「ケータイ小説」は「小説」なのか

 以下のところから。
ファック文芸部 - 論理兵站 - ケータイ小説について

ふだんぼくが読んでるブログは創作をしている人が書いてるものが多い。みんな誰もケータイ小説を叩いたりしていないんだけど、じゃあめちゃくちゃ読みまくって褒めてるかっつうとそういうこともなくて、この微妙な雰囲気を数年後のためにちょっと保存しておこうかなという試みでもあります。数年後はディスプレイのサイズとか通信速度が変わってるだろうから、すでにケータイ小説が変質しているだろうけれども、それだけにメモしておこうと。

 分析その他もあちらのテキストがよくできているので、あまり追加するようなこともないのですが。
 特に以下のところ。

すごい適当に言っちゃうけど、ケータイ小説のひとつひとつは別個の創作じゃなくて、ひとつの演目をさまざまな演者が演じているんじゃないかというふうに、むりやり考えてみたりすると、じゃあ話を作ることとアレンジを加えて演じることの差はどんくらいあるのよ? というふうなことにもなりかねない。
 
で、みなさんのほうがお詳しいとは思いますが、音楽のサンプリングがメインストリームの手法になったり、まんがの二次創作が銭になるという認識なんかがあって、完全なオリジナルなどありえないという考え方も「まあそういう考え方もあるよねえ」くらいに浸透してきたりしてきたと。単に昔に戻っただけなんじゃないかと。そういうことをみなさんおっしゃっていますよね。知らないけど。ぼくは「そういうことにしたい派」なんで。

 まず、紙に印刷された「物語」でも、「小説」じゃないものっていくらでもあるわけで。具体的には漫画。映画やTVドラマのシナリオ(台本)なんかもそうだろうか。絵本やイラスト入り小説(ライトノベルとか)はまぁ、小説かな。ライトノベルは小説好きな人でもほとんど(あるいは全然)読まない人もいるので、そういう人には微妙だろうか。古典芸能だと能狂言歌舞伎浄瑠璃といろいろあるし、ノンフィクションの形式を借りたドキュメンタリーも、広義の「物語」ではあるだろうけれども、小説とはいえない。ジャンルを変えて言うと、「映画」と「TVドラマ」は似ているけど、メディア(媒体)の違い、というのは、ある。映画の手法はTVドラマでも使えるかも知れないけど、TVドラマにはTVドラマなりの手法(あるいは、制約)がある。
 で、やはりケータイ小説に、物語好きが用心してしまうのは、そこに「本当に面白い物語」があるのかどうか、という一点で、伝聞情報によるとどうも「ケータイ小説はワンパターンである」というのが引っかかりどころかも知れず。ただ、ジャンル・サブジャンルとして考えると、そのジャンルにくわしい人間以外には区別がつきにくくなってしまうところまで行かないと、ジャンル・サブジャンルとはならないわけで*1、そういう意味ではその分野というのが逆に確定されてるかな、とか思ったり。ぼくが直接的・間接的に感じるのは、1980年代末期の「X文庫・ティーンズハート」黄金時代と似たようなもの、でしょうか。圧倒的に表通りの小説市場から無視されながら、数十万部を売っていたジャンル(サブ・ジャンル)でした。
 今後ケータイ小説がどうなるかは不明なんですが、割と景気とか勢いのいいときに多様化してくれると(読み手の選択肢が増える方向で進化してくれると)、物語の読み手としてはありがたいところです。ちょっと読んでみようかな、という気になる。今の状況だと、判断が難しすぎます。
 まぁこれも伝聞情報なんですが、「○○なんて××じゃない」と、ジャンルにこだわった発言も過去にあったりして、「ロックなんて音楽じゃない」とか、「ガンダムなんてSFじゃない」とかですね、そうなるとあらためて、サブ・ジャンルとしての「ロック」とか「ガンダム」が成立している(いた)んだろうなぁ当時は、という気分になるわけです。今のところ「ケータイ小説なんて小説じゃない」と言っているえらい人はいるんだろうか。いそうだなぁ。なんかいる気がする。
 

*1:たとえばぼくには、萌え絵師の区別はさっぱりです。少女漫画・少年漫画も、昔のものならともかく今のものは絵柄で区別はうまくつけられない。