笹幸恵氏は「文藝春秋」2005年12月号で「バターン死の行進」をどのように書いて、どのように生存者(レスター・テニー氏)は抗議したか(その4)
これは、以下の日記の続きです。
→http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060503#p1
最初から読みたい人はこちらから。
→http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060430#p1
今日もコツコツと、「「バターン死の行進」女一人で踏破」(笹幸恵・文藝春秋2005年12月号)の引用を続けます。
百二キロを踏破
▼十月十五日(三日目)。天候晴れ。
夜中にスコールが降ったが、午前七時の時点で太陽が照りつけている。kろえから味わう暑さを想像すると、うんざりしてくる。
午前八時半、気温三十四度。アブカイ教会から行進を開始する。今日は、デナルピアンからパンパンガ州に入り、ルバオ付近を目指す予定である。
四十分ほど歩くと、五十キロ地点の道標が確認できた。もし「死の行進」が百キロを超えるのだとしたら、ようやく半分ということになる。昨日は足が相当重かったが、今日はそれほど筋肉の悲鳴は聞こえてこない。足も行進に慣れたということか。人間、退化もするが、順応するのも意外と早いのかもしれない。
六十キロ地点の道標を過ぎたところでヘルモサの街に入った。それにしても、この死の行進の距離をなぜ、誰も現地で確認しなかったのだろうか。この時点で、マリベレス−サンフェルナンド間が六十キロという説は明らかに間違いであるということがわかる。もっとも道標も正確とは言えない。一キロ等間隔で建てられているとはとても思えない。ただ、多少の誤差はあるとはいえ、車のメーターと合わせて測ると、総距離としてはだいたい辻褄が合うように建てられている。概ね道標が示す距離に間違いはなさそうだ。
調べることのメモ。
「死の行進の距離」を「誰も現地で確認しなかった」というのは本当か。
「マリベレス−サンフェルナンド間が六十キロという説」は、どの文献に載っているのか(誰も書いたりしていないことを書いたと書いているということはないのか)。その文献は重要なもので、二次・三次的引用がされているものなのか。【重要】
暑さにも足の疲労にも慣れたが、今度は退屈が我慢ならなくなってきた。六十三キロ、六十四キロ、六十五キロ……。たいして代わり映えのしない田園風景がずっと続いている。いや、考えてみれば、田園があり、水路があり、ため池があれば、水分補給には苦労しなかったはずだ……いや、当時は水田だったかどうかもわからない、いろいろな想いにふけりながらひたすら歩く。の
調べることのメモ。
当時の風景、および「水分補給」に関する証言を確認する。【重要】
人によっては、のんびりしたウォーキングを連想されるのかもしれない。だが、フィリピンの人々はほとんど長距離を歩かない。狭い道を車やバスが猛スピードで走りぬけ、大量の排気ガスをもろに受けながら、太陽の照りつける中を歩いているのである。散歩気分にもなれなければ、孤独を楽しむ心の余裕もない。思考回路も完全にストップしてくる。
調べることのメモ。
「フィリピンの人々はほとんど長距離を歩かない」というのは本当か。
午後二時、気温は三十九・一度を記録した。ただひたすら、足を前に出すだけの作業を続ける。あまりの退屈さにイライラする。歌でも歌おう。口をついて出てきたのは”丘をこえ行こうよ”で始まる「ピクニック」だった。次に口ずさんだのは慰霊巡拝の旅で、老人たちに教わった「歩兵の本領」である。不思議なもので、歌いながら歩けば、足取りも軽やかになる。たしかに軍歌の効用はあるのかな、と思う。
午後四時四十分、パンパンガ州に入るアーチが目に入った。この州の州都がサンフェルナンドだ。しかし、この頃になると歩幅は徐々に狭まり、歩みは遅くなる。沿道に並ぶ植木屋をぼんやり眺めながら歩き続けるが、もはや歌う気力もなくなった。
五時半、ルバオにある植木屋の軒先に建てられた七十五キロ地点の道標のところで、本日の行進を終える。歩数、約四万歩。宿泊先のホテルに着いて車を降りようとすると、足に力が入らず転びそうになった。
▼十月十六日(最終日)。天候晴れ。
最終目的地は、いよいよサンフェルナンドだ。前日までのペースで行けば、予定通り四日で終えることになる。午前九時、昨日の七十五キロ地点から行進を開始する。一時間ほどでルバオの中心街へと入った。車が大渋滞を起こしている。街中を過ぎると、車も少なく遊歩道を歩いているようなのどかな気分で行進できるようになったが、今日はやけに暑さが体にこたえる。まだ気温は三十四度前後。行進四日目ともなると、さすがに疲労もたまっているようだ。
正午過ぎ、八十七キロ地点の道標にたどり着いた。ここから先は道標がない。一九九一年のピナツボ火山の噴火によって、距離などの再調査が不可能になったからのようだ。旧道から新道へ入り、サンフェルナンドまで一直線の道をひたすら歩き続けなければならない。
道標がないので、どのくらいの距離を歩いたのか、朦朧とした頭では見当もつかない。捕虜たちはサンフェルナンドから貨車でキャパスまで送られたが、自分たちの行き先を知らされていなかった。目的地がはっきりしなければ、実際、この行進はつらいものであっただろう。永遠に続くかのような錯覚さえ覚える。
米軍捕虜として「死の行進」に参加したレスター・I・テニー氏は、「目標を持つための目印を探した」と、著書『バターン遠い道のりのさきに』で述べている。私も同じようにやってみた。たとえば、あの三メートル先の電柱まで歩こうと決める。それができたら、さらに三メートル先の木の根っこを目指す。身近な目印を見つけ、それをクリアすることで辛うじて気力を維持するのである。
調べることのメモ。
『バターン遠い道のりのさきに』(レスター・I・テニー)に目を通す。「梨の木舎」というところから2700円+税、という値段で2003年3月に刊行されているみたいです。【重要】
そこに添付されているテニーさんの略歴は、こんな感じ。(アマゾンの書籍データから)
→http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/tg/detail/-/books/4816602070/reviews/ref=cm_rev_more/
テニー,レスター・I.
1920年シカゴに生まれる。1949年マイアミ大学よりBA取得。1967年サン・ディエゴ州立大学よりMA取得。1971年南カリフォルニア大学より博士号取得。アリゾナ州立大経営学部名誉教授。専門は金融論・保険論。現在も企業における隠退計画セミナー・財政金融問題の法廷裁判で専門立会い人をつとめる。第2次世界大戦中は無線技師、戦車指揮官として従軍。バターンの戦闘、バターン死の行進・三井鉱山での強制労働を含む3年半の捕虜生活を経験。戦闘での働き、同僚捕虜支援により多くの栄誉と賞を受賞。1995年に本書を出版し2000年には文庫版刊行。当時のクリントン大統領にも感銘を与え、直筆の手紙を送られている。1999年、カリフォルニア州法の改正に基づき、戦時中の残虐な使役への謝罪と適正な補償を求めて日本企業に対し個人起訴を起こしている(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
ますます、テニーさんの活動に興味を持ちました。特に、どういう賞を受賞し、どういう裁判に関係しているのか、が知りたいです。
笹幸恵さんのテキストの引用を続けます。
これはなかなか奏功した。午後四時、ついにサンフェルナンドの街を示すアーチをくぐる。それから三十分ほど歩いただろうか。私たちは立体交差点から、一般道路へと入った。ここから先はあと一キロ程度だという。やっとたどり着けるのだ。最後の気力を奮い立たせる。
その瞬間だった。雲行きが怪しくなってきたのだ。あまりに晴天が続いたのですっかり忘れていたが、今はまだ雨期。あっという間に地面をたたきつけるようなスコールとなった。
実際は、一キロもなかったように思う。店が立ち並ぶ繁華街を掻き分けるようにして道を進むと、だんだん人気がなくなり、行き止まりのような場所に出る。よく見ると、左に曲がりくねった細い道が続いている。この細い道を入っていくと、スコールで遮られていた視界に突然現れた建物、それがサンフェルナンドの駅舎だった。中は空洞だが、レンガ造りの外枠はしっかり残っている。その裏手には、久し振りに目にする道標が建っていた。
「DEATH MARCHI KM102」
午後五時、最終目的地であるサンフェルナンドに、ついに到達したのである。
スコールは上がり、向かいの教会からは賛美歌が流れた。そこだけ異質な空間を生み出しているように感じられた。
笹幸恵さんの「死の行進」を実際に歩いた記録はこれでおしまいで、あとはそれに関する笹さんの感想・意見があります(あと2回ぐらいでテキスト掲載は終了します)。(追記:次の回で終わりました)
俺がこの「記録」部分を読んだ感想は、「一人の人間が、自主的にその距離を歩いた、という記録だけでは納得いかねぇ」というのが正直なところです。こういうのは集団で百キロを、それも半強制的に歩かせて、その後の感想を書かせる、ということを、高校生あたりにやらせるといいんじゃないでしょうか。『夜のピクニック』(恩田陸)ではなく、「炎天のデスマーチ」。ていうかむしろ『死のロングウォーク』(スティーヴン・キング)。引率する教師陣は体育会系の極悪なのを用意します。どうせ出てくる感想文などは、今時の高校生だったら「青春のいい思い出になった」「感動した」とか、放っておいたらありきたりの、教師が喜びそうなことしか書かないでしょうから、「引率教師を殺してやろうかと思った」「何だよこの課外授業は」「死ねばいいのに」とか書くぐらいの、ものすごく嫌な体験をさせることが重要です。
これは以下の日記に続きます。
→http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060505#p1