「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)をテキスト化する(2)
これは以下の日記の続きです。
→http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060909/oota012
「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)」の引用を続けます。連載2回目です。
赤松大尉の暴状
まず、曽野綾子氏の「伝聞情報説」が事実に反することを立証するために、事のいきさつをのべておく。『鉄の暴走』の渡嘉敷島に関する話は、だれから聞いて取材したかと曽野氏に聞かれたとき、私は、はっきり覚えてないと答えたのである。事実、そのときは、確かな記憶がなかったのである。ただ、はっきり覚えていることは、宮平栄治氏と山城安次郎氏が沖縄タイムス社に訪ねてきて、私と会い、渡嘉敷島の赤松大尉の暴状について語り、ぜひ、そのことを戦記に載せてくれとたのんだことである。そのとき、はじめて私は「赤松事件」を知ったのである。
宮平、山城の両氏は、曽野氏が言うように「新聞社がやっと那覇で捕えることのできた証言者」ではなく、向こうからやってきた情報提供者であって、「それでは調べよう」と私は答えたにすぎない。そのとき、私は二人を単なる情報提供者と見ていたのだから、二人から証言を取ろうなどとは考えなかったし、二人も、そのとき、赤松事件について詳しいことは知っていなかった。
〈二人とも、渡嘉敷の話は人から詳しく聞いてはいたが…〉と、『ある神話の背景』のなかに書いてあるのは、曽野氏の勝手な解釈である。それで私は、あのとき、なんのメモもしなかったし、二人はそのことを告げただけで帰ったのである。その後、『鉄の暴風』が出版されるまで、いや、出版後も長く彼らとは会っていない。
宮平氏の復員
宮平氏が沖縄タイムス社に私を訪ねてきたことを、私が特にはっきり覚えているのは、次の事情からである。宮平氏は私の中学の同級だった。そして、宮平氏が、沖縄タイムス社に姿を見せたときは、中学以来はじめての邂逅(かいこう)だったので、とくに印象が強かったのである。
宮平氏(終戦当時、准尉)が復員して、郷里の渡嘉敷島に帰ってみると、集団自決や住民虐殺事件が待っていた。その怒りをもって、宮平氏は、新聞社に私を訪ねてきたのだが私は、その宮平氏から渡嘉敷島の事件について取材したとは、曽野氏に語っていない。だれから取材したかについては、はっきりおぼえていないが、宮平氏から聞いて、はじめて、その事実を知ったことはたしかだ、とあやふやな返事をしたにすぎない。ところが『ある神話の背景』では、宮平・山城の両氏から私が取材したことにされている。
取材に関する事実
曽野氏は、宮平氏当人とも会って、そのことについてたしかめているようだ。『ある神話の背景』では、つぎのようなカッコ付きの説明をしている。(もっとも、宮平氏はそのような取材を受けた記憶はないという)と書いてあるのである。そう書きながら曽野氏は、宮平氏から私が取材しているものと断定している。これは自己どう着である。宮平氏本人が私(太田)から取材をうけたことを否定しているのだから、では、太田は、だれから取材したのかということについて、曽野氏は、疑問をもつべきであり、さらに、取材に関する事実をたしかめるべきである。その疑問を残したまま、私自身もはっきりした記憶がないと答えてあったにもかかわらず、曽野氏は、私が宮平氏から取材したことにしてしまっている。そして、『鉄の暴風』の記述は、直接の体験者でない者からの伝聞証拠による記述だと断定しているのである。この断定のあやまちはどこからきているか。
『ある神話の背景』は、集めた資料や情報から帰納的に結論が導かれたものではなく、あらかじめ予断があって、それを立証するための作業であったようにおもわれる。はじめに赤松元大尉に会って、「悪人とは思えない」との印象をうけた。執筆者の私は、だれから取材したかについてあやふやな返事をした。だが、早とちりにとびついたのが〈伝聞証拠説〉である。そこで、宮平氏の被取材否定の高い障壁もカッコ付き説明で簡単にとびこえてしまったのである。でなければ書けなかった『ある神話の背景』の論理をささえる土台は、その点で、不安定なものとなる。
(太字は原文では傍点表記)
このテキストについては、曽野綾子さんからの反論で緻密に語られるわけですが(あとでそれも掲載します)、『「集団自決」の真実』(『ある神話の背景』改題・復刊)では、その部分はどう書いてあるかを引用してみます。p62-65
ぼくにとって興味深く思える部分は太字にしてみます。
「鉄の暴風」は、まだ戦傷いえぬ、昭和二十五年に沖縄タイムス社によって企画出版されたものであった。沖縄タイムス社自身が創立されたのは、昭和二十三年であった。
当時政府に勤めていた太田良博氏は、或る日、沖縄タイムス理事・豊平良顕(とよひらりょうけん)氏から、その手伝いをしないかと乞われたのであった。戦史を書こうなどということを思いつくのは、当時まだ新聞社くらいのものであった。そこには新聞人の使命感があった。
取材に歩くと言っても、太田氏が当時使えたのは、トラックを改造したものだけであった。バスさえもまだなかった時代である。
「そんな時に渡嘉敷島へは、どうしていらっしゃいました」
私は驚いて尋ねた。
「漁船でもお使いになりましたんですか? でも、漁船もろくにありませんでしたでしょう」
「いや、とても考えられませんでしたね。定期便もないし」
「どうしていらっしゃいました?」
「いや、向うから来てもらったんですよ」
「何に乗って来ておもらいになったんですか」
「何に乗ってきましたかねえ」
困難な時代であった。直接生きるために必要なもの以外のことに、既にこうして働き始めていた人があるということは、私には信じられないくらいであった。
太田氏が辛うじて那覇で《捕えた》証言者は二人であった。二人は、当時の座間味村の助役であり現在の沖縄テレビ社長である山城安次郎氏と、南方から復員して島に帰って来ていた宮平栄治氏であった。宮平氏は事件当時、南方にあり、山城氏は同じような集団自決の目撃者ではあったが、それは渡嘉敷島で起った事件ではなく、隣の座間味という島での体験であった。勿論、二人共、渡嘉敷の話は人から詳しく聞いてはいたが、直接の経験者ではなかった。しかし当時の状況では、その程度でも、事件に近い人を探し出すのがやっとだった。太田氏は僅か三人のスタッフと共に全沖縄戦の状態を三か月で調べ、三か月で執筆したのである。(もっとも、宮平氏はそのような取材を受けた記憶はないと言う)
太田氏は、この戦記について、まことに、玄人らしい分析を試みている。太田氏によれば、この戦記は、当時の空気を繁栄しているという。当時の社会事情は、アメリカ側をヒューマニスティックに扱い、日本軍側の旧悪をあばくという空気が濃厚であった。太田氏は、それを私情をまじえずに書き留める側にあった。「述べて作らず」である。とすれば、当時のそのような空気を、そっくりその儘、記録することもまた、筆者としての当然の義務の一つであったと思われる。
「時代が違うと見方が違う」
と太田氏はいう。最近沖縄県史の編集をしている史料研究所あたりでは、又見方が違うと思うという。違うのはまちがいなのか自然なのか。
いずれにせよ、恐らく、渡嘉敷島に関する最初の資料と思われるものは、このように、新聞社によって、やっと捕えられた直接体験者ではない二人から、むしろ伝聞証拠という形で、固定されたのであった。
で、実はこのあと、「沖縄戦に“神話”はない」連載第三回目では、太田良博さんは「伝聞証拠ではなく、ちゃんと関係者から話を聞いた」ということで、猛烈な勢いで反論しています。
それは次回のお楽しみ、ということで。
しかしなんでこう、太田良博さんと曽野綾子さんの間で、言った・言ってないとか、記憶違いだとか、あとで思い出したとか、みたいなことになっちゃったんでしょうか。あとでもう少しくわしく述べるかもしれませんが、この「証言者」「伝聞証拠」という件に関しては、太田さんの言い分のほうが正しいような気が、ぼくにはしています。
曽野綾子さんも、本にする前に「あなたの言ったことはこのように書きましたが、この記述で問題はありませんか」みたいな確認をすればよかったのに(していてもなおかつ、そのような「記憶違い」は出て来るとは思いますが)。雑誌レベルのインタビューだったら、相手の確認を得ないまま本(雑誌)にしちゃうこともないわけではありませんが、セミ・ドキュメンタリーというか、ノンフィクション形式の著作物にするんだったら、「そんなことを、俺は言った覚えはない」と相手に言われない程度の確認はもう、嫌というぐらい必要な気がします。
で、もうひとつ気になることですが、この『「集団自決」の真実』には曽野綾子さんのテキストとしては「悪人とは思えない」というフレーズ、もしくはそれに類似したものは出てきませんでした。ちょっとぼくのテキストチェックも完璧ではないと思うので、似たようなフレーズがあったら「ここにある」と教えてください。テキストとしては、前に挙げたp39、
赤松元大尉は、沖縄戦史における数少ない、神話的悪人の一人であった。私の目に触れる限り、彼は完璧に悪玉であった。その人物を、今人々は見たのだ。それは面長で痩せた、どこにでもいそうな市井の一人の中年の男の姿をしていた。
というのがあるので、「はじめに赤松元大尉に会って、「完璧に悪玉であった」との印象をうけた。」なら分からなくもないのですが。あるいは「どこにでもいそうな市井の一人の中年の男の姿」ということを受けるのなら「はじめに赤松元大尉に会って「どこにでもいそうな市井の一人の中年の男」との印象をうけた」とか。せいぜいパラフレーズするにしても「「普通の男に思える」との印象を受けた」、でしょうか。
太田良博さんの妙なテキスト解釈癖には注意して読みたいと思います。
調べたいことのメモ。
・『鉄の暴風』はどのように書かれたか、についてくわしく紹介しているテキストがあったら、それに目を通す。
「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)リンク
1の前半:http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060908/oota01
1の後半:http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060909/oota012
2:http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060909/oota02
なお、曽野綾子『ある神話の背景』は現在、『「集団自決」の真実』という題名で復刊され、新刊書店・ネット書店で手に入れることができます。
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これは以下の日記に続きます。
→http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060910/oota03