座間味島で軍命を伝えていたのは誰だったのか
ということで、もうしばらく続きます。
以下の本に目を通してみたのですが、
証言 沖縄「集団自決」―慶良間諸島で何が起きたか (岩波新書)
- 作者: 謝花直美
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2008/02/20
- メディア: 新書
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著者が沖縄タイムス編集委員で、沖縄タイムス史観に基づく、ていうか外れることのない視点なので、私的にはちょっと万人にはお勧めできない。左翼思想に耐性・免疫のある人が普通に読むと「戦争とは嫌なものだ」ですむんですが、それが「日本軍・皇民教育許すまじ!」となってしまうと、それはちょっと違うぞ、と。
たとえばp156
飢餓と不衛生な状況の中で、人々の心はすさみ、むずかる子どもが泣くと、住民から「殺せ」という罵声があがった。また、ある男性が米軍は民間人を殺さないからといって、家に戻ったところを日本軍に殺害された。
これも、そのような事実があるかどうか、特に後者に関しては多分それなりの記録がありそうなので調べてみたいとは思いますが、著者の地の文(主張)だとこんな感じ。p208
日本軍と追い詰められた住民が混在した戦場の中では、日本軍が使うからと避難民が壕かを追い出されたり、また壕内でむずかって泣く子どもの声で米軍に所在がばれるからと、兵隊が母親に子どもを殺すように命ずるなどの悲劇がおきた。
「兵隊が母親に子どもを殺すように命ずる」という例をちょっと調べてみたいのですが、伝聞情報としては「住民」から「殺せ」と言われた、という説もあるとか。
まぁそのようなことはどうでもいいので、座間味島での「軍命」を一般住民に伝えていたのは誰だったのか、について、証言・伝聞情報・意見(主張)とか取り混ぜて全部拾っておきます。抜かりがあったらすみません。
1:誰か不明の人から宮里哲夫さんへ(p89)
二五日の夜、忠魂碑前へ集合という軍命が伝えられた。哲夫さんらは壕を出て、座間味国民学校近くにあった忠魂碑へ向かった。
2:誰か不明の人から宮城恒彦さんへ(p91)
二五日夜、住民が避難していた壕を伝令が回り、「忠魂碑の前に集まれ」という軍命を伝えた時、恒彦さんは「死にに行くことになると、うすうす感じていた」と言う。
3:宮里直(なお)さんから家族へ(p109)
二五日夜になって、座間味集落から直さんがマチャンにいた家族を呼び戻しにきた。「玉砕命令が軍から来た。軍の言う通りにしないといけない」と、直さんは伝えた。
4:宮平恵達氏からあちこちの人間へ(p109)
その夜、座間味集落の西側に集中していた住民の壕へ「忠魂碑の前へ集合せよ」という軍命を伝えていたのは、防衛隊員で役場職員だった当時一九歳の宮平恵達さんだった。
5:宮平盛秀氏から父親の盛栄氏へ(p111)
盛秀さんは思い詰めた様子で、「明日か、あさってに米軍の上陸は間違いない。軍から自決しなさいと言われている。国の命令に従って、あの世に一緒に行きましょう」と言って、忠魂碑の前で「集団自殺」することを説明した」
6:誰か不明の人から壕の人へ(p114)
集落西側に集中していた民間の壕には、二五日夜、「今晩、忠魂碑の前に集合」という伝令が回った。
7:宮平盛秀氏からどこかの誰かへ(p124)
盛秀さんは座間味島に駐屯した日本軍と住民の間に立つ兵事主任として、軍の命令を住民に伝える役割を担った。軍に絶対服従の状況で、家族を含め、大勢の住民が命を落とすことになる「集団自決」の軍命を伝えた。
…本当に?
読んだ証言・記録に関する限りでは、宮平盛秀氏は、父(広く見ても、自分の家族)にしか軍命を伝えていないみたいです。
もっぱら伝えたのは謎の「伝令」(多分宮平恵達氏だと思うがはっきりしない)。
「○○からの軍命で、△△らしい」という情報が、ぐるぐる回っている印象がありました。
最後にこんなテキストも。
→原告準備書面(5)の要旨 第6回口頭弁論H18.11.10(金) -沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会(via 2007-07-08 - 愛・蔵太のすこししらべて書く日記)
真実、玉砕命令を下したのは梅澤部隊長でも軍でもありませんでした。
それを明らかにしたのが、まさに宮城初枝さんの勇気ある証言でした。その証言をもとにして娘の晴美さんが書いた『母の遺したもの』には、自決のための弾薬をもらいに行ったところ梅澤部隊長に「お帰り下さい」とはっきりと断られた助役の宮里盛秀氏らが、次にどういう決断をしたかが、こう語られています。
「その帰り道、盛秀は突然、防衛隊の部下でもある恵達に向かって『各壕を回ってみんなに忠魂碑前に集合するように……』と言った。あとに続く言葉は初枝には聞き取れなかったが『玉砕』の伝令を命じた様子だった。そして盛秀は初枝にも、役場の壕から重要書類を持ち出して忠魂碑前に運ぶよう命じた。
盛秀一人の判断というより、おそらく、収入役、学校長らとともに、事前に相談していたものと思われるが、真相はだれにもわからない。」
宮里盛秀助役が、その単独の判断か、宮平正次郎収入役及び玉城盛助国民学校長らとの協議の上での決断かは不明ですが、自らの判断を「軍の命令」ととれるかのような形で、村内に指示したというのが実態だったのです。
ここでは「宮里盛秀助役」という役職以外は出ていないようです。兵事主任なのに。
ということで、引き続き兵事主任という役職が「(非常呼集・召集以外の)軍の命令を伝えた」という、もっとしっかりした例となりそうな、安仁屋政昭氏が言い始める前に書いてあるテキストを探してみたいと思います。