笹幸恵氏は「文藝春秋」2005年12月号で「バターン死の行進」をどのように書いて、どのように生存者(レスター・テニー氏)は抗議したか(その5)

これは、以下の日記の続きです。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060504#p1
最初から読みたい人はこちらから。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060430#p1
 
今日もコツコツと、「「バターン死の行進」女一人で踏破」(笹幸恵文藝春秋2005年12月号)の引用を続けます。このテキストの引用は、今回で終わりです。

兵隊はすっからかんになる
さて、実際に歩いてみてわかったことがある。それは、第一に「この距離を歩いただけででは人は死なない」ということである。今回、私は、準備はおろか栄養失調状態でこの行進に臨んだが、無事に歩き終えた。筋肉や関節が痛み、足の指には三つのマメができた。しかしそれでも、足は惰性で動くのだ。このことは、移送計画自体が、そう無理なものではなかったということも示している。実際に道をたどると、なるべく目的地まで近い道を選択しており、組織的な虐待という指弾はあたらない。

調べることのメモ。
バターン死の行進」で死んだ人の数は、公的には何人になっているか。その死因は主に何だったのかを調べる。できれば非・公的なもの(異説)と、その根拠も調べる。【重要】

ただし、これは水分を補給した上での話である。自分が歩いてきた道程を考えれば、わずかな水と食料だけで行進するのは、かなり過酷であることは事実だ(「死の行進」では、暑さを避け、早朝と夕刻に行進し、昼間は休息したという記述もある。その意味では、私の方が炎天下を歩いたことにはなる)。
バターン半島には、いくつもの川が流れており、当時は沼地も点在していた。水分補給とまではいかなくても、熱中症対策ぐらいはできたのではないかと思われる。しかし、監視の目を盗んでそれを行うのは困難だったろう。「(日本兵は)我々がどんな水源からでも水を得ようとするのを禁じ、動物のように追い立てた」と、捕虜の一人は証言している。
もっとも、これら捕虜たちの証言は、鵜呑みにできないものも少なくない。「死の行進」という虐待行為が存在したことを前提としてとられた調書である。また、戦犯裁判では反証を行っても公正に取り扱われないため、事実関係が確定できない。なかには、「ジャップは道端に並んで、捕虜たちが行進していくと、殴ったり、唾を吐きかけたり、泥を投げつけたり、果ては便器の中身をぶちまけたり、とにかく我々を侮辱するためには何でもやった」「時計や金品を奪った」などという、にわかには信じがたい証言もある(国会図書館所蔵「THE WAR CRIMES OFFICE」による調書記録)。
一方、比島派遣軍報道部がまとめた『比島戦記』の中で、火野葦平氏は次のように記している。
「(兵隊たちは)自分が今日から食べるものがなくなることも忘れて、持つている限りの食料をやつてしまふ。(略)煙草をやる。水筒の水をやる。兵隊はすつからかんになる」

調べることのメモ。
国会図書館所蔵「THE WAR CRIMES OFFICE」による調書記録」における、日本人による捕虜虐待の証言記録。【重要】
『比島戦記』の中における、火野葦平のテキスト確認。【重要】

水や食料が不足していたのは、日本軍も同じだった。捕虜たちが味わったのが「死の行進」なら、日本軍もまた「死の行進」を味わっていたのである。
むしろ、最大の問題は、水不足や栄養失調より、捕虜たちがマラリアなどの病気にかかっていたことではないだろうか。マラリアは重症の場合、しばしば死に至ることがあるが、もし「死の行進」の最中に捕虜がマラリアで亡くなったのだとしたら、それは行進に起因するものというより、米比軍側のそれ以前の治療体制が不十分だったということを示している。種類にもよるが、マラリアの潜伏期間はだいたい二週間程度だからだ。もちろん、そのことで「死の行進」を正当化できるものではまったくないが、少なくともすべてが日本軍側の責任であったかのような捉え方はあたらない。

調べることのメモ。
バターン死の行進」での、捕虜の死因(既出)、およびマラリアに関する症例調査。

もう一つの「死の行進」
徒歩で捕虜たちを行進させたことについて、ルポライターの鷹沢のり子氏は日本軍の命令系統が混乱していたことに言及し、これを批判している。
防衛庁防衛研究所戦史質著『比島攻略作戦』を読むと(中略)、良心的にとれば『輸送する予定ではあったが、トラックが不足していたので、一部の捕虜たちをトラック輸送して、あとは徒歩行進させた』と解釈できる。しかし日本軍は陥落後、捕虜の移動に関して混乱状態にあり、重要なことがらを徹底して伝えるほど余裕がなかったのだ」(『バターン「死の行進」を歩く』・傍点筆者)(引用者注:「傍点」を「強調文字」に変えました)

調べることのメモ。
『バターン「死の行進」を歩く』(鷹沢のり子)からの引用テキスト(輸送問題)の確認。【重要】
防衛庁防衛研究所戦史質著『比島攻略作戦』に記述されている「輸送」に関するテキストの確認。【重要】

これは戦時下の状況をあまりに理解していない空疎な言葉といわざるを得ない。このとき、眼前のコレヒドール島攻略が日本軍にとって焦眉の急であり、直後から実際に大砲撃戦が展開された。その最中、捕虜の輸送がもっとも「重要なことがら」にはなりにくい。もし全員を乗せるだけのトラックがあるのなら、まず弾薬や戦闘のための補給に優先的に使用されただろう。平穏な時代に身をおいて人道主義を唱えることは易しい。
第一、そんな平穏な時代のノーテンキの代表のような私でも、歩ける距離なのだ。鷹沢氏はマリベレスからサンフェルナンドを通過し、収容所があったキャパスまで五泊六日で歩いているが、行程の一部をバスで移動している。私と同じように三万六千歩を歩いた日の夜などは「食欲が全くない」と形容しているが、不思議な話である。最初、栄養失調気味だった私ですら、踏破できたのだから。

調べることのメモ。
『バターン「死の行進」を歩く』(鷹沢のり子)からの引用テキスト(鷹沢氏の体験したこと)の確認。【重要】

そして行進の間、もう一つ実感したのは、反日感情がまったく見られなかったことである。七〇年台中頃まで、バターン半島はフィリピンの中でも最も反日感情が強い地域の一つであった。しかしその後、宗教団体による留学生受け入れなどで、友好関係が築かれるようになっている。「死の行進」の道のりを地元住民に尋ねながら先導してくれTガイドのHさんすら、皆がじつに丁寧に答えてくれたのには驚いていた。
行進しているときも一目で日本人とわかるのだろうか、老若男女問わず、親しげに「アリガトウ」「オハヨウ」などという言葉をかけてくる。「アユ、アユ」と子どもたちに呼びかけられたこともあった。人気歌手のニックネームである。

調べることのメモ。
フィリピン人の、日本に対する感情。できれば世代別・居住地域別(都市・農村部とで違いがあるか)。

歩いてみてもう一つわかったことがある。全行程は正確には百二キロ。四日間で歩いたとすると、一日約二十五キロ。実は、この数字は「捕虜の後送は二十キロメートル」と定めたジュネーブ条約に反しているという見方もできるのだ。もっとも、条約には、その後に続く文言もある。「但シ水及食料ノ貯蔵所ニ到達スル必要上一層長キ旅程ヲ必要トスル場合ハ此ノ限ニ在ラズ」

調べることのメモ。
ジュネーブ条約」の捕虜後送に関する記述。

さて、最後にもう一つの「死の行進」について記しておきたい。太平洋上に浮かぶギルバート諸島の一つに、ナウル島という小島がある。戦後、ここで戦った兵士たちは豪州軍の捕虜となり、「バターン死の行進」の縮小版とも言える経験をしている。
『ソロモン収容所』(大槻巌著)によれば、彼ら守備隊は輸送船に三百人以上詰め込まれ、ソロモン諸島北端のブーゲンビル島へと移送された。そして上陸前に水筒の水を捨てさせられ、炎天下三十キロ余りをタロキナの収容所まで行進させられているのだ。川があっても豪州軍は足で水をかき回し、泥水にしてしまう。さらにナウル島にはマラリアがなかったため、免疫をもたない彼らはあっという間に感染し、死亡者が相次いだ。

調べることのメモ。
『ソロモン収容所』(大槻巌著)における、日本人捕虜の扱いの確認。それはどの程度まで本当のことなのかも確認。【重要】

戦時中ではない。日本が降伏した「戦後」の話である。豪州軍の責任者は処罰もされていないし、賠償の対象にもなっていない。
戦争を風化させてはならない、とメディアは盛んに書き立てる。ならば、マニラに支局を持つ大メディアの記者たちはなぜ、実際に現場に足を運んで検証しようとしないのか。そしてそれが非人道的行為であったとするなら、同様の行為が日本人兵士にも加えられたことを、なぜ報道しないのか。
かつて、バターンでの行進の様子を脱走した捕虜から伝え聞いたマッカーサーは、「適当な機会に裁きを求めることは、今後の私の聖なる義務」だと復讐を誓っている。その結果、「死の行進」は「リメンバー・パールハーバー」と並び、米国中の憎悪をかきたてるスローガンとなった。
戦争は憎悪の応酬によって肥大化していく。それは今次のイラク戦争とその後に続く泥沼化を見ても明らかだ。憎悪の応酬を防ぐものは事実の検証でしかない。事実を検証すれば、一方的な悪など存在しないことが見えてくる。
たった四日の、「私の死の行進」がそれを教えてくれた。

調べることのメモ。
引用されているマッカーサーの言葉の出典元。
バターン死の行進」は、「米国中の憎悪をかきたてるスローガン」としてどの程度有効だったのか、当時のキャンペーンぶりを調べる。
 
引用は以上で終わりです。
俺の感想は、実際に徒歩で歩いてみる、という笹幸恵さんの行動は興味深いと思いましたが、最後の「まとめ」的な一節が少しごちゃごちゃしているかな。特に気になったのは「憎悪の応酬を防ぐものは事実の検証でしかない。事実を検証すれば、一方的な悪など存在しないことが見えてくる。」というフレーズで(これについては後述の、テニーさんの抗議テキストでもつっこまれていますが)、「事実の検証」というのは、俺の考えでは「実際に体験してみる」とイコールではありません。笹さんも「イコール」とは言っていないな、より重要視できるものでもない、と言ってみましょうか。
事実の検証のためには、残された記録を読み(なるべく原典・元テキストで)、関係者の証言を聞き(聞いたあとで「その証言はどこまで本当なのか」の確認をして)、事実と思われるものを淡々と、歴史として認識する必要があります。その結論として「一方的な悪など存在しない」ことが見えてくることはあるかもしれませんが、最初からそれを目的で歴史を見る、という視点があるのも気になります。そういう意味でたとえば、「捕虜の証言には疑いを持ちながら、日本側の比島派遣軍報道部がまとめたテキストは信じてしまう」ということに対する、歴史修正主義に対して批判的な人の批判も納得できるものです。「日本人が大戦中にしたひどいこと」ばかりが強調されて語られ、「一方的な悪」に扱われている、と笹幸恵さんが思っていることが、「そんなにひどいことはしなかった」という証言(記録)の提示になっているのだろう、とも俺は判断しますが。
 
最後に、俺のほうで「調べることのメモ」をまとめておきます。実際に調べるかどうかは、今のところは未定です。【重要】と記してあるものは何とかできれば調べたいんですが、「THE WAR CRIMES OFFICE」のように、国会図書館まで行かないと調べられないものもあったりするので、無理かな。

  1. 「武勇の日」とは現地名でどう呼ばれ、それはどのように普通のフィリピン人の間では記憶されているのか。
  2. そのような理由で(「真珠湾攻撃」と「バターン死の行進」を理由にして)「非戦闘員への無差別殺戮」を弁解している米軍関係者は誰で、どのようなことを言っている記録があるのか。「米軍」ということなので、「米軍兵士・士官の一個人的な意見」レベルではなく、公式にそのようなことを述べた記録は存在するのか。【重要】
  3. 真珠湾攻撃」と「バターン」との、研究・資料文献の量の違いについて。
  4. 行進した人数・死亡した人数の正式な数(公的記録)。その道を歩いた人間(ジャーナリスト)は本当に今までいなかったのか。
  5. 本間雅晴中将に関する起訴状を見る(一次資料の確認)。【重要】
  6. NPO団体「FAME」の活動の実態。公式サイトはあるのか(ちょっと検索してみたんだけど、それらしいところは見当たりませんでした)。
  7. 「さまざまな角度から見直され」ているテキストについて、誰がどのように、どういう角度で見直しているのか、という具体例。
  8. 「軍事ジャーナリストの嚆矢・伊藤正徳氏」の、引用されている元テキスト。【重要】
  9. 「(行進の距離に関する)まちまちな記述」の元テキストを探してみる。
  10. 「捕虜の数だけ「死の行進」のストーリーがあるのであって、これらをすべて検証するのは不可能だろう。」というこの部分のテキストは、レスター・テニー氏には正確に伝わっているのか。これは調べるというより、関係者に聞くしかないですね。
  11. 「捕虜の証言記録」を読んでみる。できれば英語テキストで。【重要】
  12. 「六十キロの距離を四〜五日かけて徒歩で行進した」という記述を「最も一般的」である、とした著者の根拠について調べてみる。
  13. 笹幸恵氏が歩いた日の、現地の正確な気象。(これはまぁ、調べる手間の割にはたいしたことが分かりそうにないので、どうでもいい)
  14. マリベレスにある「死の行進の記念碑」に書かれているテキスト(元テキスト)には何と書かれているか、の確認。
  15. コレヒドール島の、その時点での武器・弾薬の状況。
  16. 『太平洋戦争(上)』(児島襄著)の中の、「バターン死の行進」に関する記述。【重要】
  17. 捕虜による「配給」に関する証言。【重要】
  18. 今日出海氏の「炊き出し」に関するテキスト。【重要】
  19. 「死の行進の距離」を「誰も現地で確認しなかった」というのは本当か。
  20. 「マリベレス−サンフェルナンド間が六十キロという説」は、どの文献に載っているのか(誰も書いたりしていないことを書いたと書いているということはないのか)。その文献は重要なもので、二次・三次的引用がされているものなのか。【重要】
  21. 当時の風景、および「水分補給」に関する証言を確認する。【重要】
  22. 「フィリピンの人々はほとんど長距離を歩かない」というのは本当か。
  23. 『バターン遠い道のりのさきに』(レスター・I・テニー)に目を通す。「梨の木舎」というところから2700円+税、という値段で2003年3月に刊行されているみたいです。【重要】
  24. バターン死の行進」で死んだ人の数は、公的には何人になっているか。その死因は主に何だったのかを調べる。できれば非・公的なもの(異説)と、その根拠も調べる。【重要】
  25. 国会図書館所蔵「THE WAR CRIMES OFFICE」による調書記録」における、日本人による捕虜虐待の証言記録。【重要】
  26. 『比島戦記』の中における、火野葦平のテキスト確認。【重要】
  27. バターン死の行進」での、捕虜の死因(既出)、およびマラリアに関する症例調査。
  28. 『バターン「死の行進」を歩く』(鷹沢のり子)からの引用テキスト(輸送問題)の確認。【重要】
  29. 防衛庁防衛研究所戦史質著『比島攻略作戦』に記述されている「輸送」に関するテキストの確認。【重要】
  30. 『バターン「死の行進」を歩く』(鷹沢のり子)からの引用テキスト(鷹沢氏の体験したこと)の確認。【重要】
  31. フィリピン人の、日本に対する感情。できれば世代別・居住地域別(都市・農村部とで違いがあるか)。
  32. ジュネーブ条約」の捕虜後送に関する記述。
  33. 『ソロモン収容所』(大槻巌著)における、日本人捕虜の扱いの確認。それはどの程度まで本当のことなのかも確認。【重要】

 
このあとさらに、文藝春秋2006年3月号に掲載されたレスター・テニー氏の抗議文と、それを載せるに至った編集部のテキストがありますので、まだだ、まだ終わらんよ、なのです。
 
これは以下の日記に続きます。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060506#p1