SFという仕掛けの私小説に納得しないものを感じる

 ティプトリー・ジュニア『輝くもの天より堕ち』(早川書房)がどんどん嫌な話になっているので、あと100ページ耐えられるかなという感じ。俺は痛いのとか、人が不幸になっていく話はあまり好きではないということがわかる。でも、ティプトリーとかディックとかディレイニーとかコードウェイナー・スミスとかヴォネガットとか、浅倉久志伊藤典夫組が日本に紹介してきた、個性的なSF作家の人たち(の一部)って、どうもSFという舞台設定で「自分が体験した嫌な話・ネタになりそうな話」を書いていったのでは、という気がしてしまう。『タイタンの妖女』にはヴォネガットの息子なんかも出てくるわけで。というより、どうもSF作家のプライベートな部分(どういう生き方をしてきた人なのか)というのが、ここに名前を挙げてみた人には情報が知られすぎ、という感じです。『春にして君を離れ』というのはクリスティの非ミステリな傑作小説の一つですが、これもクリスティの自伝その他の私的部分を知っているか否かでだいぶ読書の印象が違ってきてしまうような話なんじゃなかろうか(ちょっと再読してみたくなってきた)。
 こんなヘンな、あるいはすごい作家は、人生においてどのような体験をしてきたのか、ということは、どうしても本を読むと知りたくはなるんですが、なるべくそういう情報をカットして、物語は物語として楽しみたい、という気が、最近は特にするのだった。作品の解説に、その作家の人生経験について触れる、というのは、基本なのかも知れませんが、どうもSFの場合はミステリーと比べると「虚構」の構築部分の自由さが逆に、物語作りに私小説臭を感じさせる要因になっているかも知れないので、解説的には「これはSFというジャンルの中でどのような意味がある作品なのか」についてをもっぱら語って欲しいとも思う。
 ラファティなんかはどうなんだろうな。あるいはジャック・ヴァンスとかは。