富永恭次(冨永恭次)の敵前逃亡について

 これはぼくの以下の過去日記の追記です。→http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20030205/p4
 
 ウィキペディアの記述から。
富永恭次 - Wikipedia

フィリピンに赴任した冨永はフィリピン決戦において陸軍初の航空特別攻撃隊の出撃命令を出すこととなる。とはいえ航空作戦に全くの無知であったため、生存者によると特攻前になると一升瓶をぶら下げて現れては訓示を垂れるしか能のない司令官だったという。特攻隊出撃前の訓示では「諸君はすでに神である。君らだけを行かせはしない。最後の一戦で本官も特攻する」と言い、一方で帰還した特攻隊員は容赦なく罵倒して62回に亘って約400機の特攻を命令しパイロット達を全員戦死させた
こうして戦勢の不利が明白となった1945年1月16日、マニラから引き上げてきた司令部要員の大半をエチャーゲの南5キロにあるサンチャゴに足止めさせている間に司令官、参謀などの高級将校たちは残り少ない戦闘機を駆り出して護衛を命じフィリピンのエチャーゲ南飛行場から台湾台北へと続々と逃亡した。積み荷はウィスキーと芸者たちであったという。これを知った残された約1万の第4航軍の将兵は唖然として語る言葉もなかった。冨永に見捨てられた兵たちは地上部隊に編成替えされ脆弱な歩兵部隊となってその大半が戦死した。
その後、冨永は胃潰瘍の診断書を提出して温泉療養に専念し十分に英気を養った。2月13日、大本営は第4航空軍司令部の解体を発令した。これが悪名高い「富永恭次の敵前逃亡」である。太平洋戦争においてはマッカーサーも敵軍を前にしてコレヒドール島から脱出しているが、マッカーサーの脱出はルーズベルト大統領の正式な命令を受けたものであるのに対して富永は明らかに軍規違反であり、軍規に則れば銃殺刑の敵前逃亡であった。これは現在に至るまで批判されている。

特別攻撃隊 - Wikipedia

陸軍の特別攻撃隊
陸軍の特攻作戦は、海軍の影響を受けてはじめられた。1944年7月中旬には四式重爆と九九双軽の体当たり機への改修がひそかに進められていたのである。陸軍の(航空)特別攻撃隊は、当初は海軍の「神風」のような統一した隊名を用いなかった。フィリピン戦線に投入された富嶽隊(浜松、四式重爆撃機)と万朶隊(鉾田、九九式双発軽爆撃機)に始まり、その都度命名された。その当時の陸軍特攻隊指揮官は第4航空軍の悪名高い富永恭次中将である。

太平洋戦争開戦史コンパクト/「これはひどい」将校列伝 - カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの虚業日記

イギリス軍の総攻撃が開始され、ビルマの防衛が危機に瀕していた昭和20年4月23日、木村は前線で苦戦する隷下部隊や、日本が支援したビルマ政府のバー・モウ首相、自由インド仮政府チャンドラ・ボース主席、石射猪太郎大使以下日本大使館及び民間の在留邦人等を置き捨てて、幕僚とともに飛行機でラングーンを脱出、タイとの国境に近いモールメンへ敵前逃亡。取り残された人々は、陸路で脱出を試みたが、多くの犠牲者を出した。(この時、チャンドラ・ボースは常にインド国民軍部隊の殿を歩き、渡河を行うときなどは、最後の兵が渡河を終えるまで川岸を離れなかったという。)
木村を含めたビルマ方面軍司令部の唐突なラングーン放棄により、方面軍の指揮命令系統は大混乱に陥り、イラワジ河西部でイギリス軍と激戦中だった第28軍は敵中に孤立し、包囲を突破して脱出したものの、多大な犠牲を出した。ビルマ戦役における日本軍の戦死者は約14万4千人に達するが、悲惨を極めたと言われるインパール作戦における戦死者は1万8千人と12.5%であり、戦死者の約52%がこの最終段階で発生していることを考えれば、我が身を逃がすために必要な指揮を怠り、バー・モやチャンドラ・ボースといった日本と盟友関係にある外国要人や在留邦人の保護義務も果たさなかった木村の軍人としての責任についてはビルマ戦役の生還者を中心に厳しい批判がなされている。A級戦犯として処刑されたことにより、牟田口廉也富永恭次のように日本人サイドからの批判にさらされることは少なかったが、A級戦犯としての処刑の是非とは別に、部下や民間人、友邦の指導者等を見捨てて逃亡した木村には極刑は実にふさわしい末路といえる。

 ただ、google検索で「富永恭次 敵前逃亡」とやっても、ウィキペディアからの孫引用がほとんどなので、ちょっとちゃんとした図書館に行って調べてみないといけないと思った(メモ)。特に「フィリピンのエチャーゲ南飛行場から台湾台北へ」の逃亡の際に「積み荷はウィスキーと芸者たちであったという」という記述の元になりそうなテキスト・資料が知りたいものなのでした。ということで、もう少し調べる時間があったら、と思います。