独眼流・伊達政宗の毒殺伝説

 落語『真田小僧』のマクラとして、こういう話があるわけです。

 伊達政宗公がご幼少のみぎり、片目がご不自由だったということで実の母に可愛がられず、母親のほうは弟ばかり可愛がってて、子供のころから、どうしよう、このままではいけない、このままでは弟が跡継ぎになってしまうのでは、と恐れて、いろいろ考えて、お母さんに甘えるふりをして、お母さんのおっぱいの先に「トリカブト」という毒を塗った。そうするとまだ弟は乳飲み子ですから、確実に死ぬだろうと、まぁ恐ろしいことを考えたわけですね。
 で、翌朝になって、さぁ弟は死んでいるだろうと思って見に行ったら、弟は死んでいないで、なぜか政宗公のお父さんが死んでいた。

 えー、意味のわからない人はいないと思いますが、ていうか意味の説明をするのは難しい。
 落語のほうは「ぽっどきゃすてぃんぐ落語」で、以下のところで拾えます。
ぽっどきゃすてぃんぐ落語: 3月8日 「真田小僧」 古今亭志ん太
 もちろんこの話は創作(大嘘)です。
伊達政宗 - Wikipedia

右目の失明
出羽国米沢(山形県米沢市)、米沢城に生まれる[2]。1571年(元亀2年)、疱瘡(天然痘)に罹り右目を失明する。それ以降、母親の最上義姫に姿が醜いと疎まれ、弟の伊達小次郎だけが母の愛情を注がれたとされる。
徳川家康豊臣秀吉たちに「右目はどうしたのか?」と聞かれたとき、政宗は「木から落ちたとき、右目が出てきてしまったが、あまりに美味しそうだったので、食べてしまった」と語っている[3]。また、片倉小十郎たちに右目を切断させたという逸話も。
若い頃母親から毒を盛られたとされ、(しかし、政宗は「母に罪はない」と母を弁護したと伝わっている)それは眼に異常の無い弟を当主に立てるには伊達政宗の存在自身が邪魔だったからといわれる。1572年(元亀3年)、政宗の将来を心配した父・輝宗が招いた臨済宗虎哉宗乙(こさいそういつ)禅師による厳しい教育が始められ、仏教や漢学を学ぶ。1575年(天正3年)神職の子である片倉景綱(小十郎)が守り役を命ぜられ側近となる。片倉小十郎政宗の側近中の側近として、時には軍師として生涯忠誠を尽くした。

「政宗 毒殺」で検索しても、見つかるのは「伊達政宗が(母と弟のほうに)毒殺されそうになった」という歴史的事実ばかりなのです。
伊達小次郎/戦国Xファイル

伊達小次郎(1574?―1590)
竺丸。実名は不詳。伊達輝宗の次男。政宗の弟。母は最上氏。
(中略)
天正十八年(一五九〇)四月五日、伊達政宗は実母保春院の住む西館で饗応を受けている際、毒味役が「忽ち目眩き血を吐て気息絶入す」という事件がおきた。政宗は自分を毒殺せんとする陰謀があると知り、「虫気」という理由で館へ戻った。その日のうちに回復したと伊達成実が日記に記している。「虫気」というのは理由づけであったろう。しかし、ここから政宗自身が毒にやられたという話が創り出されたのではあるまいか。

 ここらへんの話は長くなるんで置いておきますが、この、元のたわいもないコバナシに、伊達政宗という誰でも知っているような戦国武将をからめた人(落語家)のうまい仕掛けに感心すると同時に、元ネタは誰が誰を毒殺する(しようとする)話だったっけか、知っている人がいたら聞こうかと思いました。何となくボルジア家とか、イギリスのリチャード3世あたりのややこしい時代だったような気がします。実際に、弟ではなく父を毒殺してしまった、という歴史的事実があったら大歓迎ですので、ご存知のかたがおりましたら教えてください。