蜀山人大田南畝はなぜ二回も試験を受けなければならなかったのか

今日もジャンル「知的刺激」で、なんか毎日自分が本読んで知ったこと書いてるだけの日記になってます。これでいいのか。ていうか皆さん面白いんでしょうかね。アクセスが減らないんだから面白がる人もそこそこいるってことですね。今日も皆さんの中では知ってる人は知っている話をしますので、タイクツだったらすみません。
江戸時代の人間で頭がいい人というと、ぼくは真っ先に大田南畝、次に高野長英を思い出します。高野長英は前代未聞の牢破りをしてこっそりオランダ語の翻訳をしたらあまりにも名訳なので居場所がばれちゃったりとか、だいたいそういう知恵は最初にみなもと太郎の『風雲児たち』で知ったわけですが(名作なので読んでみてください)、少し破天荒な秀才ですね。蜀山人大田南畝の場合は、若い時にバカやって、突然中年(というか初老)になって幕臣になって小役人仕事をコツコツやった能吏で後半生を終えたわけです。狂歌で名を成していた、まぁ今でいうと漫画家ですかね、変な人がいきなり40代後半、今の時代感覚では60歳ぐらいかな、小林よしのり先生が東大受験して国家一種試験を受ける、みたいなもんでしょうか。
で、これに関しては、たとえばこんなことが書いてあります。
太田南畝・蜀山人

さしもの権勢を誇っていた田沼政権は完全に崩壊し、南畝や東作たちの後援者で、田沼一派の旗本であった土山宗次郎は、最も重い死刑に処せられたのである。この年を境にして、南畝は文芸界と絶縁して、ひたすら幕臣として仕える恭順な日々を過ごし、寛政六年(1794)四十六歳になった南畝は人生の再出発を期して、定信が教育改革の一つとして施行した幕府の人材登用試験を白髪頭で受験したのである。第一日目は論語・小学、第二日目は詩経と林大学の面接があり、御目見得以下の主席は大田直次郎・南畝で銀十枚を拝領し、ともに受験した南畝の門人三人もそろって次席となり銀七枚を賜ったのである。

ここで語られているのは、実は二度目の試験のことなんです。
一度目は、南畝は抜群の成績だったのに、なかったことにされてしまったんですね。
福岡県弁護士会 弁護士会の読書: 2004年05月 BackNumber

大田南畝は幕府の御徒組(おかちぐみ)に所属する小身の幕臣でした。松平定信寛政の改革のとき、中国の科挙の制度にならった「学問の吟味」という選抜試験システムがつくられ、大田南畝も受験しました。しかし、第1回目は、大田南畝を嫌う上役ににらまれ、見事に落第。2回目に、首席で合格しました。

この「大田南畝を嫌う上役」というのが、今日のぼくの話の主役です。
名前は「森山源五郎」と言う人で、『鬼平犯科帳』にも出てきます。
『鬼平犯科帳』Who's Who: 093森山源五郎

森山源五郎(300石と廩米100俵)という筆のたった幕臣がいた。長谷川平蔵が死の床にあったとき、火盗改メ代行をもぎとった仁だ。
そう、老中首座・松平定信へとりいり、文字どおり「もぎとった」のだ。
なぜそういえるか、って? せっかく火盗改メになったのに、1年ちょっとで塩入大三郎(100石と廩米100俵)にその役をもっていかれたときの大仰な残念がりようでわかる。
罷免された経緯を手をまわして調べあげ、老中の戸田侯(美濃大垣藩主。10万石)の存在をつきとめた。侯は館林藩主の五男で、大垣藩へ養子に入った人。
そこで森山のいい分……塩入は母親が館林藩の重職・松倉某のむすめだった縁をたくみに利用し、松倉から戸田侯へ働きかけて成果をえたというのだ。
自著『蜑(あま)の燒藻(たくも)』で、塩入大三郎を気が強いだけの総身に知恵がまわりかねる大男で無芸無学とこきおろす。
この部分だけ読むと、塩入というのは森山が書いているとおりの仁かな、とつい思いこむし、事実、これまで幾人もの学者が『蜑の燒藻』を珍重・引用してきた。
前任者の平蔵についても、火盗改メ在職8年のあいだに「さまざまの計りごとをめぐらした」と非難。
鬼平犯科帳』ほかで平蔵の人柄と立派な業績をすでに知ってしまっているぼくたちとしたら、森山には自分の意にそまない者はバカとかよこしまなこころの持ち主とこきおろす習癖があるとしか考えられない。
『蜑の燒藻』で口ぎたなく罵詈雑言(ばりぞうごん)をあびせかけられている人たちについても、はたして森山のいうとおりの人物だったか、疑ってかかったほうがいい。

まぁそのほかにも「鬼平」がらみでいろいろなことがgoogleで見つかります。
→森山源五郎 - Google 検索(http://www.google.co.jp/search?hl=ja&rls=GGLJ%2CGGLJ%3A2006-27%2CGGLJ%3Aja&q=%E6%A3%AE%E5%B1%B1%E6%BA%90%E4%BA%94%E9%83%8E&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=
森山源五郎 - Google 検索
さて、江戸時代の「学問吟味」の創設は、寛政3年7月…、と写したりしないでコピペしておきます。
江戸と座敷鷹 番方登用制度3

さて、現代でもそうだが、就職試験において関連する資格を取得しておくと有利だといわれる。有利に働く資格ほど難しいもので、江戸期では「学問吟味登科済」がこれにあたる。
 学問吟味が創設されるきっかけは、寛政3年(1791)7月27日の若年寄安藤対馬守から儒者たちへの通達である。おそらく柴野栗山と林大学頭による事前の根回しがあったものと思われる。通達の内容は、学力のある者を各部署の頭から推挙させ、湯島聖堂(寛政9年に昌平坂学問所に改称改組)において目付の立ち合いの上で儒者が試験をする、というものであった。
同年10月になると、目付の名によって学問吟味の通達が出され、受験願書の書式が発表される。科目は経書・歴史・経済之書・講釈・作文があり、受験者が受験科目を申告するもので、翌寛政4年9月には早くも実施されるのだが、※第1回学問吟味は目付と湯島聖堂儒者の間で成績評価基準の折り合いがつかず、また松平定信からも異論が出たため、285人が受験した第1回学問吟味は無効となった
第2回学問吟味は寛政6年(1794)2月に行なわれた。受験科目は経科・歴史科・文章科の3科があった。ただし、経科は初場・経科前場・経科後場の三場から成っており、経科初場(論語・小学から出題)は予備試験の位置づけで、これに合格しないと本試験の経科前場・経科後場へ進めなかった。選択制であったため、漢学上級者でないと答えられない歴史科や文章科の受験者は少なく、経科初場の予備試験から本試験へ進もうとする者が多かった。
成績評価は甲科・乙科・丙科が及第、それ以外は落第。甲科と乙科の及第者は「登科済」の者とされ、丙科の者は次回も挑戦して甲科・乙科で及第することが期待された。及第者には成績と身分に応じて褒詞と金品の褒美が贈られた。丙科は褒詞のみだった。
実質初回となった第2回学問吟味には237人が受験し、甲科及第者5人、乙科及第者14人、丙科及第者28人の結果であった。甲科及第者におけるお目見以上の首席は小姓組番士遠山金四郎(景晋)、お目見以下の首席は徒衆大田直次郎(南畝)であった。

第1回の学問吟味のことですが、

※第1回学問吟味の無効
 目付と儒者の評価基準の折り合いがつかなかった一例として、大田南畝の評価がある。儒者の柴野栗山は南畝の評価を上としたが、目付の森山源五郎は下とした。森山は、南畝は人格の点で幕府官吏に不適格と主張したらしい。栗山は純粋に答案のみから判断したのであろうし、森山は目付の職掌から南畝の前半生を重視したのであろう。南畝については以下参照。

何つうか、大田南畝を落としたいためがための試験だったみたいにしか、後世の人間には見えないのであります。
ちょっとその時の、原文に近いものを引用しておきます。
http://140.119.172.157/jweb/930517.doc(ワード文書)

一 聖堂講尺其外弁書文章等の事ニ付、上中下を附候事、大不同ニて一統相服して不申候由与力久保田十郎右衛門を大学頭下ト附ケ、大田直ニ郎ねぼけ先生啓事(=聖堂担当目付)下ト付候を余りの事と取沙汰ニて中に直し候由。…人物、流義ハともかくも書物ニて上中下を付候事ニ候へば、其書物の処をこそ撰候て位をバ付可申処、寝惚ニ下杯を被付候ハ如何成事、…事ニ大田直ニ郎抔抔ハ平常啓事僧居候ニ付爰ぞと存じ下ニ付候処、余り成致し方とて中にか直し候由。掛り大学頭、清助良助森山中川啓事見分之節、たとへば五人中と記候所、一人下としるし候へば、下の方へ位定り候由。大学頭森山抔上中下を付候ハ、大杜撰可有之由。

「ねぼけ先生」の作文の評価は大変だったみたいです。その時の試験問題の回答も見たいものですね。
このあたりには、こんな人たちも。
畝源 The ブログ : 『沼と河の間で―小説大田蜀山人』(童門冬二著・毎日新聞社)を読了した

一度目の吟味では失敗したが、幼馴染で昌平坂学問所の教授でもある岡田寒泉などからも励まされたりした。岡田寒泉には、狂歌師として高名を得ていた直次郎を堕落した武士として考え、彼を評価しようとしない学問所の事務のトップ森山源五郎との間を取り持ってもらい、改心釈明の席を設けてもらったりする。

森山源五郎孝盛はこんな人です。
日本島

賤のをだ巻の著者の森山源五郎孝盛は,子供のころ母から漢文などを教えられ,教養があった.そのため,1773年に大番士になってから1791年には目付に昇進した.1795年には,同輩の目付の中川勘三郎の奸計により,先手頭へ左遷された.中川は勘定奉行にまでなった.

なんかこの人、少し真面目に調べてみたくなった。『賤のをだ巻』ってよさげな本だし。
でも、文章がうまくて人気のある蜀山人を、この森山孝盛は嫌ってたんだろうなぁ。年もそんなに離れていないはずです。
あー、なんか眠くなってきたので今日はこのへんで。
大田南畝長崎奉行になるんだけど、江戸との行き帰りに京都で上田秋声と会って話をしたりしているので、思い出したらこの話でもパラフレーズして書いてみます。
今日の話の元ネタは、これなのでした。
→『蜀山残雨 大田南畝と江戸文明』(野口武彦・新潮社)