「「沖縄戦」から未来へ向って」(曽野綾子・沖縄タイムス)を電子テキスト化する(2)

これは以下の日記の続きです。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060918/sono01
 
これは、沖縄タイムス1985年4月8日〜18日に掲載されました「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博)という、渡嘉敷島・赤松隊をめぐるテキスト(曽野綾子『ある神話の背景』に対する反論として掲載されたもの)に、曽野綾子氏が応えたものです。
愛・蔵太の少し調べて書く日記:「沖縄戦に“神話”はない」
オリジナルは1985年5月1日〜6日(5日は休載)、沖縄タイムスに掲載されました。
連載2回目です。

あいまいな状況
 
もう数年も前のことである。私は那覇で一人の新聞記者のインタビューを受けた。その方は開口一番、私に、「渡嘉敷島の集団自決命令が軍によって出された、ということは、曽野さんの本によってくつがえされたことになりましたが」
と言った。
「そうでしょうか」
と私は答えた。
「私はただ、集団自殺命令が出されなかった、という証明もできない代わり、確実に出されたという証明もできない、ということを言ってるんですよ。今日にもどこかの洞窟の中から、自決命令書が出て来るかもしれないでしょう。ただ、今までのところは、一切が確実ではない、という曖昧さに私たちが耐えねばならない、ということを、私は言い続けて来ただけなんです」
私が「ある神話の背景」を書いたのは、太田良博氏が何と言われようと、太田氏の執筆責任による「沖縄戦記・鉄の暴風」の中で、赤松氏が沖縄戦の極悪人、それもその罪科が明白な血も涙もない神話的な極悪人として描かれていたことに触発されたからである。人間はそもそも間違えるものだから、赤松氏が、卑怯なところもあり、作戦の間違いもやった指揮官、という程度に太田氏が書いていたなら、正直なところ、赤松のことなど、私の注意をひかなかったと思う。
太田氏は次のような書き方もしたのだ。
「住民は喜んで軍の指示にしたがい、その日の夕刻までに、大半は避難を終え軍陣地付近に集結した。ところが赤松大尉は、軍の壕入り口に立ちはだかって『住民はこの壕に入るべからず』と厳しく身を構え、住民たちをにらみつけていた」
こういう書き方は歴史ではない。神話でないというなら、講談である。
 
古波蔵村長の言葉
 
太田氏は、渡嘉敷島の事件について取材したのは、当時の村長であった古波蔵惟好氏と宇久眞成校長であったと今回になって急に言い出したが、私が太田氏に尋ねた時には、確かな記憶がない、と言って宮平栄治氏の名前を挙げたのである。
今にして思うと、私はその時、事件をだれから取材したか記憶がない、と言った太田氏の言葉をもっと善意に解釈していた。つまりそれまで一面識もない村人に、当時太田氏が会って話を聞いたというのなら、確かにその名前をいちいち覚えていないということもあろう、と思ったのだ。しかし今度その取材先が、古波蔵村長だったと知って、私は逆に信じがたい思いである。当時、村の三役というのは、村長と校長と駐在巡査だということを、都会生活しか知らない私は沖縄で教えられたのだが、あれほどの事件を直接体験者であり、しかも村については絶対の責任のある、ナンバー・ワンの村長から聞いておきながら、だれから聞いたか思い出せなかったということがあるのだろうか。
私は生存している主な関係者には、取材の時、すべて例外なく会うように試みたから、宇久校長に会わなかったということは面会を断られたからである。そして今回太田氏が言う集団自決の命令の真相を知っているという古波蔵村長は、私と次のような会話を交わしているのである。
私「安里さん(当時の駐在巡査)を通す以外の形で、軍が直接命令するということはないんですか」
古波蔵氏「ありません」
私「じゃ全部安里さんがなさるんですね」
古波蔵氏「そうです」
私「じゃ、安里さんから、どこへ来るんですか」
古波蔵氏「私へ来るんです」
 
かっこつきの引用
 
もしこの会話が古波蔵氏の嘘でなければ、赤松大尉が自決命令を出したことは、安里巡査には証言できても、そこにいなかった古波蔵氏には証言できないことになる。ましてや太田氏が書いたように、赤松大尉が壕の入り口に立ちはだかって住民を睨(にら)みつけた、というような場面は、かりに実際にあったとしても、古波蔵氏には証言できない。なぜなら、古波蔵氏は、私に、自分は始終村民と行を共にしていたので、その時軍と関係があったのは安里巡査だけであると言い、私もそのことを当然だと感じたことを今も記憶している。そして、私が安里氏に直接会って聞いた時、安里氏は自決命令がだされたことについては、はっきりと否定したのである。
太田氏は、「私は赤松の言葉を信用しない」というような言い方をするが、そもそも歴史を扱う者は、だれかの言葉は信用し、だれかの言葉は信用しない、などということを大見え切って言うことではないのである。また太田氏は私が赤松氏に会って「『悪人とは思えない』との印象をうけた」といかにも私が書いたような括弧づきの引用をしているが、私は自分の著書を昨日から今までひっくり返して探しているのだが、探し方が悪いのか、そういう言葉がまだ見つからない。私は書いてもいないことを括弧(かっこ)づきで引用されたくはないと思う。

私はただ、集団自殺命令が出されなかった、という証明もできない代わり、確実に出されたという証明もできない、ということを言ってるんですよ」という曽野綾子さんの言葉には注目しておきたいと思います。
正直なところ、「俺は赤松隊長の自決命令を確かに聞いた」という人間が一人でも証言として出てくれば、そしてその人間がその「命令」を聞く立場・状況の人間であれば、ぼくは「自決命令書」という具体的な証拠がなくても、「自決命令」があったかなかったか、に関しては、あった、と言ってもいいんじゃないかと思ってます。なんでこんなに「伝聞証言(とぼくには思えるような証言)」が「歴史的事実」のようになってしまったのか、もう少しその理由が知りたいと思いました。
また、壕入り口で「住民たちをにらみつけていた」という赤松元大尉のその時の行状については、誰が太田良博さんに話したのか(証言したのか)、とても興味を持ちました。
あと、「安里氏の否定」については、こんな感じです。『「集団自決」の真実』p145

「恩納河原へ行く前に、分散していた村民をお集めになったのは、どういう理由だったんですか」
「私は地理がわからないので、赤松隊長を探すのに一日かかったわけです。私が、渡嘉敷島へ来てから赤松隊長に会ったのもその日が初めてですからね」
「自決の日が!?」
「はい。二十二日に島へ着いて、二十三日がもう空襲ですから。そういうわけで、(赤松)隊長さんに会った時はもう敵がぐるりと取り巻いておねでしょう。だから部落民をどうするか相談したんですよ。あの頃の考えとしては、日本人として捕虜になるのはいかんし、又、捕虜になる可能性はありましたからね。そしたら隊長さんの言われるには、我々は今のところは、最期まで(闘って)死んでもいいから、あんたたちは非戦闘員だから、最期まで生きて、生きられる限り生きてくれ。只、作戦の都合があって邪魔になるといけないから、部隊の近くのどこかに避難させておいてくれ、ということだったです。(後略)

「「沖縄戦」から未来へ向って」(曽野綾子沖縄タイムス)リンク
1:http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060918/sono01
2:http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060919/sono02
 
なお、曽野綾子『ある神話の背景』は現在、『「集団自決」の真実』という題名で復刊され、新刊書店・ネット書店で手に入れることができます。
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これは以下の日記に続きます。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060920/sono03