国旗・国歌に関する朝日と産経(&読売)のやりとり

まず、朝日新聞が社説で次のように言った様子。
↓国旗国歌――大人がムキになる愚(朝日新聞・2004年3月18日)
http://www.google.co.jp/search?q=cache:i4W618fWpAIJ:ntt.asahi.com/paper/editorial20040318.html+%E5%A4%A7%E4%BA%BA%E3%81%8C%E3%83%A0%E3%82%AD%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8B%E6%84%9A&hl=ja&ie=UTF-8


 卒業式と入学式の季節がやってきた。思い出を胸に刻んで旅立ち、新たな出発をする節目の行事である。

 ところが、この時期になると、決まってうっとうしいことが起こる。日の丸掲揚と君が代斉唱を徹底させようという動きが年ごとに強まっているからだ。

 突出しているのが東京都教育委員会だ。卒業式や入学式で日の丸に向かって起立せず、君が代を歌わない生徒の多い学校を特別に調査する方針を決めた。担任らの日頃の言動を調べ、生徒の行動に影響を与えたと判断すれば、教師を処分する。

 さすがに生徒を処分することまでは考えていないようだが、生徒には「先生に迷惑をかけたくない」という心理的な圧迫がかかるだろう。

 国旗を掲げ国歌を歌わせるのに、そんなことまでする必要があるのだろうか。どう考えても、都教委のやり方はいきすぎだ。

 もともと都教委は昨年10月、こと細かな通達を学校に出している。

 国旗は舞台の壇上正面に掲げる。司会者が国歌斉唱と発声し、起立をうながす。教職員は指定された席で、国旗に向かって起立し、斉唱する。そうした内容を徹底させるために、都教委の職員を監視役として学校に派遣している。

 卒業式や入学式は本来、生徒たちのためにあるはずだ。日の丸に向かって起立することに抵抗感を持つ生徒もいるだろうし、君が代の歌詞に違和感を持つ生徒もいるだろう。教師や仲間と議論し、自分の判断で、立たなかったり歌わなかったりするならば、それはそれでいいではないか。

 学校や生徒の自主性を生かそうという教育改革が進められてきた。国旗と国歌に限って、なにがなんでも一律の方針を押しつけるのは自己矛盾というものだろう。

 国旗・国歌法が成立したのは5年前だ。その際、政府は「国として強制や義務化をすることはない」と説明していた。

 しかし、文部科学省は学習指導要領に基づき、国旗掲揚・国歌斉唱を徹底するよう求め、毎年、実際に学校で実施されたかどうかを調べている。各地の教育委員会も処分を掲げて締めつけを強めた。もはや強制しているとしかいいようがない。

 その結果、全国ほとんどの公立小中高校で日の丸が掲げられ、君が代が歌われるようになった。

 それでも満足できない。きちんと国旗を掲げ、全員に歌わせなければならない。そうしたことが次の目標になっているのだ。

 だが、むりやり起立させ、歌わせても国旗や国歌への理解が深まるわけでない。

 サッカー場で日本代表を応援する人たちが日の丸を振り、君が代を歌う。そうしたことが国旗や国歌の自然なあり方だ。

 卒業式や入学式は子どもたちにとって大切な思い出になる。大人たちが不毛な対立を持ち込むのはもうやめにしたい。

それに対して、産経新聞が「主張」で挑発。
↓【主張】国旗・国歌 都の徹底指導を見習おう(産経新聞・2004年3月26日)
http://www.sankei.co.jp/news/040326/morning/editoria.htm

 東京都立高校の卒業式で、約二百人の教職員が国歌斉唱時に起立しないなど不適切な行動をとっていたことが分かり、都教委は処分する方針だ。当然の措置である。

 都教委は昨年十月、「国旗を壇上正面に掲揚する」「起立して国歌を斉唱する」などの通達を出し、徹底を図った。「国旗・国歌を実施した」と報告しながら、国旗を会場の片隅に三脚で掲揚したり、ほとんどの教員や生徒が国歌を歌わなかったりするケースが多かったためだ。通達に反した教職員が懲戒処分の対象になることも、事前に伝えられている。

 二百人はそれを承知で、あえて反発した“確信犯”に近いグループだ。処分だけでは済まされず、生徒に与えた影響はもっと深刻である。

 都立板橋高校では、式に招待された元同校教師が都教委の通達を批判的に報じた週刊誌のコピーを配り、卒業生の九割が国歌斉唱の際に着席してしまった。ほかにも、多くの生徒が起立しなかったり、卒業生が式をボイコットしたりした高校がある。特定の教師集団による意図的、あるいは不適切な指導が招いた結果といえる。

 一部新聞は生徒の自主性を強調し、「むりやり起立させ、歌わせても国旗や国歌への理解が深まるわけではない」と都教委の方針を批判している。しかし、ふだんの授業で国旗・国歌の意義や由来を含めてきちんと教えておけば、むりなく国旗に向かって起立し、国歌を歌うことができる。国歌斉唱時に起立して歌わないことは、生徒の自主性と何の関係もない。

 都教委は入学式に向けても、国旗・国歌対策本部を存続させ、校長の相談窓口を設置して校長をサポートしていく。また、人事・指導部による合同調査委員会を設け、問題があった都立高校名を公表する方針だ。

 国旗・国歌をめぐり、広島県の校長が自殺した平成十一年以降、全国から文部科学省に報告されてくる国旗・国歌の実施率を見る限り、卒業式や入学式は正常化しているように見える。だが、学校によっては、「国歌を歌いたくない人は立たなくてもいい」と指示するなど、数字に表れない問題事例も少なくない。

 都教委の毅然(きぜん)とした指導を他の自治体も見習うべきだ。

それに対して、朝日は「処分」の件について社説で意見を。
↓国旗国歌――起立せずで処分とは(朝日新聞・2004年3月31日)
http://www.asahi.com/paper/editorial20040331.html

 東京都教育委員会が都立の高校や盲・ろう・養護学校の教職員に対し、戒告などの大量処分をすることを決めた。今月の卒業式で君が代斉唱のときに起立しないなどの職務命令違反があったからだという。

 約180人ともいわれる処分は異例だが、処分に至る過程も常軌を逸していた。

 国旗は舞台の壇上正面に掲げる。教職員は国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する。そうした細かな通達を守っているかどうか。都教委は監視役の職員を学校に派遣した。処分の対象者が増えたのは、それだけ教職員の行動に目を光らせたせいでもあるだろう。

 起立したかどうかは見ればすぐに分かる。教職員の座席表もあらかじめつくらせていた。処分する側にとって、これほどやりやすいことはないだろう。

 式を妨害したのならともかく、起立しないからといって処分する。そうまでして国旗を掲げ国歌を歌わせようとするのは、いきすぎを通り越して、なんとも悲しい。

 東京も含めて全国ほとんどの公立小中高校ではすでに日の丸が掲げられ、君が代が歌われている。

 それでは不十分だ、国旗を壇上に掲げ、起立させ国歌をもれなく歌わせなければならない。それが都教委の考えだろう。

 その現場で何が起こっているか。ある学校でこんな話を聞いた。

 今年の卒業式で生徒たちは君が代をこれまでにはなく大きな声で歌った。卒業式に向けて、練習を繰り返した。そのうえで決定的だったのは、校長が「君たちがしっかり歌わないと、先生方が処分を受けかねない」と生徒たちに言ったことだった。

 自分が歌わないと先生が処分されるかもしれない。3年間勉強や体育を教えてくれた先生が国歌斉唱で立ち上がらなかったといって、処分される。そうした卒業式を味わった生徒たちは大人たちをどう思うだろうか。国旗や国歌に愛着を持つだろうか。

 教師を処分するのは、それだけではすまない。いや応なく子どもたちを巻き込むことになるのだ。

 日の丸や君が代について受け止め方は人によってさまざまだ。

 国旗掲揚、国歌斉唱を子どものときからきちんと教え込むべきだという人もいる。一方で、日の丸や君が代に抵抗感を持つ人もいる。日の丸や君が代は好きだが、むりやり起立させられたり、歌わされたりするのはいただけないという人もいる。

 そうした色々な考えの人たちがいるにもかかわらず、学校の中では一人残らず国旗に向かって起立させ、国歌を歌わせようというのはむりがあるのではないか。

 都教委の目はすでに4月の入学式に向いている。国旗掲揚、国歌斉唱をもっと徹底させようというのだ。

 処分を掲げてこのまま突っ走るのは、新入生を迎える行事にはふさわしくない。

読売新聞もそれに対してアンチ朝日な姿勢を。
↓[国旗・国歌]「甲子園では普通のことなのに」(2004年3月31日)
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20040330ig90.htm

 たけなわのセンバツ高校野球大会の開会式で、女子高校生が国歌を独唱した。伸びやかな歌声に合わせて国旗が掲揚され、スタンドの観客も起立し、選手と共に掲揚台を見つめた。

 夏の甲子園大会でも、プロの歌手が国歌を独唱している。

 国旗や国歌が、暮らしに溶け込んでいることを実感させる光景だ。

 それなのに、学校では、混乱する。

 国歌斉唱で、椅子(いす)から立たない教師がいる。国旗を三脚に付け、会場の隅に置いておく学校もある。

 東京都教育委員会は三十日、今年の卒業式で起立を拒否するなどした教師約二百人を、職務命令違反として、戒告などの処分にすることを決めた。

 元教師が、国旗、国歌に反対して開式を妨害した高校もあり、元教師については、威力業務妨害で警視庁に被害届が出されもした。

 広島県立高校の校長が国旗、国歌をめぐる教員との対立から自殺したのをきっかけに、一九九九年、国旗国歌法が制定された。今、卒業式などでの国歌斉唱、国旗掲揚の実施率は100%近い。

 だが、教師の態度がこれでは、生徒、保護者、教職員が一体となって実施すべき式の雰囲気は、ひどく損なわれる。

 「教職員は、指定された席で、国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する」。今年の卒業式を前に、都教委が都立高校などに、そう通達したのは、式に国旗、国歌を正しく位置づけるためだ。

 にもかかわらず今年の卒業式でも、混乱が続いた。

 教師が卒業式で起立を拒否するのは、高校野球の開会式で、運営に当たる大会役員が国旗に背を向けるのと同じだ。許されることではない。

 通達を拒否した教師の多くは、通達に従う義務のないことを求める訴えを東京地裁に起こしている。「通達は内面の自由を侵す」というのが、その主張だ。

 日本の国旗、国歌はもちろん、外国の国旗、国歌をも尊重することが国際的礼儀につながることを子供たちに理解させることは、学校教育の大きな目的だ。

 起立を拒否した教師は、学習指導要領で、小、中学校の社会や音楽、高校の特別活動などで求められている国旗、国歌についての教育を、どう実施してきたのか。ことは、式での振る舞いだけでなく日常の教育活動にもかかわる。

 ワールドカップでも、日の丸を振る若者が目立った。国旗や国歌に対する自然な態度が育っている。

 学校だけが社会の意識とかけ離れている。当たり前の姿に戻すべきである。

「甲子園」を例に挙げて、朝日新聞を批判しているみたいです(夏の甲子園大会は朝日新聞が主催)。
産経新聞の「産経抄」も、こんな意見を(2004年4月1日)
http://www.sankei.co.jp/news/040401/morning/column.htm

 東京都教育委員会が都立の高校や養護学校の教職員百七十六人を「戒告」処分にした。卒業式で国歌斉唱のさい起立しなかったためだが、これに対し昨日の朝日新聞は社説で『起立せずで処分とは』と異議を申し立てた。これに対して強く異議を申し立てる。

 ▼同社説は「そうまでして国旗を掲げ国歌を歌わせようとするのは、いきすぎを通り越して、なんとも悲しい」と書く。しかしそうまでして国旗・国歌を貶(おとし)めようとする論調は、なんとも悲しい。公立学校の教師も私人としてならどんな信条をもとうと構わぬ。

 ▼だが学校の入学式や卒業式は、教育の場にあっては大事な節目であり、欠かすことのできないけじめである。その儀式に立つ教師はもはや私人ではなく、れっきとした“公人”である。自分勝手な甘ったれは許されないのだ。

 ▼折から東京ドームで米大リーグが開幕したが、ヤンキース松井秀喜選手はアメリカの国歌に対し、脱帽して胸に手をあてた。先日の大相撲春場所千秋楽でも、優勝した朝青龍君が代に対して起立し、やはり胸に手をあてた。モンゴル人として日本国歌に敬意を表したのである。

 ▼外国人としてあたり前といえばあたり前の国際的儀礼だが、自国の国旗・国歌を尊敬もしない教師の行動は生徒の目にどう映っただろう。万が一にもこれを見習い、外国に出かけて同じような挙に出ればどういうことになるか。日本人として赤恥をかくに違いない。

 ▼都教委はあらかじめ「起立して国歌を斉唱する」ことの通達を出し、それに反した場合は懲戒処分の対象になることを伝えていた。百七十六人はそれを承知していた教師失格者である。都教委が行った『起立せずで処分とは』当然の措置といわなければならない。

朝日新聞は余裕なのか、社説は「読み比べる」ことが面白い、という、斜に構えた姿勢などを。
↓社説――比べて読めば面白い(朝日新聞・2004年4月1日)
http://www.asahi.com/paper/editorial20040401.html

 ――米英が、武力行使に踏み切ったことは、勇気ある決断だった。

 ――米英の勝利は、開戦前に米国支持を鮮明にした日本政府の対応が正しかったことも裏付けた。

 ――首相が言う「国際協調と日米同盟の両立」の観点から、イラクへの自衛隊派遣は唯一の選択肢だった。

 こう書けば、「エープリルフールのいたずらか」と思う読者がいるかもしれない。朝日新聞英米軍の始めたイラク戦争に一貫して反対し、今のような状況での自衛隊派遣にも反対してきたからだ。

 実は、冒頭の主張はイラク戦争に関して、読売新聞が展開してきた社説からの引用である。もちろん、さまざまな理由がその都度、論じられてきた。

 新聞の社説はどれも似たりよったりだと思っている方がいるようだ。だが、決してそうではない。イラク戦争のほか、憲法の考え方や首相の靖国神社参拝の是非、日米同盟と国連のありようなど、国の行方を左右するような問題で、各社の社説はしばしば鋭く対立している。

 外交や安保問題だけではない。バブル崩壊後の日本経済をどう立て直すか。高度経済成長時代には思いも寄らなかった深刻な問題に次々と直面してきた。白か黒かで割り切れない難問を前に、おのずと社説の主張は多彩になり、ぶつかり合うことも増えてきた。

 朝日新聞論説委員室では毎日、社説について議論する。何を取り上げ、どう主張するか。社会に問題は多く、それぞれが複雑になる中で、答えが簡単に出ないことも多い。

 我々の中にも意見の違いがある。激しく対立することも時にある。そうした議論を経たうえで、最も適切だと判断した主張を読者に問う。異論を踏まえてこそ、責任をもって社説をお届けできると信じるからだ。

 我々の考えがいつも正しいなどとは思わない。社会の変化につれて考えが変わることもある。大切なのは、異なる意見を戦わせること、違いの中から進歩を見いだそうとする姿勢ではないか。

 読み手の方も同じだろう。誰しも自分の考えに近い論に接すれば、居心地よく安心もできる。だが、それだけでは視野が広がらない。異なる意見を知り、自分の考えを鍛えることも大切だ。

 日本では100以上の新聞社が、朝刊だけでも約5千万部の新聞を発行している。テレビと大きく異なるのは、新聞が自らの主張を展開できる「言論機関」でもあることだ。ところが、あちこちの番組を見比べやすいテレビと違い、社説の読み比べは簡単でない。他紙との違いが届きにくいのは歯がゆくもある。

 今日から朝日新聞の社説は3面に移った。これを機にいっそう「論」を磨き、競い合いたい。インターネットや図書館などを利用すれば、他紙の社説にも接しやすい。読み比べ、ご批判や激励を寄せていただければ、なおありがたい。

そして、その次の日の朝日新聞・社説は、また国旗・国歌の話などを。
↓国旗・国歌――甲子園とは話が違う(朝日新聞・2004年4月2日)
http://www.asahi.com/paper/editorial20040402.html

 東京都立高校などの卒業式をめぐって国旗・国歌の強制に反対する社説を2度掲げた(3月18、31日)ところ、思わぬ批判をいただいた。

 産経新聞のコラム『産経抄』は「そうまでして国旗・国歌を貶(おとし)めようとする論調は、なんとも悲しい」と、朝日新聞を名指しで批判(1日)。読売新聞は「甲子園では普通のことなのに」という社説(31日)を掲げ、春夏の高校野球の開会式などで行われる国旗掲揚や国歌斉唱は「国旗や国歌が、暮らしに溶け込んでいることを実感させる光景だ」と書いた。朝日新聞社が主催者の一人であることを意識してのことに違いない。

 さて、私たちの主張は何か。卒業式で日の丸を掲げるな、君が代を歌うな、などと言っているのではない。処分という脅しをかけて強制するのは行きすぎだと主張しているのだ。それがなぜ国旗・国歌を貶めることになるのだろうか。

 戦前の経緯や思想信条、宗教などの理由で、国旗・国歌に複雑な気持ちをもつ国民がいるのは事実である。どうしても嫌だという人に無理やり押しつけるのは、民主主義の国の姿として悲し過ぎる。私たちはそう言っているのだ。

 確かに甲子園の開会式では国旗掲揚と国歌斉唱が行われ、役員、選手には脱帽を求め、観客には協力をお願いしている。しかし、処分をたてに強制などはしていない。もちろん監視員などいないし、罰則もない。現に起立も斉唱もしない観客はいるが、だからといって退場を求めることはありえない。

 だが、都教委は違う。170人余りの教職員を戒告とし、5人の嘱託教員の契約更新を取り消した。明らかに式を妨害し、混乱させたなら別だが、起立しなかったり退席したりしたことが懲戒処分や雇用機会を奪う理由になるのか。憲法が保障する「思想及び良心の自由」を侵す疑いが強いと考える。

 国旗・国歌法が99年に成立したとき、当時の小渕首相は学校での扱いについて「頭からの命令とか強制とか、そういう形で行われているとは考えておりません」と国会で答弁した。当時の野中官房長官も「強制的にこれが行われるんじゃなく、それが自然に哲学的にはぐくまれていく、そういう努力が必要」と答えていた。この記録を生徒に読ませ、「あなたの学校では首相らの約束が守られていますか」と尋ねてみたらいい。

 多民族国家の米国では統合の象徴としての国旗への思いがとりわけ強い。国旗に対する「忠誠の誓い」を生徒に義務づけている公立学校も多い。そんな米国ですら「誓い」を拒む権利は連邦最高裁が1943年に認め、同様の判例が重ねられてきた。それこそ国家が守らなければいけない一線だ、というかのように。

 しろじに あかく ひのまる そめて ああ うつくしい にほんの はたは

 小学1年生は、みんなこの歌を習う。日の丸を美しいと思う心は、強制して育てるものではない。

それに対して、また産経が朝日批判を。
↓【主張】国旗・国歌 本質をそらした朝日社説(2004年4月3日)
http://www.sankei.co.jp/news/040403/morning/editoria.htm

 今春の都立高校の卒業式で、国歌斉唱時に起立しなかった教職員百七十六人を都教委が処分したことをめぐり、朝日新聞は社説で都教委の対応を重ねて批判した。問題の本質がそらされ、教育現場への影響が懸念される。

 朝日は二日付で、「卒業式で日の丸を掲げるな、君が代を歌うな、などと言っているのではない。処分という脅しをかけて強制するのは行きすぎだと主張しているのだ」「日の丸を美しいと思う心は、強制して育てるものではない」と書いている。

 しかし、国旗国歌法が成立した平成十一年、朝日は法制化に反対した。日の丸、君が代が「かつて日本がおこなった侵略戦争や、戦前の暗い社会の記憶」と結びついているとしたからだ。朝日はいつから、日の丸を掲げ、君が代を歌うことを認めるようになったのか。はっきりさせてほしい。

 朝日は「国旗・国歌の強制」は「憲法が保障する『思想及び良心の自由』を侵す疑いが強い」とする。一般社会の私的な場なら、この考え方も許されよう。しかし、学校は子供に知識やマナーを身につけさせる公教育の場だ。それを怠る先生には処分を伴う強制力も必要である。朝日の主張を推し進めると、教育は成り立たなくなる。

 朝日は都教委の処分に反対する理由として、一九四三年の米連邦最高裁判決を取り上げた。ウェストバージニア州で、「エホバの証人」派の子供たちが「教義に反する」として国旗(星条旗)への礼拝と宣誓を拒否し、退学処分を受けた事件の判決である。「バーネット事件」といわれる。

 確かに、連邦最高裁は退学処分に違憲判断を下した。しかし、それは「子供を退学までさせるのは行き過ぎ」とした判決であり、国旗への忠誠を求める教育まで否定していない。日本でも、国旗・国歌に反対して処分された教員はいるが、子供まで処分された例は聞かない。バーネット事件の判決は教員処分の反対理由にならない。

 日本の公教育を担う教員には当然、国旗・国歌の指導義務がある。通常の社会人以上に、子供の模範となるような行動を心がけねばならない。まして、公的な学校行事である卒業式において、生徒の面前で起立しない行為は到底、許されるものではない。

確かに、各新聞社の社説は「比べて読めば面白い」ですね。残念ながら現段階では、産経新聞のサイト以外には、各新聞社の社説ページへのリンクは貼られていないようですが…。
俺はまぁ、こういうのは流行みたいなもので、昔の人は日の丸・君が代に反対するのがはやってて、その流行を知らない若い人は、スポーツなどで慣れてるから、そんなのに反対するのは頭のおかしい人だと思ってるみたいな気がします(本当は単に「古い人」だけなんだと思いますが)。
個人的には、スポーツの前で疑似強制的に歌わされる(自主的に歌っていると、本当にみんなは思っているのでしょうか)、サボってもよさそうな「国歌斉唱」というセレモニーに対しては、俺は「みんなで何かをやる」みたいなことは大嫌いなので、はじまりそうだな、と思ったら、そういうのが好きそうな人の迷惑にはならないよう、みんなには見えない場所に行って、タバコでもふかしたりするんじゃないかと思います。
俺が教師だったら、そりゃ歌いますけどね。やりたくないことでも、金を出す側が「そうしろ」って言うんだったら仕方ない。それがオトナというものです。