東大の拙庵瀧精一教授とその弟子・団伊能について。あと複製芸術とか

 以下の本を読んでいたら、

★『読書通-知の巨人に出会う愉しみ』(谷沢 永一 著/学習研究社/777円)【→amazon

その名は耳遠いながらも、近現代日本の知の世界を築いた十二人の著作家たち。その抜きん出た業績を、今改めて問う。

 美術史学者・八代幸雄に関する項で、ちょっと面白い一文を発見。
 矢代幸雄は、35歳で英文によるイタリアルネサンス美術研究書『サンドロ・ボッティチェルリ』を刊行し(翻訳は1977年、岩波書店)、欧米で一躍有名になったんですが、それに関して、p71

 嫉妬に狂った東京大学系の美術史学者は申し合わせたように以後ながく黙殺をもって遇し、斯界の親分格である拙庵瀧精一に至っては、この刊行に激怒したと伝えられている。ちなみに、この瀧精一は後継者たるべき助教授に、団伊能という学者としては全く無能な男を選んだ。伊能の父は三井合名の初代理事長として、三井財閥の事業を総括し、大正五年に創立された日本工業倶楽部の初代理事長、昭和三年日本経済連盟の会長、男爵にのぼった経済界の大御所である。

 ということで、名前は出て来ないんですが、団伊能の父は団琢磨という人で、伊能の息子が団伊玖磨です。
 で、こんな曲を作ってます。
プリンススカイラインの歌/SKYLINEの歌 by M - 無料試聴!投稿型着メロ/J研

まあこの曲な訳ですが何がすごいって曲じゃなくて掲載されてる楽譜のいい加減さが凄いんですよ(藁
私 これでも一応音楽学校で学んだ人間です。が初めて見る音符があったり1小節に四分音符4つ分あるとこ、8,5個分あるとこや数種類あり(爆)
当然のようにコードの表記も無く。
五線譜のEとDどちらにも均等にいて判断できない音符もあるし(藁)
こんなもん作れるかいなって適当な楽譜で最高に笑えるんですが、お見せできないのが残念ですが無理矢理作ってみました。

 で、団伊能氏の作詞による歌詞はこちら。
プリンススカイラインの歌


朝雲ふみわけ 天かける
日の神アポロの 黄金のくるま
ラー ラララ ラー ラララ
ララララ ララララ
アテネの丘に立つ姿
(以下略)

 団伊能氏は、プリンス自動車の社長にはなれたみたいですが、東大の教授にはなれなかったみたいです。(二代目教授は誰だったかというと後述)
団伊能 - Google 検索
 で、その師匠の瀧精一で検索してみたら、別件で怒っている人がいました。
小野秀雄と瀧精一

半世紀近く前の出来事を憎悪の言葉で語り、すでに四半世紀も前に鬼籍に入った人物になお鞭打つ点で、小野秀雄の『新聞研究五十年』(毎日新聞社、一九七一年)は特異な回顧録だ。 恨みを買い続けたのは美術史家瀧精一(一八七三〜一九四五)である。おそらく、これは、昭和三年(一九二八)、東京帝国大学文学部に開設が決まりかけた新聞学講座を、文学部長だった瀧によって一蹴された怨みが小野の骨髄に達したというだけの話ではない。瀧を「象牙の塔に立てこもって学問の応用面を蔑視する古い頭の学者の集まり」(同書)の代表に仕立て、むしろ彼らの理解の届かない場所に、小野が新聞研究を展開させてきたことを物語ってもいるはずだ。
 
瀧の意向を体した大学当局は、新聞研究に対してつぎのような見解を示した。「(一)本学に於て将来新聞学なるものの講座を設くるに至るや否やは全く不明なり是れ単に経費の都合にのみ依るにあらず新聞学なるものの学問としての性質上然るものなり、(二)本学に於て新聞に関する研究をなすものは主として純学理上の研究をなすものにして、新聞の記者又は経営者の養成の如きは寧ろ間接なる事に属す、(三)(四)略」(同書)。
 
小野の提唱する新聞研究を「新聞の記者又は経営者の養成の如き」ととらえるのは明らかな矮小化だが、小野は小野で、「滝教授のような美術史の教授は美術のことがわかるだけで、新聞学のような社会科学には見通しがつかないのである」(同書)と当時を振り返り、人文科学対社会科学という単純な図式から最後まで逃れられなかった。穿った見方をすれば、「新聞研究五十年」を回顧するためには、頑迷な無理解者の存在を必要としたのである。
 
瀧精一は日本画家瀧和亭の長男として生まれた。大正三年(一九一四)、東京帝国大学文学部に美術史学講座が開設された時、初代教授となり、昭和九年(一九三四)の退官まで日本美術史と中国絵画史を講じた。さらに美術雑誌『国華』の主幹も務めていた。
 
昭和三年に瀧が新聞研究に対して示した拒絶は、文学部長としての判断であっただろう。小野はさらに、瀧が『国華』を通して朝日新聞社と深いつながりを持っていたことから、東京日日新聞の記者であった自分を排斥したのだろうと推測する。いずれにしても、美術史家としての瀧の視野には、新聞はもちろん、かわら版や新聞錦絵など入りようがなかった。

学問のアルケオロジー:「複製画」と美術史教育

大正3(1914)年2月、東京帝国大学文科大学(以下、文科大学と略す)は、美学第二講座として美術史学講座を新設した[1]。主任教授には、美術研究誌『国華』の主幹として活躍し、明治42(1909)年以来、文科大学において日本絵画史を講じていた瀧精一(1873―1945)が迎えられた。同時に当時国華社において編集事務を担当していた藤懸静也(1881―1958)を副手として採用した。藤懸は、後に瀧の後を承けて美術史学講座第二代主任教授となっている

『国華』が、その創刊当初より掲載図版を重視し、また、読者もその美麗な木版多色刷りの図版に多大な関心を寄せていたことは、『国華」600号に寄せられた、辻善之助(1877―1955、歴史学者東京大学名誉教授)の次の一文に端的にあらわれている[6]。
 
「而して其の芸術品の複製に至っては、単に妙品傑作の紹介たるに止まらずして、その木版色摺の如きは、優に一個の芸術品である。それと共に、この複製によって芸術品の保存維持の用をも兼ねるのであって、国華は実に縮小博物館の観を呈し、吾人は国華六百冊を展観することによって、ひろく東洋芸術の精粋を一堂の中に陳列観賞することができる」。
 
 このように木版多色刷りによるカラー図版、及びコロタイプ印刷によるモノクロ図版は、『国華』の顔ともいえる位置を占めていた。では、これらの図版をも含めた美術品の複製について当の『国華』、そしてそれを一手に運営していた瀧自身はどのように考えていたのであろうか。その解答は、「美術品の模造」(『国華』193号、明治39年6月)と題された筆者不明の一文に示されている。そして、匿名であるからこそ、この一文は、主幹であった瀧の考え方を忠実に語ったものとなっているのではないだろうか。以下、長くなるが複製というものが、明治以降の美術研究において持った意義を端的に語った重要な史料であるので引用する。
 
美術研究にとりて其の原物の研究が最も肝要なる可きは論を竢たずと雖も、是れ広く一般人士の得て望む可からざる所にして、博物館の如き公衆の容易に観覧し得らるヽ場所の如きも、なほ其の所在地の遠隔なる場合に於いては、之を目賭すること難し、況んや一私人の珍襲品に至っては、研究者が欲する時期に於いて、欲する場所に於いて之を観覧せんことは、通常出来難きことヽ云ふも不可なし。吾人は此等個人の襲蔵品が漸次心安く博物館等に出陳せられ、富豪貴紳の輩が其襲蔵する美術品の鑑賞を、衆人と共に相楽しむの日到らむことを熱望するものなりと雖も、一方に於いては此等美術品の正確なる模造品を作り、以て各文芸研究の中心地の博物館等に常備せんことを欲するものなり。(中略)由来美術の原品を過重し、其の模造品を軽蔑するは、骨董癖に本(ママ)くもの多きに居る。而して斯くの如き世界美術史上の傑作品の模作を得て国民の眼前に提供することは、ひとり美術の研究者にとりて有益なるのみならず、一般国民の教育にとりても最も須要なる事項たらずんばあらず」。

 太字の部分に、西洋絵画の実物を山ほど見て研究した八代幸雄に対する意識があらわれていて面白いです。
美術史の目と機械の眼 ―スライド試論―

スライドに光を当ててみたい。
 美術史の授業を受けた経験のない人にはおそらく奇妙に思われるかもしれないが、ほとんどのばあい、そこではスライドが補助手段として用いられている。つまり、ここではいきなり講義室の照明が落とされ、スクリーン上に美術作品の複製映像が映し出されるのだ。聴講者の目の前には、作品の写真複製像、しかも時にそれがばらばらに分解された部分拡大図までもが、次々と映し出されては消えていく。その模様は、見世物小屋の出し物にかぎりなく近いのかもしれない。両者の違いはただ、作品映像の傍らで口上を述べる弁士が美術史家だということだけである。
(中略)
 日本で美術史の講義に複製スライドを用いたのは、慶応の澤木四方吉だと言われている。彼は留学中にミュンヘンでヴェルフリンの授業を受け、晩年にその『基礎概念』の紹介を行っている。澤木は、様式史ばかりでなく、その複製媒体の使用も紹介した。すくなくとも一九二〇年代始めには、彼の講義が幻燈を使用したものであったことは知られている(21)。ただし、美術史講義に複製スライドが用いられたのは、これよりもさらに時代を遡る。先述の瀧が、日本美術史の講義にすでに幻燈を用いていたのである。
 瀧(1873―1945)は、一九〇九年以来、東京帝大で日本美術史を担当、やがて美術史学講座の初代教授として任命される。彼は、美術史の授業を元良勇次郎(1858ー1912)の心理学教室を用いて行っていた。その理由は、スライド使用のためであった。日本の心理学の創始者と言われる元良は、一八九〇年の帝大就任後、実験心理学の実験室開設を計画し、弟子の松本亦太郎にその整備を命じていたのだった(1903年完成)。おそらくこういった事実から推測すると、瀧は、一九一〇年前後には心理学教室にて美術史の授業を行っていたのだろう。この頃には一部の教育現場ですでにスライド使用は広まっていたということになる。ここで注意を喚起しておきたいのが、心理学実験室の設備としての幻燈の重要性である。欧米の心理学実験場を見て廻った松本が、当時最新の実験測定装置のなかでとくに重視していたのは幻燈なのである。

 今日のように、複製芸術(アート)として創作物を鑑賞することに慣れている(慣らされてしまっている)時代、瀧精一の言葉はたとえ負け惜しみのようであっても、面白い視点だと思いました。確かに、昔の名画などの実物を、上野の展覧会などで見ると、写真などの印刷物とは圧倒的に違う迫力を感じさせるわけなのですが、では果たしてそれが、その創作物を見る(触れる)正しい、あるいは唯一の方法なのか、というと疑問もあるのですね。小説は「著者の手書き」ではなく「印刷された書物」という形で読者が接する芸術であり、最近では漫画などですでに「手描きの原稿」が存在しない(パソコン上のデータ=CGとしてしか存在しない)「絵」もあるわけで、「データとしての創作物(創造物)」というか、オリジナルとコピーがまったく同一の場合もある時代、たとえば「CGの絵」を印刷した「画集」は、レベル的にはアート的な価値はそのほうが上なのかも知れず。昔の編集者は「原稿の紛失」を恐れていたでしょうが、現在は「原稿の流出(コピーされ大量にばらまかれるような事態)」を恐れているんじゃないでしょうか。
 要するに、複製芸術を意識した創造を、創作者は心がけないといけない時代なのですね、今は。
 でも、ライブ演奏も原画鑑賞も、それはそれでいいものです。