沖縄出張法廷での安仁屋政昭さんの証言を電子テキスト化する(4)

だいぶ間があいてしまいましたが、これは以下の日記の続きです。
沖縄出張法廷での安仁屋政昭さんの証言を電子テキスト化する(1)
沖縄出張法廷での安仁屋政昭さんの証言を電子テキスト化する(2)
沖縄出張法廷での安仁屋政昭さんの証言を電子テキスト化する(3)
 
 これは、『裁かれた沖縄戦』に掲載されている、1988年2月10日の「沖縄出張裁判」における安仁屋政昭さんの証言を電子テキスト化してみたものです。
 元テキストは、『裁かれた沖縄戦』(安仁屋政昭編・晩聲社・1989/11)p23-124です。
 原文の「注(頭中)」も、注釈として掲載します。
 ただ引用しているだけではナニなので、ときどきぼく自身の意見や疑問点なども書くことにします。
安仁屋政昭証言テキスト・4

67・現在は「南北の塔」*1に納骨されているわけでしょうかね。
 そのとおりです。
68・ところで、意見書の中に真栄平部落の生き残りでありました大城藤六さんの面接調査の結果が出ておりますが、当時、真栄平部落というのは約一八〇戸で人口が約九〇〇人という調査結果が出ておりますが、そのとおりですね。
 はい。
69・この中で一家全滅というのが五八戸あるということですが、念のために聞いておきますが、当時の家族というのは、今の家族と比べてどういうものだったんですか。
 三世代同居、じいちゃん、ばあちゃんまで含めて三世代同居しているというのが普通の家族の形態ですから、おそらく一〇名内外と、現在の核家族とはかなり状況が違うわけです。
70・伊是名でもかなり色々あったようですが、それを簡単に事例を述べていただけますか。
 これは戦闘部隊ではございません、敗残兵が入り込んでいることも関係しておりますけれども、もともとは、ここに特務教員と島の人々は言っておりますが、これは第三遊撃隊から派遣された、いわゆる残置諜報員のやったことであります*2。当時、菊地義夫という陸軍少尉が伊平屋島におりまして、馬場という軍曹が伊是名島におりますが、この二人が共同して、国民学校の教員という名目で島に入り込んでいるわけですね。この人達が沖縄風の名前に変えて、例えば菊地少尉は宮城太郎という沖縄風の名前に変えて島に潜り込んでいて、厳しい住民監視をしながら、不時着した米兵も虐殺をすると、行商人の、本部出身の人ですけれども、これもスパイ容疑で虐殺をすると、奄美出身の少年の言動がスパイとみなされて虐殺をされております。こういうことをやりながら、菊地少尉は戦後、斉藤義夫というふうに名前を変えまして、なんと沖縄が復帰した一九七二年に、琉球大学教育学部の教授として沖縄に赴任をしてきていると。で、「沖縄は私の第二の故郷だ」などと言っているわけですけれども、自分の、島で行った行動について全く反省がないというふうに私共は思っております。
71・久米島でも、いわゆる久米島事件*3と言われるような虐殺事件があったことは、昨日の大田証言で出てきましたので簡単にお聞きしますけれども、この郵便局員の安里正次郎さんという技手がおられたようですが、この方は銃殺されたようですね。
 はい。
後に提出する甲第三〇二号証を示す
72・これは達示という文書ですが、どういう文書ですか。
 これは久米島におりました、これは通信隊なんですけれども、鹿山隊長が住民に、住民というのは具志川村仲里村の村長、警護団長にあてた達示でございます。日付は六月一五日ですから正に沖縄戦の末期であります。そのころ沖縄本島の島尻方面から脱出して久米島に漂着する敗残兵や住民もいたわけですけれども、これはスパイの潜入という観点でとらえております。厳重に警戒しろと。もう一点は、米軍が飛行機から投降勧告ビラをまいております。もう戦争は終わったんだというような意味のものですけれども、これを拾って持っている者は敵側スパイとみなし銃殺すると、こういう達示なんですね。
73・大宜味村登野喜屋の例について簡単にお聞きしますが、意見書で島袋ツルさんの証言内容が記載されておりますが、証人御自身が島袋さんにお会いして、取材されたものですか。
 そうです。
74・要点を簡単に述べていただけますか。
 これは今までの住民虐殺とはちょっと違う類型のものでございます。先程、スパイ視虐殺と言いましたけれども、その中の投降阻止というふうに我々言いますが、つまり、生きて虜囚の辱めを受けずという軍隊の論理を住民にも押し付けたわけで、敵側に捕まった住民はスパイとみなすというのが軍隊の方針であったというふうに思わざるを得ない事件なんです。で、米軍に収容された三十数名の住民を浜辺に集めて、そこに手榴弾を投げ込んで惨殺をすると、そういう事件であります。それだけではありません、同時に、この難民達が持っていた食糧も奪っております。だから、投降阻止、スパイ視虐殺ということと食糧強奪ということと二つ重なっている事件だということですね。

(調べたいことのメモ)
 「鹿山隊長」の所業について。そのようなことをした人間は他にもいたのか。
 
 タイプミスと思われるものがありましたら、コメント欄でご指摘ください。
 
 これは以下の日記に続きます。
沖縄出張法廷での安仁屋政昭さんの証言を電子テキスト化する(5)

*1:南北の塔は、糸満市舞栄平(まえひら)部落の裏側に建立された納骨堂である。戦後、元アイヌ兵の弟子豊治氏らが住民と協力してこの一帯から四五〇〇体を収骨して納めた。

*2:沖縄戦で護郷隊とよばれた特殊部隊は、大本営直属のゲリラ部隊であった。正式には、遊撃隊とよばれ、その任務は正規部隊が壊滅したあとも現地にとどまって諜報活動に従う、いわゆる残置諜報部隊である。一九四二年にニューギニアで第一遊撃隊が編成され、ついでフィリピンで第二遊撃隊(これが例の小野田少尉の部隊である)が、そして沖縄に第三・第四遊撃隊が配置されたものである。遊撃隊は、陸軍中野学校出身の将校・下士官と沖縄現地で召集した在郷軍人(中国戦線を経験した下士官クラスが主体)を幹部とし、兵員は「陸軍防衛招集規則」によって召集した青年学校生徒と県立三中の鉄血勤皇隊などであった。沖縄戦では、この遊撃隊の任務を秘匿するために「護郷隊」とよんだ。沖縄本島北部の本部半島に第三遊撃隊、恩納岳(おんなだけ)から久志岳(くしだけ)にかけて第四遊撃隊が配備されていた。日本軍はこの遊撃隊から戦備空白の離島(伊平屋・伊是名など)へ将校や下士官国民学校の教師という名目で派遣し、住民を監視しながら、残置諜報活動に備えていた。西表島では、独自の護郷隊を編成していた。この残置諜報員のなかには、住民をスパイの疑いで虐殺したり、マラリア地帯へ住民を強制移住させるなどの残虐行為を働いた者もいる。その一人が菊地義夫少尉である。菊地義夫は、東京文理科大学で心理学を専攻し、のちに陸軍中野学校の特訓をうけて第三遊撃隊員となり、伊平屋(いへや)島に配属された。戦後は斉藤義夫と改姓し、東京学芸大学助教授を経て一九七二年四月琉球大学教育学部教授となり、一九七六年まで沖縄に滞在した。

*3:久米島虐殺事件。米軍は久米島上陸前の六月一三日、島に斥候を送りこんで住民三人を拉致した。その頃には、激戦場となった沖縄本島などから敗残兵や住民が久米島に漂着するようになっていた。久米島には戦闘部隊は配置されてなく、鹿山正(兵曹長)の指揮する電波探信隊のみであった。鹿山隊長は村長・警防団長に命令を出し、「敵ガ飛行機其ノ他ヨリスル宣伝ビラ撒布ノ場合ハ早急ニ之ヲ収拾取纏メ軍当局ニ送付スルコト妄ニ之ヲ収得私有シ居ル者ハ敵側スパイト見做シ銃殺ス」と警告している。六月二六日、米軍は久米島に上陸した。このとき、郵便局員の安里正次郎技手が米兵につかまり、鹿山隊長あての降伏勧告文書を託された。鹿山隊長は安里技手をただちに銃殺し、以後、スパイ容疑で殺された住民は五件二二人、このなかには乳幼児をふくむ一家斬殺もあった。