「南京大虐殺」について語る人たちとそれをサポートする人たちについて

こんな記事があったわけですが、
南京大虐殺の現場 生々しく 京都大で「証言集会京都新聞 電子版)

8月に訪中し、旧日本軍による南京大虐殺の生存者らに聞き取り調査した京都の大学生らが5日、京都市左京区の京都大で、生存者2人を現地から招き、証言集会「聞く真実」を開いた。
集会では、学生らが戦争中に父を日本兵に殺された女性の聞き取りをする様子やその衝撃を学生同士で語り合う様子を収めたビデオを上映した。
続いて、陳広順さん(81)が「南京近郊の村で、小学校の広場に集められた村人21人がひざまづいて二列に並ばされ、機関銃で殺害された」などと、日本兵の様子や兄を殺された思いを語った。また陳秀華さん(77)も、逃げる途中に母が日本軍に撃たれ死亡し、当時10歳だった本人も手や腰に弾があたった経過を生々しく証言した。

これを主催したのは「『聞く真実』実行委員会」で、後援は「南京大虐殺60ヵ年大阪実行委員会」のようですが、
南京大虐殺証言集会 聞く真実〜今、「歴史」から消されようとする中で〜(- KANSAI PEACE CALENDER -)
メールアドレスを見ると、こんな企画も立てているわけで、
南京報告集会in龍谷大学(企画お知らせ−関西−・キャッシュ)

主催 銘心会南京 第20次訪中団 参加学生
後援 銘心会南京友好訪中団

この「銘心会南京」という団体に興味を持ちました。
社会評論社 著者

●松岡環(まつおか・たまき)
1947年生まれ、小学校教員。銘心会南京友好訪中団団長、南京大虐殺60ヶ年全国連絡会共同代表。編著『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて』『南京戦・切りさかれた受難者の魂』(社会評論社)、共著『「慰安婦」・戦時性暴力の実態II』(「日本軍性奴隷制を裁く 2000年女性戦犯法廷の記録」vol.4、緑風出版)。論文に「南京大虐殺以降の日本軍・企業による労働力、資源収奪と虐殺」「南京戦参加兵士の日記と証言から見えた太平門での集団虐殺」などがある。

この「松岡環」さんというかたがキーマンっぽいですが、それは置いておいて。
2005年12月5日の京都大学での「証言」のほか、以下のイベントもあったみたいです。
南京大虐殺幸存者証言集会in神戸2005.12.6

証言① 陳秀華さん(女性・76歳)
陳秀華の母親は陳秀華を連れて、1937年12月8日石地村に逃げた。母親は日本軍に銃でうたれたて死んだ。陳秀華本人も手に一発弾が当った。更に臀部にも一発当った。幸いに生き延びた。現在も背部に傷跡が残っている。
証言② 陳広順さん(男性・81歳)
1938年農暦の正月9日(2月8日)、日本軍は西崗頭で村民23人を集団虐殺した。全部機関銃で撃ち殺された。陳広順は一人の軍官に引っ張られて虐殺現場に行った。そして、その日で虐殺の一部始終を目撃した。その伯父陳治富、従兄弟の陳広発、三番目の兄の陳広寿(17歳)は逃げ回っている時に前後して日本軍に銃で撃たれて殺された。

ちょっと証言の内容が不明ですが、俺が太字にしたところに興味を持ちました。
こんなテキストがあったりするわけで、
南京大虐殺の定義

以上のように中国側も日本側も
「南京大屠殺」=「南京大虐殺」と考えているようなので
南京大虐殺の定義は以下のようになります。
 
期間は南京陥落から6週間。
範囲は南京市内とその周り。
(南京城とその周辺)
虐殺数は20万以上 (必須条件)

「南京陥落」は1937年12月13日の事件なので、「陳秀華さん」と「陳広順さん」の証言は、南京大虐殺に関する証言ではないことになってしまいますが。(12月13日から6週間、ということは、1938年1月末ぐらいまでのことです)
このお二人がいたという「石地村」「西崗頭」がどのあたりにあるのかも、とても興味を持ちました。
ただ、こういう定義も一方にはあるみたいなので、
南京大虐殺論争 - Wikipedia

事件の期間
東京裁判では「日本軍の南京占領(1937年12月13日)から6週間」という判決を出しており、否定説の見解は概ねこの判決を踏襲している。肯定説は、研究により多少見解が分かれるが、笠原十九司の「1937年12月4日 - 1938年3月28日の4ヶ月」説を概ね踏襲している。

「広義の南京大虐殺」という定義には該当するかもしれません。
俺の解釈としては、日中戦争の際に、南京事件と関連して、その周辺で起きた事件、という感じですが、被害者と加害者の状況がはっきりしないと、何がどうしてどう悪いのか断定しにくい事件、でしょうか。
こちらのテキストも参考になるかもです。
南京大虐殺におけるイメージとしての「数の問題」

 自著における笠原十九司の意見(『南京事件』)。
「事件発生の期間は、日本の大本営が南京攻略戦を下令し、中支那方面軍が南京戦区に突入した三七年一二月四日前後からはじまる。大本営が中支那軍の戦闘序列を解いた三八年二月一四日が南京攻略戦の終了にあたるが、南京における残虐事件はその後もつづいたので、南京事件の終焉は、日本軍の残虐行為が皆無ではないまでも、ずっと少なくなった三月二八日中華民国維新政府の成立時と考えることができる」

岩波新書で出ている、笠原十九司さんの著『南京事件』を、ちゃんと読んでみないといけないみたいです。
少し戻って、以下のイベントですが、
南京大虐殺幸存者証言集会in神戸2005.12.6

主催:神戸・南京をむすぶ会(代表/佐治孝典、副代表/佐藤加恵、林同春)

ということなので、主催している団体・代表者に興味を持ちました。
「神戸・南京をむすぶ会」のホームページ
神戸・南京をむすぶ会/役員
とりあえず、代表の「佐治孝典」さんですが、こんなこともしているみたいです。
原 和美陣営(無所属) 佐治孝典・選挙対策委員長神戸新聞Web News 陣営・政党 かく戦う)
原和美さんのサイトは以下のところです。
原和美の井戸端考
2005総選挙を終えて
どうも、2005年秋の衆議院選挙にも出馬している様子。
2005総選挙への決意

私、原 和美は無所属で立候補の予定です。
所属の政党の「新社会党」が推薦し、「みどり・ひょうご」の皆さんも是非、選挙手伝わせて下さいと早くから推薦を決めて下さいました。そして今日、「社民党」の近畿の皆さんが推薦を決めて下さいました。前回の孤立無縁のたたかいからしますと大きな前進です。

原和美さんは新社会党の人みたいです。
新社会党というと俺のサイトではこんなテキストを出したりしましたが、
衆議院憲法調査会・地方公聴会その他での、「議員」と「市民」とのすごい戦い
いろいろ赤い人たちのつながりが見えて面白かったです。
以下のところには、佐治孝典さんと並んでこんな人も。
憲法を生かす会

代表世話人(6人)=新崎盛輝(沖縄大教授)、伊藤成彦(中央大教授)、植野妙実子(中央大教授)、小林孝輔(青山学院大学名誉教授)、輝峻淑子(埼玉大名誉教授)、武者小路公秀明治学院大教授)

武者小路公秀さんについては、俺のサイトでは以下のところで言及しました。
国連人権委員会とその関係者を政治的に利用している人たち(3):「国連人権委員会の人種差別問題に関する特別報告者のディエン氏(セネガル)」と明治学院大学のあやしい組織
リベラルな人たちのつながりをたどっていくのはけっこう面白いんですが、「はてな」では「プロ市民」に関する固有名詞登録で過去に一度俺の考えと運営者側との間に違うものがあって揉めたことがあるので、筋金入りの人以外は紹介しにくいです。