「Welcome to the "Real" World」と映画『マトリックス』のモーフィアスは言った

(追記)タイトル、モーファイス→モーフィアスに変更。
 名前(設定)に重要な意味があるのに、こんなミスをして恥ずかしい。
 
 昨日母さん殺したぜ。リアル(笑)
 
 これは以下の日記のつづきです。
「この話はリアルだ」という場合の「リアル」について
 
 引き続き「リアル」について、こんどは別の話から。
 以下のサイトのテキストなど。
マンガの道

 それにしても1番すごいのがボクシングマンガの「はじめの一歩」、一般読者だけでなくプロボクサーが夢中になって読んでいるという。そしてピアノマンガで1番よくできているのが「いつもポケットにショパン」だ。
 テレビだって面白く盛り上げるための演出として「やらせ」は当たり前の時代だ。ただ「やらせ」と視聴者に分からせないように「リアリティ」をもたせるのが演出の技術だ。
 とにかく「リアリティ」とは、「うそ」と「演出効果」の狭間にある、物語を作るうえで奥深く難しい問題なのだ。 

 漫画の話なんだけど、創作物一般に対して。
 せっかくなのでぼくの妹、ではなくて知り合いの妹の話をします。
 中学生の腐女子見習い。趣味でアニメ絵とファンタジーの創作をしてるんだけど、主人公が宿屋に泊まると「汚れたシーツのベッド」なんて描写があったりしてぶっ飛ぶ。主人公の連れが「ドクター・モブ」。なんだよドクターって。そのファンタジー世界は英語に支配された言語体系なのか。まぁこれが近未来・遠未来ならわからなくはないが、正直言って異世界ファンタジーの世界構築ってものすごく体力いると思う。まず大は、世界を支配する「神の名」を決めるところから、小は登場人物が口にする飲食物まで。コナン(名探偵じゃなくてヒロイックファンタジーの主人公のほう)なんて、出生地の「キンメリア」からはじまってもうすべてが、過去の歴史の中に埋没している、かつて存在した名前に満ちみちているわけで。古代イングランドの地が「ピクト人の地」とかなっているけど、ピクトってpictureの語源で云々、と、もうリアリティをどう出すか、というのが、パクリをどのように埋没させるか、というのとイコールになってたり。
 ネット上で感心したのはこれですよ。
Group // Eureka seveN
 エウレカセブンにはまぁ、佐藤大氏のテクノ愛に満ちた裏設定があるみたいなんですが、放映当時はそんなに真面目に見てなかったので。
ターミナス - Group // Eureka seveN

ターミナスはローマ神話の境界神<Terminus>に由来。ちなみにターミナス系列は型番由来がRolandに統一されている

モンスーノ - Group // Eureka seveN

モンスーノは<モンスーン>に由来。ちなみにモンスーノ系列は型番由来がKORGに統一されている。

 なるほど。こういうのってリアル?
 設定(裏設定)考えるのって楽しい! 多分。
 そういう人のためのメタリンク集。
神話辞典・事典リング:WebRing
 
(追記)
 この人のテキストも、ものすごく面白い!
白取特急検車場【闘病バージョン】 漫画家になりたい人へ ( 番外4)

ともかく、何かが流行ると「マンガ家志望」の子らの絵柄はそれ一色になる。好きな漫画だけ読み、好きな絵ばかり真似しているから、似たような絵しか描けないし似たようなお話しか創れない。そして漫画は何度も言うように「絵とストーリーの両輪」が織り成す表現だ。好きな作家の絵ばかり真似をしていれば、似たような流行の絵は描けるようになるだろうが、お話はどうする? オリジナルの話が創れないから、勢い超能力だの霊だの御伽噺だの、最初からリアリティを排除しても突っ込まれない方向へ逃げる。すぐ、そっちへ行く。
言っておくが、ファンタジーやRPG的世界の漫画作品を批判しているのではない。素晴らしい作品もたくさんあるのだし、それらは「ファンタジー」であっても「リアリティ」を持って我々をその世界へと誘う力を持っている。「指輪物語」「終わらない話」などには、洋の東西を問わずいつの時代の読者をもわくわくさせる、圧倒的な力がある。ギリシアローマ神話や日本の能・歌舞伎などを勉強しろとは言わない(本当は言いたい)が、シェークスピアや日本の近代文学も難しいというのなら、お話を創ることを諦めた方がいいのでは、と思うことさえある。
優れた名作を何も読まず、知らずに、とりあえず時代や国籍などを不明なところに設定すれば考証は不要になる。つまり「完全オリジナル」だと開き直れば当然、誰からも突っ込まれることはない。そうして主人公が意味なく旅に出て超能力で相手を倒したり死霊と戦ったりお姉ちゃんと恋愛をしたりピンチになったりするけど必ず最後は勝って笑ってお姉ちゃんもゲットして終わり…という作品、面白いか? いや面白いんなら、面白く描けるんならそれは一つの才能であると認めざるを得ないが…。ともかくこの「…それで?」と問いたくなるような余りに陳腐で稚拙な世界、実際にアマチュア漫画家志望の作品に物凄く多いパターンなのである。
例えば「江戸時代・末期、新撰組の時代、京都で」と言って物語を進めなければならないとすると、これはもうきっちりとした時代考証を必要とし、それなりの歴史の知識や画力が必要になる。テレビや映画でさえ、今は時代劇が作れなくなってきている=時代考証がデタラメになってきているのに、個人でそれを全て行ってしっかりした作品を創っていくのは相当難しいだろう。だからほんとうの時代劇を描ける人がどんどん少なくなってきている。(ちなみに近年、「パロディとしての時代劇」へ逃げているとしか思えぬ映画やドラマが多いが、そういう「いい加減な時代劇」を見た若者が、それをそのまま受け入れ、「よりいい加減な時代劇」を再生産する傾向が確かにある、と思う)
変なツッコミが来そうだから言うが別に「江戸時代・末期、新撰組の時代、京都で」を描きたくないのならそれはそれで別の時代なり現代なりでいい。また先のような「全部俺が設定した世界の話」と言えば考証の必要も苦労もないわけなのは言うまでもない。だが、そこまで行かずとも、では「現代、東京、渋谷に集う十代」の世界を描きたいと思ったら? それでも考証が必要だということに気付けよ、と思う。同様にファンタジーの世界でも、架空の世界でも、「それはいくら何でも…」と思わせないリアリティが必要であり、それが失われた瞬間に、読者はその物語の世界から醒めるのだ。