どこの誰だかわからない、apesnotmonkeysさんのところに書き込んだ人と同一人物なのかもわからない「seabass」さんが来られたようですが

そんなわけで、こちらのコメント欄に書き込んだ「seabass」さんと名乗る人を「seabass(仮)」さんとしておきますが*1
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060622#c

# seabass 『seabassです。私の書き込みに反応していただけたようで。

ぼくがその「哲学本の著者」で、そのような形で元テキストの「引用」もどきのようなことをされてた、ということを知ったら激怒するでしょう。

しませんよ。私は誰の書いた何という本を引用したか何も記していません。どうしてそれにたいして激怒したりするんでしょうか。

え? 「あなた」は「ぼく」でも、その「哲学本の著者」でもないと思うんですが。
その「哲学本の著者」が「ぼく」だったら、という仮定の話ではありますし、「激怒する前にその「哲学本の著者」は、ぼくもしくはseabassさんに対して「そのような引用のされかたがあったという情報を耳にしたが、それは事実か」という確認」をするとは思う、と述べた通りです。
もちろん、そこで「引用」もどきの言及をした元テキストが自分の著作物でない、という確認ができたら激怒はしないと思います(その「哲学本の著者」が「ぼく」だったら)。

もし私が書名などを明らかにしていたとしても、私はもしかしたらその「哲学本」のすばらしい要約をしているかもしれないのに、どうしてデフォルトで激怒したりするんですか。
当然、激怒するかどうかはその本およびその要約の内容次第でしょう。

引き続き、その「哲学本」の著者がぼくだったら、という仮定で話を続けますが、それがいかに「すばらしい要約」であったとしても、ぼくは激怒します*2
元テキストが何に掲載されており、その前後の文脈が不明という、不適切な、引用ともいえない引用をされているからです。
つまり、元テキストを読む機会を与えていない、ということで、とても不愉快ですね。要約の内容の問題ではありません。

そしてあなたの議論には、まさにその点が欠けているのです。
実際にPOWの翻訳者だって情報をこれ以上はないぐらい的確に伝えているのかもしれないのに、あなたは実際の内容を二の次にして、伝えられ方に問題があるから、「不正確」だと頭から決め込んでいるわけ。

その翻訳が「これ以上はないぐらい的確に伝えている」か、を判断するのは、私でもあなたでもPOWの人間でもなく、笹幸恵さんだと思います。そして、元著作者が確認した、という事実が確認できていないテキストは、いかなる場合でも、誰の翻訳であろうと「不正確」です。頭から決め込むも何もありません。だから、そのようなものを元に議論したり抗議したりしてはいけないのです*3

その哲学本につきましては、随分昔に読んだものなので、書名などは思い出せません。したがって紹介した内容につきましてはどこまで正確であるかはわかりません。
しかし、それが問題があるとは思いません。だって、「といった内容のもの」と書いてあるでしょう。ようするに実際にその本に書いてあることと全く同一というわけではないことをあらかじめ断っているわけですから。

それは残念ですね。ということは、「その本の存在およびその本の内容に関しては、まったくの架空の話で、昨日見た夢の話をされてもな」という人間が出てきたとしてもしかたない、と解釈していいでしょうか。ぼくとしても、実際にそのような本の存在が確認できない以上、それと大差ない対応を取らざるを得ないです。要するに、ちょっと顔を洗ってきたいな、これは夢のような気がする、ということです。

また「昔読んだ」とあるところから、書名なども思い出せない可能性があることも読みとってもらわないと困ります。
もしあなたがその点を読みとれなかったというのなら、それはあなたが、自分の読みとり方が正確であるかどうかを、事前に私にコンタクトを取って確認しなかったのが悪い、と皮肉を述べておきます。(それとも私がメールアドレスを明らかにしていたら確認していたとでも?)

で、あなたのメールアドレスは何ですか。ぼくのメールアドレスは公開してあるので(→http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/about)、よかったらメールでも出してみてください。

もう少していねいに言うと、ぼくが言っているのは「翻訳本は、元テキストとのゆらぎが許容範囲内である場合が多い、という点において、娯楽として読んだりする分には「正確」の要件を満たしている。ただし、そのテキストに対し、何か批判・異議その他のリアクションを取るための要件は満たしていない」ということです。

なんでー?どーしてー?根拠はー?としか言いようがないんです。
まず、「批判・異議その他のリアクション」と漠然と言いますが、どんな批判等であるかによって異なるでしょう。
POWの翻訳者の翻訳が、仮に娯楽として読めるレベルで正確であっても、SWCやレスター・テニー氏が抗議をする要件は満たしていない、と頭から決めつけられても、具体的にどんな問題が生じているのか分からないまま同意はできません。
そしてあなたはそのような具体的な検討は二の次にしているのです。

具体的に、笹幸恵さんの元テキストより「日本軍の行為」に関して笹さんが甘いような翻訳になっている、というのは前に指摘した通りです(→http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060616#p1)。
ぼくは、伝聞や間接的な情報だけで他人に抗議をする人間に関しては、抗議の要件を満たしているとはとても思えないのですが、「思える」という人のほうが多いんでしょうか。まぁ、「伝聞や間接的な情報だけで他人に抗議をしていない」のかもしれませんが、そのように見えないように、抗議する側は慎重であるべきでしょうね。

最後にその哲学本の話をなぜしたか、について説明しておきます。
(ここから先は、私自身の考えを記したに過ぎません。)
人間は、外界を感覚器官と脳を通じて知覚しているわけですが、当然それらの機能の正確さには限界があるし、錯覚などもあるわけです。
だから、外界というのは人間が知覚するとおりに存在している保証はどこにもないわけで、ただ脳がそのように錯覚しているだけかもしれないのです。
そういうことは哲学者にとって重要な議論かもしれません。
しかし大部分の人にとっては、そのような感覚器官や脳の不正確さを根拠にイチロー選手や東京タワーの実在を疑ってみても、意味のないことです。あなたの議論もそのような哲学者の議論と同じです。
「翻訳本が「正確」なわけはありません」ということについては、「我々の外界に対する理解が「正確」なわけはありません」ということに同意する意味で同意します。
しかし、翻訳につきまとう原理的な「不正確さ」を根拠に、その「不正確さ」がどのくらい深刻なのか全く議論せず、「そのテキストに対し、何か批判・異議その他のリアクションを取るための要件は満たしていない」などと言ってみても意味がありません。
もし、翻訳の原理的な不正確さを問題にするなら、同時に読む人の読みとりの不正確さも問題にしないと行けませんし、それと同時に外界に対するあらゆる知覚の不正確さも問題にしないといけないはずです。
そうなったときに、あなたは上の哲学者と同じになります。
自分の趣味でそういう思考をするのは勝手ですが、実際にあなたは「感覚器官や脳の不正確さを根拠にイチロー選手や東京タワーの実在を疑う」レベルの議論でapeman氏や私を非難しているわけです。』

あなたがそういう考えを持っていて、それがぼくの考えとどのように違う、というのを述べるのは別に問題はありませんよ。それこそ「趣味」の話なので。そしてその場合には「哲学本」という架空のものを出す必要はまったくありません。
ぼくの興味と疑り深さが、どうしても「その本には本当はなんて書いてあったのか」ということの確認の方向に行く、というのは、理解しておいていただけるとありがたいことです。
ただ、「感覚器官や脳の不正確さを根拠にイチロー選手や東京タワーの実在を疑う」レベルというのは極論ですね。ぼくが見ている「イチロー選手や東京タワー」は、apeman(apesnotmonkeys)さんやseabass(仮)さん、その他もろもろの他の人たちが見ているものとはそれぞれがそれぞれに微妙に違っているとは思いますが、「実在を疑う」という哲学者にはますます興味を持ちました(そのような哲学者が本当にいるとしたら、の話ですが)。
(2006年6月18日)
 

*1:あちらの人と同一人物であるという、何らかの確認が取れたら「仮」は外すことにしてみます

*2:繰り返しますが、「事実の確認」をおこなったあとではありますが

*3:シェイクスピアの場合はどうよ、という話もあると思いますが、あれは著者が死んでいるのを幸いに、各人が好き勝手な話を言っているだけです。ただし、その「好き勝手な話」をする場合でも、シェイクスピアが書いた元テキストではなく「翻訳」でやっては論外、というのは前に述べた通りです