川書店も他にならってビニール張りのカバーをつけた。新書の種類は六、七十種類も出ていると言い、いかに街にハンランしているかは、こころみに小売書店のタナをのぞいてみればはっきりする。今だにカバーをつけていないのは本家本元の岩波新書だけで、他はいたずらに華美な色彩で、ベストセラー階級の心理を追いまわしている状態である。
出版ダンピング
出版プロデューサーとして「作られるベストセラー」という考え方を強く打出したのは光文社の神吉晴夫である。彼はカッパの秘訣十ヵ条なるものを考え出しているが、彼とその幕下は書物のキャッチ・フレーズを見つける名人でもあり、カッパにはいると、これまで売れなかった著者も、家を一軒建てられるくらい売れるから不思議。地味な学者と思われていた渡辺一夫の「うらなり随筆」や本多顕彰の「指導者」などが、たちまち十万以上売れた新書である。その心臓型の神吉が、今年の出版物ベストスリーの回答にわが社から出した「欲望」(望月衛)「裁判官」(正木ひろし)と並んで岩波新書の「昭和史」を挙げたが、さすがの岩波も新書ブームに押しまくられて、やっと「昭和史」のヒットで息をついた形であった。良かれ悪しかれ、新書ブームは本年度最大の事件であって、それは一種の出版ダンピングであり、出版界全体が神吉のために手傷をこうむったとも言えそうである。
個人としては、二ヵ年つづいた伊藤整ブームが終って、それに匹敵するものは見当らないが、しいて三人挙げれば井上靖、石川達三、五味康祐であろう。ことに五味は剣豪ブームの中心人気でもあって、鴎外を真似たようなモッタイぶった文体に、映画構成のテンポの速い場面転換を加えたところが、若い読者への魅力となった。つまりアメリカナイズされた戦後派のマゲ物作家ということになる。
戦後派漫画の登場
漫画ブームの震源地は文芸春秋新社の「漫画読本」の成功である。ここにも戦後派の活躍が目立ち、横山泰三、長谷川町子などはすでに中堅にのしあがり、手塚治虫(おさむ)とか小林治雄とかいったアキレた連中が登場した。手塚は一日十七時間も働くという売れっ子であり、小林は泰三の欧米旅行中、泰三そっくりの漫画を書いて売出した変り種。漫画の度はずれな流行そのものが、アメリカ的現実なのであるが、その子供たちへの影響力は、「悪書追放」運動の一つの理由となった。
もっともこの運動の主たる対象は、刺激の強いエロ出版物ではある。それにお涙もの、冒険ものから、プロレスものまでが、追放運動の対象になっている。四月二十日、「子供を守る会」の主婦たちが神田で懇談会を開いたのを皮切りに、中野、杉並の出版小売業者たちも火の手をあげ、ついに二十八日、警視庁のゾッキ街急襲となり「主婦生活」その他エロ雑誌が廃刊のやむなきにいたった。その飛び火が「セクサス」「誘惑者」などの純文芸物にまで及び、ことに「セクサス」はヘンリー・ミラーの代表作でもあり「チャタレイ」以来の言論弾圧として、文学者たちは一時色めき立ったが、出版社側の弱腰で、簡単に翻ってしまったのはあっけなかった。取締り立法か自粛かということが問題となり、木々高太郎は日本文芸家協会に、文芸判定委員会を作れと提案したが、役人を加えた木々側は、言論の事前検閲機関になるおそれがあるというので、伊藤整その他の強い反対にあい、否決され、最近「言論表現対策委員会」という準備会が文学者だけで開かれ明年設置される。
目立たない良書
こう見てくると、マンボとチャチャチャの一年にふさわしく、出版界の一年はまことに騒々しかったということになるが、その中に目立たない良書が出なかったわけではない。その筆頭は、創元社の「現代日本詩人全集」の完成であり、口語訳聖書の完成であり、また「失われし時を求めて」(新潮社)や「トルストイ全集」(講談社)の完訳である。また諸橋轍次の「大漢和辞典」(大修館)が出はじめたのは壮挙であり、全集としては「国民文学全集」(河出書房)が古典の口語訳を試みているほかに「現代日本文学全集」(筑摩書房)が、営業部の意向と戦いながら、全百巻に増巻して、完全なものに仕上げようとしているのは特記されていい。
「文芸春秋」が五百号、「中央公論」が七十周年を、ともに盛大に祝ったのが印象的だった半面に「改造」が休刊してついに復刊の運びにいたらず、「日本評論」がこの新年号からようやく復刊したことも、今年の話題であった。
(Z)
1956年1月16日 読売新聞
悪書追放運動をもりかえす
新年号で逆戻り
子供の好み