政治家は文学者であってはいけない。逆も同じ

 前にも言ったことですが、人間は「自立した一個人」であると同時に、社会で生活するにおいて「集団の中の一員」としての立場を持つ存在です。で、そのことについて考えたり悩んだりするところに文学は生まれます
 何も考えなかったり、悩んだりしない人には文学は不要です。今の社会が正しいのか、どうあるべきか、について自分の意見を持つことは、政治家・文学者のどちらにも必要なことなので、しばしば政治家が文学的な表現を使ったり、文学者が政治家になったりしていますが、そしてまたそのどちらの技量にも優れている人はいますが、基本的に「個」の姿勢を打ち立てる(ゆえにしばしば「反体制」的になる)「文学」と、「最大多数の最大幸福」を求める「政治」とは、立脚点が違うものであることは、文学的政治家は十分な認識を持つべきでしょう。
 「個」の自我を追求すると、たとえば徒労感から障害者を殺してしまった人間がもし出てきた場合、どうやって対処するのがいいか、という問題になります。そこまで文学的になれる人もまた少ないでしょうが、「自分ひとりが幸せになればいいのか」という問いに対して悩む、という際に、「悩まない人間」を出して世の中をびっくりさせるのもまた文学です(実際にやるのと、想像力でそういった人間を作り出すのは全然別のものですが)。
 もっとわかりやすく言うと、文学者は「人を殺してしまう人間」について考える(時によっては相対化する)のが仕事で、政治家は「人を殺してしまう人間」を少なくするのが仕事です。そこには「想像力」という点において、越えることができない溝・壁というものが存在します。
 シビアな話をすると「支持率」「初版発行部数」という、営業面での戦略においても共通する部分がないわけではありませんが。
 
 気がつくとエイプリルフール。
 せっかくなのでレイアウトを変えてみた。Asterisk-blueという奴。どことなく論壇系っぽい?