現実の会話はキャッチボールなんかじゃないから、小説もそうなった

これは以下のテキストの続きです。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060701#p2
 
こんな言及のされかたがあるので、テキスト公開はやめられないです。
bmp_69-雑記: 小説における会話表現の変化

そして現代の小説においてはリアリズムの徹底ということで、物語内容の時間と物語言説の時間が一対一に対応するような書き方、ようするに起こったことをそのまま垂れ流す表現が登場するわけです。いわゆる「意識の流れ」なんかと同じ問題意識。というか、「現実の会話はキャッチボールだが小説の場合は違う。キャッチボールみたいな小説を書いていないか? 」というよりもむしろ、現実の会話は実はあまりキャッチボールしていない、という観察に基づいたところに現代小説の会話の書き方があるわけです。

(太字は引用者=ぼく)
要するに、小説の進化において「会話」の扱いがどのように進化していったか、みたいな話なわけですが、確かに言われてみると実生活では「俺の話を聞け!」とか「あの〜…聞いてます?」みたいな状況になることって日常茶飯事のような。
ところで、対談集というとなかなか秀逸なのがないんですが、橋本治糸井重里による『悔いあらためて』(北宋社・1980年)は傑作だった。どこかから復刊してくれないかな。時代性が高すぎて、今読むとどうかと思うのですが、まぁこれはキャッチボールというよりピンポンのロングラリーみたいな感じですが。
こんな感じ。
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(2006年6月30日)