ジョン・トーランド『大日本帝国の興亡』第5巻「摩文仁の洞穴」のテキストをあれこれ考えながら引用してみるよ(1)

 これは以下の日記の続きです。
S.B.バックナー米軍中将の死が米軍の沖縄戦での残虐行為を招いた、というのは本当か
 
 元テキストは以下のものから、p39-49。
『大日本帝国の興亡 5』アフィリエイトつき)
 引用をはじめます。
 引用テキストの「太字」は引用者(=ぼく)によるものです。

摩文仁の洞穴
 
 アメリカ軍が手榴弾や爆薬、火炎放射器を使って墓の中にひそむ獲物を追い求めるようになるにつれ、戦闘は残酷な人狩りにと変わっていった。六月十七日までに、牛島の第三二軍は粉砕された。規律はなくなってしまった。生き残った者は、数日前には考えられもしなかった行為をするようになった----上官の将校を忌避し、洞穴の中では野蛮人のように食物や水を奪い合い、民間人を殺し、婦女を暴行した。
 島の突端近くにある岩だらけの、切りたった崖の奥深い洞穴の司令部では、牛島が冷徹に最期を待っていた。それは断崖の頂上近くに位置する長い洞穴で、一方の口は六十メートル以上も下の海に面し、もう一方の口は摩文仁の村----そして近づいて来る敵を見おろしていた。牛島は、戦線の後方に落とされた、バックナーの降伏勧告文を読み終えたばかりのところだった。

 貴官の指揮下の軍隊は、勇敢によく戦った。貴官の歩兵戦術は、相手に尊敬されるに値するものであった。……貴官は小官と同じく、長く歩兵戦を学び、実践した、歩兵の将軍である。……したがって、この島におけるすべての日本軍の抵抗の潰滅は時間の問題であるということを、小官と同様にはっきりと理解されているものと思う。

 この降伏呼びかけは、牛島の顔にかすかな微笑を浮かばせたが、長はばかにした、ほとんど押えきれない大笑いをした----サムライがどうしてこんな提案に一顧さえ与えることができようか。急速に悪化する情勢は長の心をひどくかき乱していた。牛島は物思いにふけりながら簡易寝台に横になったり、読書をしたり、詩を書いたりしていたが、長の方は、まるで敵に出くわしたかのように刀にぐいと手をかけたりしながら、檻の中の動物のように洞穴の中を行ったり来たりした。
 牛島は冷静さを保っていた。彼は、身のまわりの世話をしてくれていた若い沖縄の学生たちに、ことに思いやりがあった。父親のように彼らの頭をなで、家族のことを尋ねた。彼のユーモアのセンスは、逆境によってますます鋭いものとなっていった。あるとき、長が摩文仁の側の口の方に大またで歩いて行き、外に向って小便した。牛島は笑いながら言った。「急いだ方がよい。きみのは敵にとってあまりにも大きい標的だよ」
 六月十八日の正午、彼の相手、サイモン・ボリバー・バックナーは、戦いに向かう海兵隊の新鋭部隊を見るためにずっと前方へと出て行った。彼は一時間にわたって見守り、監視所を下り始めたとき、日本軍の砲弾がすぐ頭上で炸裂した。弾の破片がサンゴの小丘を粉砕し、気まぐれにもノコギリの歯のようなサンゴが飛んで、将軍の胸に突き刺さった。十分後に、彼は死んだ

 まさに、見てきたようなことを言う講釈師の風情です。お前その牛島司令官の微笑を見たのか、とか。映画や小説のシーンだったら許せるのですが。以下同様なので、トーランド氏のテキストは慎重に扱われることを希望します。
 少し知りたいことのメモ。
 バックナーの後任司令官は歩兵戦術にくわしかったり、敬意を持ってたりしていた人だったのか。
 牛島司令官の身のまわりの世話をしていた学生の中で生き延びた者の証言。
 牛島と長との、「標的」に関するやりとりの記録・証言。
 バックナーの死の状況に関する、他の記録・証言。
 引用を続けます。

 牛島が洞穴の中から出した書面による最後の命令は、部下に対して「最後まで戦い、天皇への忠義という悠久の大義のために死ぬ」ことを求めたものであったが、自殺同然の突撃によってそうせよというのではなかった。彼は第三十二軍の生き残りに、民間人の服装で敵の戦線をくぐり抜け、島の北部にいるゲリラの小部隊に合流するよう命じた。暗闇にまぎれて、最初のグループがひそかに突破を図ったが、発見された。この付近一帯は照明弾で明るく照らし出されていて、殺されなかった者はすぐ穴に逃げ込むほかなかった。
 翌日の正午、爆発が牛島のいる洞穴の入り口を揺さぶった。アメリカ軍の戦車が摩文仁に接近し、村の南の小高い丘に開いている洞穴の入り口をじかに砲撃中だったのである。ニューギニアで軍務についていたが、病気のため帰って来ていた沖縄人の比嘉仁才は、牛島の散髪をしていた。この床屋が理髪道具をかたづけていたとき、長が将軍のところにやって来て「どうもありがとうございました」と言った。「何のことだ」と、将軍が尋ねた。「聞き入れていただけるとは思わなかった私の進言をいれてくださいました。思いどおりに反撃をさせてくださったからです」
「そうした方が簡単と思ったんだ」と牛島は答えた。「決定はいつも部下にまかせることにしているのだ」
「一時は、もし私の計画を承認していただけないのだったら切腹しようと考えました」長はぶっきらぼうに言った。「しかし閣下は、私にそうさせてくださいました----しかも微笑をもってです。それは私の気を楽にしてくれました。そこで、この世にお別れする前に、お礼を言いたいと思うのです」

 牛島司令官の「最後の命令」は公文書なので記録が残っています。このあたりなど。
司令官最後の軍命

イマヤ刀折レ矢尽キ、軍ノ命旦タニセマル。スデニ部隊間ノ通信連絡杜絶セントシ、軍司令官ノ指揮困難トナレリ、爾後各部隊ハ各局面ニオケル生存者ノ上級者コレヲ指揮シ、最後マデ敢闘シ悠久ノ大儀ニ生クベシ。

 「悠久ノ大儀ニ生クベシ」なんで、「悠久の大義のために死ぬ」という命令であったというのは、ジョン・トーランド氏の大嘘ですが、意味的解釈としてはそうなるのかな。
 最後まで闘え、と言い残されて死なれたのでは、その命令に従わざるを得ず、もっとえらい人(例・天皇とか)が「その命令はなかったことにする」と言わないといけないわけですね。
 少し知りたいことのメモ。
 「北部にいるゲリラの小部隊との合流」に関する命令書。
 「沖縄人の比嘉仁才」に関してもう少し。そんな人は本当に存在するのか、も含めて。→比嘉仁才 - Google 検索
 ちょっと検索したら、「比嘉三平」という名前で、『激動の昭和史 沖縄決戦』(1971)という映画の中には出てくるみたいですので、実在の人物だとは思いますが…。
 長勇中将の切腹」発言はどこまで本当のことなのか。どうも実際に、「自決」は切腹によるものらしいですが。
 この調子でどんどん興味深くなっていく、ジョン・トーランド『大日本帝国の興亡』からの引用を続けます。

 島の南端にハチの巣のようにある、何百もの洞穴の中では、民間人も兵士たちも同じように皆殺しに直面していた。牛島の司令部から三キロ西のところでは、沖縄の学生看護婦----病院が解散したあと来ていたのである----が、何十人もの民間人といっしょに地下の洞穴の中に避難していた。山城信子はまだ十七歳だった。彼女は瀕死の妹----同じく看護婦をしていた良子----の生命を救おうと必死になっていた。だが、洞穴の中には食物も水もなく、あえて外に出る勇気は彼女にはなかった。看護婦たちは洞穴から洞穴へと追い立てられ、十八日の晩には再び、「もっと安全な避難場所」を見つけるために南に移動するよう兵士たちに言い渡された。
 憤慨し、うんざりして、看護婦たちは、洞穴の口に通じるはしごを登り始めた。突然「敵襲」という叫び声が聞こえ、銃声がわき起こった。はしごの途中にいた人たちに、青い閃光が浴びせられた。ガスだ。毒々しい煙が洞穴の中に大波のように寄せてきた。息が詰まり、目がくらんで、中にいた人たちは手探りではしごの方に向かった。信子は、まるで何かに首をしめられたように、げえげえ言った。彼女は苦しみながら妹を捜し求めてその名を叫んだ。地獄とはこんなものだろう----と彼女は思った。榴弾が雷のような轟音とともに炸裂した。そのあと沈黙が訪れた。
「これでわれわれは全部死ぬんだ」と、静かな男の声がした。「海ゆかば〉を歌おう」彼らが愛国的な愛唱歌を歌おうとしているとき、信子は気を失った。彼女は、奇妙な幸福感に包まれて意識を取り戻した。これまでに一度たりとも、このようなすばらしいしあわせの気持で目をさました体験はなかった。彼女は立ち上がろうとしたが、体があまりにも重かった。なぜだろう。まわりの人たちがうめいていた。彼女も負傷しているに違いない。左のももとくびがどきどきし始めた。彼女は、榴霰弾にやられていることを発見した。
 彼女は再三再四、立ち上がろうと試みた。妹はどこだろう。どうしようもない眠けと戦いながら、彼女はなんとか目をさましていることができた。眠りたい欲望に屈したら死んでしまうだろうということを知っていたのである。彼女は足を曲げ、胎児のような格好になってころがって行った。洞穴の床で大の字になっている死体の間をはいながら、死体を一つずつ注意深く調べて行った。はしごの下から見上げた。アメリカ兵のシルエットが、驚くほど青い空を背にして浮かび上がっていた。彼女はせきをこらえて、はいながら暗闇の中に戻り、苦悩に満ちた探索を続行した。洞穴の奥の方で見つけたときには妹は死んでいた
 戦車や沖合を遊弋する舟艇からの拡声器を使って行なわれた降伏呼びかけは、サイパン硫黄島のときよりもずっと効果があった。大勢の民間人とかなりの数の兵士たちが、地下の潜伏場所を捨てた。日が暮れるまでに、沖縄人四千と軍人八百が降伏した。兵士たちは----指示どおり----フンドシ一つになって出て来た。その一人は、軍刀を手に持って第七歩兵師団の戦線まで行進して来た。彼は直立不動の姿勢をとり、敬礼し、その武器をアルビン・ハナ軍曹に手渡した。別の一人は、二冊の小さな辞書を持って来た----一冊は英和辞典、もう一冊は和英辞典だった。。少しばかり調べたあと、彼は元気よく叫んだ。「ミー・バンキッシュト・ミゼラブル・ディスオノラブル・デプレイブド」(僕、打ち負かされ、みじめで、不名誉で、堕落した)

 引用部分が太字だらけになってしまいそうですが、仕方ない。
 少し知りたいことのメモ。
 「沖縄の学生看護婦」の「山城信子」についてもう少し。この人はちゃんと実在が確認できました。→山城信子 沖縄戦 - Google 検索
 「青い閃光」と「ガス」についてもう少し。ガス(毒ガス?)なんて使ったのかな。催涙弾みたいな奴?
 「榴霰弾」についてもう少し。「榴散弾」と同じ。→榴霰弾 - Google 検索 →榴散弾 - Google 検索
 山城信子さんの「妹」さんの死の状況についてもう少し。
 降伏した兵士と、助かった民間人の数について。
 軍刀を手に持って降伏した日本軍兵士と「アルビン・ハナ軍曹」、辞書を手にした日本軍兵士についてもう少し。
 だいたいこれで、「摩文仁の洞穴」の章の半分ぐらいです。
 
 これは以下の日記に続きます。
ジョン・トーランド『大日本帝国の興亡』第5巻「摩文仁の洞穴」のテキストをあれこれ考えながら引用してみるよ(2)
沖縄戦に関するぼくのテキストに対するツッコミテキスト