笹幸恵氏は「文藝春秋」2005年12月号で「バターン死の行進」をどのように書いて、どのように生存者(レスター・テニー氏)は抗議したか(その3)
これは以下の日記の続きです。
→http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060501#p1
最初から読みたい人はこちらから。
→http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060430#p1
今日もコツコツと、「「バターン死の行進」女一人で踏破」(笹幸恵・文藝春秋2005年12月号)の引用を続けます。
今日は地図があったほうがいいと思うので、少し見にくいとは思いますが張ってみました。
オリジナルの大きい奴は、以下のところにありますので、テキスト読むときの参考にでもしてみてください。
→WQ 6 BDM Map
この地図の「Mariveles」から「Balanga」あたりまで、今日のテキストでは笹幸恵さんは歩いたことになります。
それでは、引用をはじめます。
気温三十八・九度、三万六千歩
午前九時すぎにマリベレスのスタート地点に到着。
この場所は小さな公園のような憩いの場となっており、向かって正面には死の行進の記念碑が建立されている。碑には、マリベレスおよびバガックからサンフェルナンドまで、七万人以上の集団が夜も昼も行進を続けた、との説明がある。
調べることのメモ。
マリベレスにある「死の行進の記念碑」に書かれているテキスト(元テキスト)には何と書かれているか、の確認。
九時半、いよいよ「死の行進」スタート。この時点ですでに燦燦と太陽が照りつけており、気温は三十二・六度。うだるような暑さだ。
歩き始めた途端に蒸し暑い空気が体中を包み、じっとり汗が滲み出る。十五分ほど歩くと、一キロ地点の道標が建っていた。この道標が正しいとすれば、時速四キロということになる。ちなみにこの時点でも、「死の行進」の正確な距離はわかっていなかった。現地でロードマップを入手したが、地図上の数字を合算するとサンフェルナンドまでは八十八・七キロとなる。しかしこの行進の先導役を務めてくれたガイドのHさんによると、ルバオ付近に八十七キロ地点を示す道標があり、そこからサンフェルナンドまでの距離を車のメーターで測ると、合計で百二キロになるという。こうなると、地図さえもアテにならない。
しかも、半島東岸には現在、新道と旧道といわれる二つの道がある。新道はマリベレス経済区から都心部までの輸送を容易にするために、戦後になって敷設されたハイウエイだ。一方の旧道は、町と町とをつなぐ言わば生活道路のようなものである。この二つの道路がくっついたり離れたりして半島付け根のデナルピアンまで続く。旧道の一部は新道と重なるよう拡張されているから、戦時中の道と全く同じというわけにはいかない。ひとまず、一キロごとに置かれた「死の行進」の道標を頼るしかなさそうだ。
三キロ地点の道標を過ぎると、上り坂でカーブが続くようになった。かなりな急勾配で、箱根の山道を連想させる。救いは、周囲が緑に囲まれ、木陰が多かったことだ。
さらに進むと、経済区のゲートを抜けてなだらかな上り坂となる。海の向こうにコレヒドール島の島影がはっきり認識できた。約四キロしか離れていないから、大砲は十分に届いたであろう。バターンの降伏後、日本軍はすぐさまコレヒドール要塞の攻撃に移っているから、もし日本軍が捕虜に対して残虐行為を行う計画があったのなら、行進などさせずにこの場所にとどめ置いたはずだ。
調べることのメモ。
コレヒドール島の、その時点での武器・弾薬の状況。
「調べることのメモ」ではないんですが、ちょっと笹幸恵さんが最後の文で言いたいことが意味不明でした。「捕虜など味方の玉にでも当たって死ねばいいのに」とは、日本軍は思わなかった、みたいなことが言いたいのかな。
まだ始まったばかりというのに、ふくらはぎがパンパンに張ってくる。文明の利器に慣れ親しんでいると、人間ここまで退化するものなのか。情けない。昼食ののち、午後三時には当初の目的地だったカブカーペンに到着。バターン半島総指揮官キング少々の軍使が降伏を申し入れてきた場所だ。十六キロ地点の道標がある。
ふくらはぎの次は大腿部の付け根がきしんできたが、幸い、気力はまだ残っている。もう少し歩いてみよう。できるだけ気力体力のあるうちに距離を稼いでおかなければ。なだらかな下り坂が続き、今度は脛が痛くなってくる。
道はほとんどアスファルトで整備されている。『太平洋戦争(上)』(児島襄著)によれば、当時もアスファルトの道路が続いていたという。私は、彼らと同じような道を今、たどっているのだ。それにしても暑い。三時過ぎ、気温は三十八・八度を記録した。
調べることのメモ。
『太平洋戦争(上)』(児島襄著)の中の、「バターン死の行進」に関する記述。【重要】
午後四時五十分、リマイに近い二十二キロ地点の道標で一日目の行進を終えた。歩数、約三万三千歩。足が重い。
▼十月十四日(二日目)。天候曇りのち晴れ。
午前八時四十分、行進開始。約二十五キロ離れたアブカイを目指す。
二十三キロ地点の道標から、旧道を歩く。気温はすでに三十三度を超えている。新道と旧道が入り乱れているため、ガイドのHさんが車で先回りして道標を確認し、進むべき道を教えてくれる。
午前十一時には、三十二キロ地点に到達する。このあたりは田舎らしい田園風景が続き、私は合鴨農法をやっている水田を初めて目にした。民家が連なる街中でも、ここはのどかな雰囲気が漂う。戦時中の要塞で、激戦地となったサマット山にそびえ立つ巨大な十字架がはっきり見て取れた。
午後一時半には三十八・九度を記録。蒸し暑い空気が、全身の毛穴をふさいでしまうかのような息苦しさを覚える。昼食後、四十一キロ地点の道標に到着、ピラーへたどり着いた。さらに進むと、天を突く刀剣の巨大なモニュメントがあり、T字路になっている。二十六キロ地点を示す道標があり、数字の下には「BAGAC=0」と記載されている。ここがバガックから出発した捕虜たちとの合流地点だったようだ。
バランガでは、多くの捕虜が米と水の配給を受けた。ただし、配給に関する証言は捕虜によって異なり、マリベレスで缶詰を一缶ずつ分け与えられた者、カブカーベンでは水を、ルバオでは食料を配られたという者もいる。さらにはオラニでも、報道部が炊き出しをした、と当時部員であった今日出海氏は述べている。
午後五時、兵隊の像が建立されているのが見えた。アブカイ教会である。ここで行進を終了することになった。歩数、約三万六千歩。二日間でバターン半島の三分の二を歩いたことになる。相変わらずふくらはぎが張っているが、初日ほど暑さは気にならなかった。体が順応してきたのだろうか。
調べることのメモ。
捕虜による「配給」に関する証言。【重要】
今日出海氏の「炊き出し」に関するテキスト。【重要】
ということで、多分笹幸恵さんはトータルで100キロぐらい歩くことになります。
そこで、これを使って、
→地図上で距離を測るサンプル【僕の歩いた跡に道はできる】
「日本橋」を基点にして東海道(国道一号線)を歩くと、だいたいどのくらいのところまで行けるかを調べてみます。これも旧道・新道があってややこしいのですが、一応地図の「国道一号線」の旧道らしいところをたどってみます。
…横浜駅前まで約32キロ。
…藤沢バイパス出口あたりで約50キロ。
…小田原あたりで約80キロ(このツール、めちゃくちゃ面白いです)。
…小涌谷あたりで約97キロ。
ていうか、これ、ほぼ駅伝のコースと同じなんですが。
クネクネした山道を辿るのは面倒くさいんですが、「元箱根」までたどり着いたら、約105キロ。
「バターン死の行進」は、その逆コースを辿って東京まで着いた、みたいな感じですか。
俺だったら、笹幸恵さんより軟弱なので、小田原あたりの十キロで、もう嫌になりそうです。
ていうか、マラリアにかかってて、水もろくに飲めなくて、何言ってるかわかんない日本兵にこづかれながら歩かされたら、いかにネット右翼とネットの中では言われているような俺でも、頭パーになります。
やはり、ますます「バターン死の行進」の真相について、当時の日本兵・捕虜の両方の証言(生の記録、というか元ソース)を猛烈に読みたくなりました。
これは以下の日記に続きます。
→http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060504#p1