25年前の文部省の人・時野谷滋氏の「沖縄戦検定」の言い分・2

 これは以下の日記の続きです。
25年前の文部省の人・時野谷滋氏の「沖縄戦検定」の言い分・1
 
 引き続き『家永教科書裁判と南京事件 文部省担当者は証言する』(時野谷滋、日本教文社)からの引用を続けます。
 今日は、「10・沖縄戦の記述と教科書問題」のうち、「(2)検定意見への執筆者の対応」を引用してみます。
 以下のところも参考にお読みください。
25年前の争点に戻すべきではないか - bat99の日記
 それでは、はじめます。

(2)検定意見への執筆者の対応
 
 ところが江口氏はこの場合、資料を提出されずに、原稿を新しくして「また、スパイ行為をした」云々というように書いてこられたのである。当時、私はいわば肩透かしを食ったような気がしたことを覚えている。従って今度は、その記述の拠り所となった資料の提出を改めて求めざるを得なかったのである。江口氏は、例えば前掲書などや、昭和58年(1983)10月3日、東京高裁において第一次訴訟の証人に立った際の証言の中で、この記述に関して久米島で守備隊長が沖縄本島における戦闘終結後、住民をスパイ容疑で殺害したという、いわゆる久米島事件のことを挙げておられる。しかしながら、この57年(1982)度のいわゆる内閲調整の第一段階では、そういうことは全くなかったのである。
 当時私の手許には、当時の藤村和男検定課長から、同事件をめぐって昭和47年(1972)4月5日の参議院予算委員会で交された二院クラブの喜屋武真栄議員と佐藤栄作首相、及び同20日の同委員会で行われた同議員と山中貞則総務長官との問答を記した議事録のコピーが届けられていたから、もし江口氏から資料の提出があれば、それに対応することができたと思う。但し、これは政治的には、一応の決着をみていた事件ではあっても、検定側としては学問的調査を進める必要があると考えていたのである。ともかく積極的に執筆者の参考に供するような調査段階にはあ達していなかったことを記憶している。「毎日新聞」昭和57年(1982)8月22日紙によると、私が「別に住民殺害の記述を削ろうなんて思ってません。記述の根拠を聞いているのに、それには答えず次々に記述を修正してくるのがおかしい」と語ったという。これはこの修正をめぐるやりとりから約半年後のことであるが、こういう表現をしたかどうかはいずれにしても、趣旨はまさにこの通りであったと思う。それはやはりこのコピーを手にして調査を続けていたからである。
 ともかく江口氏は、家永氏の準備書面がいうように「また、混乱をきわめた戦場では、友軍による犠牲者も少なくなかった」と、また文章を新しくしてこられた。この文章の根拠は、江口氏の前掲書によると次の通りであるという。

 ちょうど1981年(昭和56----時野谷注)末に沖縄へいく機会をえた私は、摩文仁沖縄県立平和祈念資料館を訪れ、その展示パネルの一つに、

混乱をきわめた戦場では”友軍”による犠牲者も多く出た。スパイ容疑、壕追だし、食料略奪、幼児処分、収容所襲撃などで罪のない避難民が殺傷された。

 と書かれているのを確かめました。これは県立という公共の施設で、小中学生を含む参観者に現に公示されている文章です。私はこの文章を使えば、あるいは調査官も納得してくれるのではないかと考えました。

 そして「パネルの文章を参考資料としてそえ、文部省に提出しました」という次第であった。
 しかしながら、これは飽くまで一般的な場合について述べるのであるから、その点、誤解しないでいただきたいのであるが、「公共の施設に公示されている」ということだけで、その文章の内容が正確であると断定してもよいであろうか。関係資料を自分で調査して、その結果、正確性を確認した上で自分の著作物に取り入れるというのが研究者の常識であると思うが、この点については後で述べよう。ともかく、パネルの文章をそのまま添付しただけでは、資料の提出ということにはなるまい。仮に、展示パネルにはこう書いてありますといって、その要旨を紹介しているというような場合なら、パネルの文章をそのまま提示すれば足りるけれども。
 家永氏の準備書面は続いて次のようにいう。

 そこで、江口教授は、さらに、「なお、『沖縄県史』では職場の混乱のなかで、日本軍によって犠牲となった県民の例もあげられている」と書き改めたが、これに対しても、調査官は「『沖縄県史』は一級の資料ではない」との理由で認めず、結局、江口教授は、右後段の日本軍による県民殺害の事実を書くことをあきらめざるを得なかった。

 これでは、この真相は全くわからないので、三度、江口氏自身の説明を聞こう。

沖縄県史』は前に述べましたように検定の席で調査官自身が引用していた文献ですし、琉球政府(復帰後は沖縄県)編刊の沖縄県の正史であって、公的権威性という点では文句のつけようのないものです。しかもその第9巻には沖縄戦を体験した県民からの膨大な聞き取りの記録が集大成されています。
 ところが、担当編集者によると、調査官は『沖縄県史』のコピーを手にとろうともせず、『沖縄県史』は体験談を集めたもので、一級の資料ではない。書くならちゃんとした研究書を使ってほしいといった趣旨のことを述べ、さらに検定制度を取り違えていないかと発言したとのことでした。すでに合否の決着をつけるタイムリミットは迫っておりました。編集担当者も、もうこれ以上は、という判断でした。

 実はこの文章もはなはだ誤解を招き易いので、まずその点を整理しておくと、『沖縄県史』は確かに第1巻から第7巻までは体系的に編集された沖縄県通史であり、第8巻も同じく編集された『沖縄県通史』である。しかしながら第9巻と10巻とは『沖縄戦記録』1と2であって、昭和44年(1969)、「沖縄県民の戦争体験を、生存者多数の記憶によって記録し、まとめたもの」である。
 ところがこの修正文では、通史の中に「日本軍によって犠牲となった県民の例」をあげた記事がある、ということになってしまう。確かに第9巻の記録の中にはそういうものがあり、その一部は『沖縄の証言』上下として中公新書で普及もされている。私はそれらを、十分、読んでいたつもりである。というのは昭和51年(1976)度検定の際、中学校用の東京書籍『新しい社会歴史的分野』の原稿本の特設資料ページに、この記録の一つが掲載されていたのを、それはいわゆる壕提供の話であったが、「沖縄県は、1969年に多数の生存者に戦争の記憶を語ってもらい、それを記録した。資料3は、那覇市の近くに住んでいた一婦人(当時20歳)の話の一部である」という説明を加えることを条件として認めたことがあり、その後も何回か参照していたからである。
「コピーを手にとろうともせず」というけれども、『沖縄戦記録』からのそれであることだけは確認したと思う。ともかくそのコピーは、県史のなかの編集された体系的記述である通史からのそれではなかったのである。従って依然として原稿記述を裏付ける資料は提出されたことにはならなかったわけである。

 ぼくが気になるのは、この時野谷氏は、沖縄戦の歴史資料に対しては、他の歴史資料と同じく厳密にやっている(やっていた)のか、また、沖縄戦の資料を出す人は、民間伝承・伝聞的要素の強い「物語」を、「神話・伝説」ではなく「歴史」として残すために、どれだけの努力をしていたかということだったのでした。
 
 これは以下の日記に続きます。
25年前の文部省の人・時野谷滋氏の「沖縄戦検定」の言い分・3