「兵事主任」ってそんなに「重要な役割」なのか?

見出しは演出です。
本来でしたら週末を利用して、沖縄出張法廷に関する安仁屋政昭さんの証言の電子テキスト化をせっせとしなければならないわけですが、ちょっと考えたいことがあったので、それを優先してみます。
以下のようなやりとりがあったわけですが、
沖縄出張法廷での安仁屋政昭さんの証言を電子テキスト化する(0)(コメント欄)

# イッセイ 『曽野綾子が、富山真順という元兵事主任に会った事を覚えてないと言えば、富山真順が嘘を言っている事があり得るし、あるいは本当に覚えてない事もあり得るから、曽野綾子は嘘を言っていない可能性もある。

だが、「元兵事主任」という役職が、戦時中沖縄各地において、巡査や村長と同様に重要な存在であった事曽野綾子が知らない、という事は考えにくい事である。
実際、元隊員の言として、「兵事主任」という言葉が「集団自決の真実(ある神話の背景)」p197に出ている。存在を知っていながら、曽野綾子の本の中には、それについて一行の記述もない。ここから、富山元兵事主任の証言を書けば赤松弁護(日本軍弁護)にとって、都合の悪い事に成るに違いないから意図的に書かなかった事が容易に想像できる。
もし、巡査の証言ように、あるいは村長の証言のように、集団自決が「軍による強制」である事を決定付けるものでなかったら、おそらく曽野綾子は本の中に書いた者と思える。
要するに、兵事主任の重要性を知らなかったと云う事は曽野の「ウソ」であり、故に富山元兵事主任を知らなかったと云う事もまた、「ウソ」である事が導き出せる。

>lovelovedog
>証言者の記録に見出せるものが、朝日新聞の記事以前には少なすぎるのが気になるのです。「兵事主任というのは、当時の渡嘉敷村において、そんなに重要な職務ではなかったのか」という疑問すら覚えるぐらいに

オマエとしては、曽野綾子を弁護したいから、「そんなに重要な職務ではなかった」と思いたいのだろうね。
巡査も村長も、また兵事主任も元日本軍兵士で、軍国主義に染められていた在郷軍人だった。最期の際には、軍も民も自ら命を絶つ事を当然と考え、玉砕場では村長と兵事主任は自決を主導し、そして隊長命令を否定したあの安里巡査も、手榴弾の爆発させ方を住民に教えていたそうだ。
地域のリーダー達は、多くの住民を死に導いたやましさを、戦後抱えていたと思うね。「鉄の暴風」によって、赤松隊長は「神話的犯罪人」にされたが、そのことに対して、誰も異論・賛論を差しはさむ言動は行わなかった。援護金手続きは絡むが、成るべく当事者としては集団自決に関しては多くを語りたくなかったのではないか。

73年に「ある神話の背景」が出現して、”隊長命令”の存否が大問題となったが、その後も沖縄の当事者としては、なるべく大っぴらにその事に付いては言いたくはなかったのではないかと思う。
しかし、マスコミなどに公式には語らなくても、地域の人々の間では、”多くの住民が集団自死したのは日本軍が居たからである“、というのは、生存した住民の共通の感覚であったのは間違いない事と思うね。』 (2006/10/20 16:41)

# lovelovedog 『えらいかどうかはちょっと調査中なんですが(あまり結論も出そうにないんですが)、渡嘉敷村に関しては、「軍命令を民間人に伝える」のは兵事主任の通常の仕事ではなかったのでは。何しろ、安里巡査は出まくりなんですが、富山兵事主任は本当に証言とかであまり出てこないんですよ。それは『ある神話の背景』に限定しての話ではありません』 (2006/10/20 22:20)

(太字は引用者=ぼく)
このコメント欄では「えらいかどうかはちょっと調査中なんですが(あまり結論も出そうにないんですが)」と、ぼくは言っていますが、調査の結果、私的には「結論」っぽいものが出たので、言及してみます。
今日はもう、ちょっとすごいことを言ってしまいますが。ええとまず、どこからはじめようかな。
沖縄戦の集団自決に関連して、役場の「兵事主任」という仕事をしている人が出てくるわけですよ。
具体的な固有名詞を挙げると、渡嘉敷村の「富山真順」さんとか、座間味村の「宮里盛秀」さんとか。
で、実はそれ以外の「兵事主任」の人は、ネットで検索した限りでは滅多に出てきません。(戦時中沖縄各地にいたと思うんですが)(2008年4月4日追記:この件に関してはコメント欄参照)
安仁屋政昭さんは、以下のようなことを書いており、
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20061017/aniya01

住民と軍との関係を知るもっとも重要な立場にいたのは兵事主任である。兵事主任は徴兵事務を扱う専任の役場職員である。戦場においては、軍の命令を住民に伝える重要な役割を負わされていた。渡嘉敷村兵事主任であった新城真順氏(戦後改姓して富山)は、日本軍から自決命令が出されていたことを明確に証言している。元兵事主任の証言は次のとおりである。

(太字は引用者=ぼく)
多分あとで引用することになると思うんですが、「曽野綾子氏証言」の中ではこのように語られています。引用元は『家永・教科書裁判 裁かれる日本の教育 第三次訴訟 地裁編 第5巻』(教科書検定訴訟を支援する全国連絡会/編、ロング出版、1995年)p290

問98 あなたは取材をしておられた当時、軍隊のほうではなくて、村の関係者としては、村長やあるいは巡査などには、お会いになり取材をしているということでしたね。
答 はい。まだほかに女性たちが何人かおられましたね。
問99 その巡査さん以上に、村の役職としては大事な、特に戦闘に関わっては大事な兵籍の管理などを当時預かっておった新城兵事主任のことについて、取材当時、会いたいとかいうことで、思いを及ぼしたことはございませんか。
答 どなたもその方のことについておっしゃいませんでした。ですから、あれば、当然私は安里巡査さんを、那覇でございますが、訪ねたわけですね。ですから、そういうおもしろい方がいらっしゃるなら、当然お会いしに行ったと思います。
問101 手榴弾の手渡しのことは相代理人から伺いますけれども、いずれにしても取材をしようとかいうふうに思い付いたことすら、当時の状況では、なかったと。
答 聞いたことがないのですから、そう思いませんでした。

で、「重要な役割のはずの兵事主任に会って話を聞いたはずなのに「覚えていない」と言う曽野綾子氏は嘘つきか大馬鹿」という説が浮上してくるわけなんですが、ちょっと待った(と、また例によってすごい弁護士が出てきたり)。
安仁屋政昭さん以外は、いや違うな、安仁屋政昭さんが言いはじめる以前は、兵事主任は「戦場においては、軍の命令を伝える重要な役割」なんて誰も言っていないんですね。
曽野綾子証言」の中から、もう一度引用します。

問99 その巡査さん以上に、村の役職としては大事な、特に戦闘に関わっては大事な兵籍の管理などを当時預かっておった新城兵事主任のことについて、取材当時、会いたいとかいうことで、思いを及ぼしたことはございませんか。

(太字は引用者=ぼく)
兵事主任の仕事は、戦場(戦闘に関わって)でも「兵籍の管理」で「軍の命令を伝える」ことではないみたいです。
不満ですか? だったら、朝日新聞このように書いてますが。
朝日新聞1988年6月16日の富山真順さんの「証言」電子テキスト化と、謎の「兵器軍曹」について

陸軍を負傷で除隊した富山さんは、1942年(昭和十七年)、郷里渡嘉敷村(当時の人口約千三百人)の役場に入った。軍隊に詳しいので、翌年、兵事主任に任命される。徴兵のための兵籍簿の管理、予備役兵の定期点呼、出征兵士の身上調査など、村の軍関係事務のすべてを担当する重いポストだった。

兵事主任の仕事は、「徴兵のための兵籍簿の管理、予備役兵の定期点呼、出征兵士の身上調査」「村の軍関係事務」。要するに書類仕事でしょうか。「戦場」での仕事のことは、よく分かりません(記述がありません)。
さらにこれを引用すると、何か言われそうですが、曽野綾子さんはこのように書いています。『「集団自決」の真実』(ワック、2006年)p143-144

「安里(巡査)さんは」
と古波蔵氏(引用者注:当時の渡嘉敷村村長)は言う。
「あの人は家族もいないものですからね、軍につけば飯が食える。まあ、警察官だから当然国家に尽したい気持ちもあったでしょうけど。軍と民との連絡は、すべて安里さんですよ。
「安里さんを通す以外の形で、軍が直接命令するということはないんですか」
「ありません」
「じゃ、全部安里さんがなさるんですね」
「そうです」
「じゃ、安里さんから、どこへ来るんですか」
「私へ来るんです」
「安里さんはずっと陣地内にいらしたんですか」
「はい、ずっとです」
「じゃ、安里さんが一番よくご存じなんですか」
「はい。ですから、あの人は口を閉して何も言わないですね。戦後、糸満で一度会いましたけどね」
古波蔵尊重が軍から命令を直接受けることはない、と言い、あらゆる命令は安里氏を通じて受けとることになっていた、と言明する以上、私は当然、元駐在巡査の安里喜順氏を訪ねねばならなかった。赤松隊から、問題の自決命令が出されたかどうかを、最もはっきりと知っているのは、安里喜順氏だということになるからである。

元村長が「軍と民との連絡は、すべて安里さんですよ」と言っている以上は、別に富山兵事主任の話を聞かなくてもいいかな、と曽野綾子さんが思ったとしても仕方ないところです。本当に元村長がこのように言ったかどうかは、これも曽野さんによる「伝聞情報」なので、ぼく的には何とも言えませんが、まぁそういう記述があるわけです。
で、兵事主任の仕事なんですが、これなんかすげぇミスリード
「集団自決」訴訟/命令の有無で対立沖縄タイムス2006年9月2日

岩波側は、兵事主任が軍の指示で村民を役場の前庭に集め、兵器軍曹が手榴弾を二個ずつ配り、「捕虜になる恐れのあるときは自決せよ」などと訓示したとする渡嘉敷村史の記述や、兵事主任の指示で防衛隊員が軍の玉砕命令を住民に伝達して回ったとする座間味村公文書の記述を提示した。

座間味村兵事主任はこのエントリーのはじめのほうに書いてあるんですが「宮里盛秀」さんという人です。で、その人の役場の仕事は「兵事主任」じゃなくて「兵事主任兼助役」。座間味村の役場的にはどうか知らないんですが、職務としては普通は「助役」が「兵事主任」より上にあるもので、仮に宮里盛秀さんが軍の命令を伝えたとしても(そこらへんが裁判とかでちょっと問題になってますが)、それは「助役」だからです。
だったら、「兵事主任(富山兵事主任)が軍の指示で村民を役場の前庭に集め」たのは何よ、ということですが、それは「軍の命令(指示)」だったからじゃなくて、「非常呼集」だったからです。それも集めたのは正確には「村民」じゃありません。
ほら、安仁屋政昭さんもそう言ってます。
沖縄出張法廷での安仁屋政昭さんの証言を電子テキスト化する(0)

1・1945年3月20日、赤松隊から伝令が来て兵事主任の新城真順氏に対し、渡嘉敷部落の住民を役場に集めるように命令した(非常呼集)。新城真順氏は、軍の指示に従って「17歳未満の少年と役場職員」を役場の前庭に集めた。

朝日新聞の記事によると「17歳未満の少年と役場職員」ではなくて、「十五歳から十七歳未満の少年」と「数人の役場職員も加えて二十余人」なんですが(安仁屋さんの記述だと、今の小学生ぐらいの子供まで集めた、みたいな誤読をされそうです)、あと、「十五歳から十七歳未満の少年」まで「非常呼集」の対象になるか疑問なんですが、というか本当はいけないような気がしますが。
ちょっと『裁かれた沖縄戦』(安仁屋政昭編・晩聲社・1989/11)から、「兵事主任」に関する引用をしてみます。p36の頭注。

防衛隊は、陸軍防衛召集規則にもとづいて現地徴集された部隊である。年齢は一七歳から四五歳までの男子であった。沖縄連隊区司令部では、一九四四年の夏、県下の市町村の兵事主任を集めて、本来、兵籍にない国民兵を兵籍に編入して名簿を調整、「特命令状」を交布した。いつでも戦場動員できる態勢をととのえたのである。この年の一〇月一〇日に南西諸島全域の大空襲があり、連隊区司令部の兵籍簿も消失した。現地部隊は、それぞれの地域で市町村役場に防衛召集を命令した。現地駐屯部隊の要求に応じて防衛召集の事務を担当したのが兵事主任である。防衛召集は一九四四年の年末と一九四五年の三月に大々的に実施された。

防衛召集と非常呼集とは違うのかな。よく分かりません。違うんだろうな。
それ以外で、富山真順兵事主任が何をしたか、なんですが、ちょっと適当な資料がないので、こんなのから引用してみます。もう少しくわしいことが分かったら追記・変更するかもしれません。
沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会 第4回口頭弁論準備書面

2 富山真順が、渡嘉敷島の資料に登場するのは、以下の資料である。

(1) 『沖縄戦記』(座間味村渡嘉敷村戦況報告書)の『渡嘉敷島に於ける戦争の様相』(乙3)では、その22頁に、昭和20年3月27日「新城(富山)真順をして村民の西山陣地北方の盆地での終結場所を赤松部隊に連絡させた。」とある。
(2) 昭和28年3月28日の日付のある『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』(乙10)の資料1の12頁には、「昭和20年3月27日駐在巡査安里喜順を通じ集合命令を伝えられた住民は、西山へたどり着いた。・・まもなく兵事主任新城至純をして住民の終結場所に連絡せしめたのであるが、赤松隊長は以外にも住民は友軍陣地外へ撤退せよとの命令である。」とある。
(3) 1971年(昭和46年)11月号の『潮』(甲B18)の212頁上段から中段にかけて、古波蔵村長から機関銃を借りてこいと言われ、その意思を率直に受けて防衛隊長屋比久孟祥と役場の兵事主任新城真順は集団より先駆けて日本陣地に駆け込み「足手まといになる住民を撃ち殺すから機関銃を貸してほしい」と願い出て、赤松隊長から「そんな武器は持ち合わせていない」とどなりつけられた」ことが記載されている。
(4) 富山真順は同号の『潮』(甲B18)に手記を寄せている。そこで富山真順は、「顔見知りの幹部候補生の学生にあうと涙を流して『あなた方は、生きのびてください。米軍も民間人まで殺さないから』というのです。若いのにしったりした人でした」「自決のことは話したくないんですがね。いざとなれば敵を殺してから自分も死のうといつも2個の手榴弾をぶらさげていた。」(甲B21−122頁中、下段)と述べているのである。
(5) 1987年(昭和62年)3月31日に出版された渡嘉敷村史資料編がある。そこには富山真順の戦闘体験の陳述があるが、「17才未満の少年に手榴弾を配った」という事実の記載そのものが全くないのである。

(なんか誤字が多いんですがそのままにしておきます。ただ原テキストでは「?」になっているものを「(1)」「(2)」とかに改めました)
よく読んでみてくださいね。
「軍の命令を住民に伝えた」ということが書いてある資料は皆無なわけですが。
(1)は、住民の場所を軍に知らせた。
(2)は、住民の集結場所を軍に連絡した(軍の集合命令を住民に伝えたのは「駐在巡査安里喜順」さん)。
(3)は、単に軍に「無茶なお願い」をしにいっただけ。
(4)は、富山真順さんがどういう人だったのか、を述べているだけ。
(5)は、「渡嘉敷村史資料編」に(集団自決とは関係のない)「富山真順の戦闘体験の陳述」がある、というだけ。
だいたい、(3)(4)は「渡嘉敷島の資料」でもないんですが、要するに、公的文書でも私的文書でも、兵事主任が「戦時中沖縄各地において、巡査や村長と同様に重要な存在であった」とか、「軍の命令を住民に伝える重要な役割」だとかいった事実は、「役場門前の非常呼集」を例外として、確認されていません。
最後になってしまいましたが、人の職業として、「えらい・えらくない」というのは、役場の職員もそれ以外の仕事の人も含めて、そんなものはない、とは思います。役場の人間だったら、「村長」も「兵事主任」も、またそれ以外のことをしている人も、ぼくの判断では「その職務においてちゃんと仕事をしている、えらい人」です。
が、「渡嘉敷島における戦場において、富山兵事主任は「軍の命令を住民に伝える重要な役割を負わされていた」」というような記述にはもう、「?」が50個ぐらいつきそうな疑問があるわけです。
ていうかそれ、はっきり言って安仁屋政昭さんの勘違いだろう、と思います。
 
 これは以下の日記に、ちょっとだけ続きます。
西山陣地近くへの「集合命令」に関する朝日新聞の記事はどの程度信用できるのか - 愛・蔵太のすこししらべて書く日記