(7)関東大震災における虐殺された朝鮮人は何人?(7回目)(2003年9月10日)

前にも書きました通り、虐殺された朝鮮人のかたの人数について、6000人もしくはそれに近い数字を挙げているサイトの管理人に差し上げましたメールの返事がちらほらと返って来ました。
・「関東大震災」(中公新書
・どの資料を元にしたのか、覚えていません
・書いたのがずいぶん前なので、どの資料を使ったのか正直覚えてません
という感じです。
俺のほうも、さらに何冊か目を通して見たり、過去に挙げた史料などを読み返してみたりしたんですが、少し勘違いがあったみたいで、その部分について触れてみたいと思います。まず、「朝鮮総督府官憲調査」なんですが、『現代史資料・6 関東大震災朝鮮人』(みすず書房)では、以下のようになっています。p459


朝鮮人の死者の総数幾何に上るかに付ては震災当時に之を正確にすることは困難であつたが時日の経過に伴ひ漸次判明した数は通して八百三十二名である此の内には震災による不慮の落命者と被殺者とを包含しているのであるが其の分界を明にすることは絶対に不可能である之は遺憾なことであるが致し方がない多数の鮮人労働者が本所方面に居住して居た事実から震火災の犠牲者も少くなからうと推測し得るのみである
文中に句読点がなくて読みにくいんですが、要するに「八百三十二名」という数字は「朝鮮人の死者の総数」で、震災による死者と虐殺による死者との合計だ、ということです。そうするとやはり「虐殺233人(司法省調査書)」という数字に近い数が出てくるのでしょうか。
で、その手の参考テキストの中では今のところ『関東大震災時の朝鮮人虐殺 その国家責任と民衆責任』(山田昭次・創史社)という本が一番参考になっています。その本では前に名前を挙げました「金承学調査書」については、以下のように記述してあります。p164

 関東大震災時の朝鮮人虐殺数を論ずる際に必ず取り上げられるのは、1923年12月5日付けの上海の大韓民国臨時政府の機関紙『独立新聞』に掲載された「本社被虐殺僑日同胞特派調査員第一信」に報じられた調査報告である(以下、「第一信」と略称)。
 これによると、虐殺された朝鮮人総数は6661人である。しかしこの調査がどのようにしてなされたのか、その他の調査に比較してどの程度信憑性があるのかを綿密に検討した研究はなく、わずかに神奈川県の朝鮮人虐殺数に関して行った梶村秀樹の研究があるのみである。
ここでまた「梶村秀樹の研究」という興味深いものが出てきました。少し飛ばして、続けます。

 関東大震災直後に朝鮮人が調査した朝鮮人虐殺数報告書は二つある。第一は前述の『独立新聞』に掲載された「第一信」中の調査報告である。第二はそれより以前の23年10月までの調査結果である在日本関東地方羅災朝鮮同胞慰問班の調査報告である。
 前者は、その後韓国で刊行された愛国同志援護会編『韓国独立運動史』に収録された。その日本語訳が、姜徳相・琴秉洞編『現代史資料6 関東大震災朝鮮人』(みすず書房、63年)に紹介されて、日本でも知られるようになった。
要するに「虐殺6000人説」が成立した(通説ということになった)のは、韓国では『韓国独立運動史』が刊行されて以降、日本では『現代史資料6 関東大震災朝鮮人』が刊行されて以降、ということになりそうです。
引用を続けます。

しかし筆写の際の間違いか、『独立新聞』に掲載された「第一信」とは字句に違いがある。史料として使う場合は、原本である『独立新聞』に掲載された「第一信」を使うべきであろう。
 姜徳相はこの報告書を「金承学(キム・スンハク)調査」と呼んだ。その根拠は、姜徳相は「『独立新聞』社長金承学がひそかに東京に入り、同志を糾合して犠牲者の調査をしたもの」と見なしたことにある(姜徳相、154頁)。しかしこの報告書の末尾は次のようである。
大韓民国五年十一月二十八日
              血涙のなかで
                        ○○○上
独立新聞社希山(フィサン)先生前に」
 宛先の希山とは金承学の号である。つまり、この報告書は特派調査員から独立新聞社長金承学に宛たものである。調査を担当したのは特派調査員であり、金承学は報告書の受取人である。
ここらへんで実は山田昭次先生、姜徳相氏の「調査書」の日本に対する紹介のしかたのいい加減さとか、「金承学(キム・スンハク)調査」と呼んだことに対してかなりお怒り、とまでは言わないにしても、もう少しちゃんとやって欲しかった、的な感慨を持っているのではなかろうか、と俺は思ってしまいました。あとでまた具体的に例を挙げて述べますが、確かにこの姜徳相氏のテキストは、イメージ操作的な印象を受ける部分があります。
引用を続けます。そろそろp166

『独立新聞』に発表されたこの報告書では特派調査員の名前は伏せられているが、これは韓世復(ハン・セポク)であろう。金承学の回顧録「亡命客行蹟録」には次のように書かれている。
「新聞社では倭京(日本の都)の震災時に韓人を大虐殺する事件が内外に伝えられたので、名古屋の雑誌社の韓世復を東京などの地に特派して虐殺の真状を調査した」(独立記念館韓国独立運動史研究所、431〜432頁)
 ところで、韓一人で短期間に関東一帯にわたって朝鮮人虐殺調査をすることは不可能である。韓は朝鮮人虐殺調査を行った在日本関東地方羅災朝鮮同胞慰問班に加わり、その調査結果を金承学に送ったものと思われる。
誰がどのような方法で調査をおこなったのか、だいぶ見えてきたような気がします。そのあと、本の中では具体的にその際の苦労なども書かれているんですが、まぁできたら本文を見てみてください(時間があったらテキスト化する予定)。
さて、困ったことに、山田昭次氏の主張は「虐殺された朝鮮人はもっぱら警察と軍隊によるものだ」という主張です。2ちゃんねる的には「ソースはどこ(どれ)よ」と言いたくなるようなものですが、警察・軍隊(国家権力)がそのような、自分たちに都合が悪いものを残しているわけがないと、言われてみるとそれはそれで説得力がありますね。そこらへんが困ったところで、ただし証言による「国家権力がおこなった虐殺の目撃」という例はいくつか紹介されています。時間があったらそれの分析にも取りかからなければいけないんですが、次は「虐殺の場所」と「数」に関する検討をしてみたいと思います。