正史『三国志』 十八巻
最近の世界史板@2ちゃんねるの100越えスレッド。秀>優>良>並>可>駄、というのが目安です。
元スレッド。
→正史『三国志』 十八巻
ずっと読み続けていたい良スレだけど、三国志・戦国板がもうあるんだよな…。
- 1 :世界@名無史さん:2010/07/23(金) 19:17:32 0
- 正史に沿って三国時代を語るスレです
前スレ
正史『三国志』 十七巻
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1274795057/l50
- 2 :世界@名無史さん:2010/07/23(金) 19:52:55 0
- 水滸伝の方が面白い。
- 3 :世界@名無史さん:2010/07/23(金) 19:55:57 0
- 正史は小説じゃねぇぞw
- 4 :世界@名無史さん:2010/07/23(金) 20:21:30 0
- じゃあ、ここで一つ質問。魏で九卿止まりの人と、三公まで行けた人の差は?
文官、武官、地方官として大きな功績をあげたのに、
ほとんどが九卿止まりで三公まで行けた人はほとんどいない。
九卿止まりの人と三公まで行った人の間に大きな差があるとは思えないのだけど。
- 5 :世界@名無史さん:2010/07/23(金) 21:02:52 0
- 魏の三公って名誉職で、実権は中書省とかに移ってたんじゃなかったけ?
- 6 :世界@名無史さん:2010/07/23(金) 21:50:55 0
- >>4
つ定員
- 7 :世界@名無史さん:2010/07/23(金) 22:03:03 0
- >>5
九卿も名誉職だよ。まあ、三公九卿は功績のある文武官のあがりのポスト。
- 8 :世界@名無史さん:2010/07/24(土) 00:24:32 0
- 権限の大きさに違いはあるものの、九卿も名誉職(お飾りという意味で)とは言えないだろう。
お飾りじゃないからこそ、曹爽政権において、九卿から外される諌臣が出てくるんだし。
- 9 :世界@名無史さん:2010/07/24(土) 06:34:39 0
- 馬岱かっこいいよね
- 10 :世界@名無史さん:2010/07/24(土) 07:39:15 O
- >>9
三戦でどうぞ
- 11 :世界@名無史さん:2010/07/24(土) 09:06:39 O
- 平北将軍は高官なの?
- 12 :世界@名無史さん:2010/07/24(土) 16:20:21 0
- >>8
九卿でも高柔みたいに実務担当してるのと、老臣を待遇するためのが混じってるね。
太常、廷尉、大司農、少府あたりは実務があって、
光禄勲、衛尉、太僕、宗正、大鴻臚あたりは名誉職っぽい。
- 13 :世界@名無史さん:2010/07/24(土) 16:21:25 0
- >>11
雑号将軍とほとんど変わらん。
- 14 :世界@名無史さん:2010/07/24(土) 17:23:59 0
- 晋だと平○将軍はかなり上位。
265-289年の頃もそうだったかは分からんが。
- 15 :世界@名無史さん:2010/07/24(土) 18:15:26 0
- >>14
しかし、呉滅亡以降の晋は三国志の守備範囲外だから。
- 16 :世界@名無史さん:2010/07/24(土) 19:09:17 0
- 黄忠って劉表に仕えていた頃、中郎将だったけどさ。
これって州牧クラスの勢力なら武人に与えられる最高クラスの官位だよね。
もしかして、黄忠って劉表軍でも結構な重鎮だったのかな?
- 17 :世界@名無史さん:2010/07/25(日) 17:56:18 0
- 黄忠は劉表時代は劉磐の配下だな。有力部将であっても、重鎮というレベルでは無いな。
中郎将を配下に置けるってことは、劉磐は長沙太守だったのかな?
曹操に降ったら、黄忠は偏将軍に昇進して、長沙太守韓玄の配下。
偏将軍が太守の配下ってのも奇妙な人事だ。他に聞いたことが無い。
普通は偏将軍クラスなら、太守も兼任できるだろ?
そして、劉備に降伏。劉表や劉備が任命した中郎将や校尉クラスが大半の劉備軍では、
後漢の偏将軍だった黄忠は降伏即重鎮だったろうな。
- 18 :世界@名無史さん:2010/07/25(日) 23:37:07 0
- なるほどね〜
他にも太史慈とか新参でいきなり将軍クラスの扱いっているよね
もっと聞かせて
- 19 :世界@名無史さん:2010/07/25(日) 23:44:21 0
- >>18
自分で考察する選択肢はないん?
- 20 :世界@名無史さん:2010/07/26(月) 04:02:57 0
- >>17
中郎将行裨将軍じゃね。韓玄配下の時の肩書きは。
- 21 :世界@名無史さん:2010/07/26(月) 05:41:38 0
- 司馬イって何気に有能な人材を発掘してるね
- 22 :世界@名無史さん:2010/07/26(月) 18:16:32 0
- >>18
まとまった兵を率いて降伏するとか、勇名が高い武将とかなら、
新参でも即将軍クラスだよ。
- 23 :世界@名無史さん:2010/07/26(月) 19:29:22 0
- 益州入りの時の劉備は荊州で帰順した人材を主力にして、
古参の部下はみんな荊州で留守させてたけど、
どうしてそんなことしたんだろ?
新参の部下より、歴戦で信頼できる古参の部下を主力にした方がいいと思うんだが。
- 24 :世界@名無史さん:2010/07/26(月) 19:40:32 0
- 荊州を守らなきゃならないってのが一つと、
張魯討つために歴戦の主力連れてくと劉璋側が警戒
しちゃうからじゃないかな?
- 25 :世界@名無史さん:2010/07/26(月) 19:49:08 0
- 二線級の奴ばっか連れてきたら、逆に劉璋に「こいつ本当に張魯討つ気あんのか?」って思われね?
- 26 :世界@名無史さん:2010/07/26(月) 20:06:59 0
- >劉璋に「こいつ本当に張魯討つ気あんのか?」って思われね?
蜀書を読めば「二線級の奴ばっか」の対する劉璋側の反応はわかるでしょ。
- 27 :世界@名無史さん:2010/07/26(月) 20:19:48 0
- 多くが荊州の兵士で編制される軍を率いて遠く僻地ともいえる益州まで行く以上、
荊州出身者の将官を主力にした方が将兵共に相和すって考えもあったんじゃ?
兵士にしても遠くに行くなら同郷の将官が統率している方がいくらかは
安心できるんじゃないかな…と
入蜀した馮習や張南、勝g方や輔匡あたりも揃って荊州出身者ではあるし
- 28 :世界@名無史さん:2010/07/26(月) 20:25:32 0
- 劉備から見ると、荊州の人間の方が益州側に寝返る危険は少ない
- 29 :世界@名無史さん:2010/07/26(月) 21:34:40 0
- 確かに劉璋は?州に何かとちょっかい出してたし。益州で?州兵が謀反したところでメリットないだろうし
- 30 :世界@名無史さん:2010/07/26(月) 21:50:06 0
- 劉備本人が入ってることが圧倒的にデカい事実だろ
- 31 :世界@名無史さん:2010/07/26(月) 22:04:23 0
- 劉備軍に荊州兵以外の兵いるのか?
荊州出身者以外がいるのは、高級指揮官や幕僚の一部だけでは。
あと、益州には劉焉の代から荊州人が結構流れ込んでるぞ。
劉璋政権の有力者の多くや主力の東州兵は荊州人。
- 32 :世界@名無史さん:2010/07/27(火) 00:11:21 0
- 同郷意識の強かったあの時代では、我らの同胞が益州を救いに来たぞ!
みたいな感じだったのだろうか。
- 33 :世界@名無史さん:2010/07/27(火) 00:16:23 0
- 郷土を棄てて逃げた人と、残った人との軋轢とかもあるんじゃない。
- 34 :世界@名無史さん:2010/07/27(火) 16:07:14 0
- 霍峻は益州攻めの最大の功労者の一人なのに、なんで裨将軍にしかなれなかったの?
もともと中郎将なんだから、雑号将軍ぐらいにはなれてもおかしくないと思うんだけど。
- 35 :世界@名無史さん:2010/07/27(火) 17:02:41 0
- 裨将軍兼太守だから、功績に見合った待遇だと思うよ。
もう少し長生きしていたら当然さらに出世していただろう。
- 36 :世界@名無史さん:2010/07/27(火) 17:42:03 0
- 正史はどこまで信用できるのか?
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1189819472/l50
- 37 :世界@名無史さん:2010/07/27(火) 18:37:44 0
- 呉懿は中郎将だったけど、降伏して討逆将軍になったじゃん。
李厳は県令から護軍になって、降伏して裨将軍。益州平定後、ケン為太守兼興業将軍。
州牧が任命した中郎将や護軍が降伏しただけで将軍なれんのに、あれだけ活躍して裨将軍兼太守じゃなあ。
- 38 :世界@名無史さん:2010/07/27(火) 19:33:19 0
- つ『降伏』
- 39 :世界@名無史さん:2010/07/27(火) 22:13:44 0
- 于禁、楽進と徐晃、張遼、張コウの関係にも通じる。
- 40 :世界@名無史さん:2010/07/27(火) 22:19:33 0
- でも、于禁、楽進の方が、徐晃、張遼、張コウより出世早かったね。
- 41 :世界@名無史さん:2010/07/28(水) 09:13:33 0
- 楽進 漢の右将軍、1200戸
190年?軍仮司馬・陥陣都尉
197年 広昌亭侯
199年 討寇将軍
202年 行遊撃将軍
206年 折衝将軍
209年?仮節
215年 右将軍
218年 死去
于禁 魏の安遠将軍、(1200戸)
192年 軍仮司馬・陥陣都尉
195年?平虜将軍
197年 益寿亭侯
206年 虎威将軍
215年?仮節 左将軍
221年 安遠将軍
221年 死去
- 42 :世界@名無史さん:2010/07/28(水) 09:14:03 0
- 張遼 魏の前将軍、晋陽侯 2600戸
198年 中郎将 関内侯
200年 裨将軍
202年 行中堅将軍
206年 盪寇将軍
208年 都亭侯
209年?仮節
215年 征東将軍
220年 前将軍(魏王国)
220年 都郷侯
220年 晋陽侯
222年 死去(剛侯)
- 43 :世界@名無史さん:2010/07/28(水) 09:14:24 0
- 徐晃 魏の右将軍、陽平侯、3100戸
196年 裨将軍
200年 偏将軍
200年 都亭侯
207年?横野将軍
215年 平寇将軍
218年 仮節
220年 右将軍、??侯(魏王国)
220年 楊侯
220年 陽平侯
227年 死去
- 44 :世界@名無史さん:2010/07/28(水) 09:14:41 0
- 張? 魏の征西車騎将軍、特進、?侯、4300戸
200年 偏将軍、都亭侯
206年?平狄将軍
215年 盪寇将軍
220年 左将軍(魏王国)
220年 都郷侯
220年 ?侯
228年 特進
228年 征西車騎将軍
231年 死去
- 45 :世界@名無史さん:2010/07/28(水) 11:25:02 0
- こうして見ると司馬懿の2万戸とか破格にも程があるな。
最期は一族で5万戸食んでるし。
- 46 :世界@名無史さん:2010/07/28(水) 13:24:23 0
- >>40
降伏したら、譜代の最高クラスの武官と同等の地位を与えられるということ。
劉備軍で言えば関張に当たる。
>>41
楽進がなったのは討寇「校尉」。
于禁も平虜「校尉」。その後に偏裨将軍も経てる。
- 47 :世界@名無史さん:2010/07/28(水) 19:17:52 0
- >>46
そういや、関張と李厳や法正って、益州平定後は同じ将軍兼太守なんだな。
- 48 :世界@名無史さん:2010/07/28(水) 21:31:00 0
- >>41
楽進の右将軍って魏王国の右将軍なのか、漢王朝の右将軍なのか、どっちなんだろうね
- 49 :世界@名無史さん:2010/07/28(水) 21:32:42 0
- >>48
漢の右将軍なら、漢の伏波将軍夏侯惇よりはるかに地位が高いことになるが。
- 50 :世界@名無史さん:2010/07/28(水) 21:37:39 0
- >>49
そうだな
つまり41は間違いで魏王国の右将軍だな
- 51 :世界@名無史さん:2010/07/28(水) 22:05:03 0
- じゃあ張遼の征東将軍も魏王国なのか。
- 52 :世界@名無史さん:2010/07/28(水) 22:08:30 0
- 魏王国建国後で漢の将軍だったのは、夏侯惇を除けば元群雄とか漢の臣で名ばかりの将軍待遇の奴ぐらいでしょ?
あとは皆魏王国の将軍だったと思われる。
- 53 :世界@名無史さん:2010/07/28(水) 22:10:15 0
- 征東将軍とかはどうだろうな
魏王国内の東側だけ征するって範囲狭いだろ
こっちは漢の征東将軍なんじゃねえかな
- 54 :世界@名無史さん:2010/07/28(水) 23:08:05 0
- >>53
孫権の呉王国には征北将軍朱然、安東将軍徐盛、安南将軍呂岱、平北将軍潘璋がいたよ。
- 55 :世界@名無史さん:2010/07/28(水) 23:22:44 0
- >>54
元号も自分で作った呉なんだから「漢の征北将軍」などに部下を任命していてもまるで不思議はない
- 56 :世界@名無史さん:2010/07/28(水) 23:34:58 0
- >>55
いや、魏の藩国だった時点でなんだが。
- 57 :世界@名無史さん:2010/07/28(水) 23:37:54 0
- 夏侯淵の征西将軍はどうなんだろ。
黄忠が淵を討ち取った後、他の蜀将と比べても破格の征西将軍になったのは
夏侯淵の持っていた印綬をそのまま黄忠に与えたということかなと思っていたが
もし印綬が漢のものじゃなければ、ちょっと事情が違ってくるな。
- 58 :世界@名無史さん:2010/07/29(木) 19:36:23 0
- >>57
漢の征西将軍だと格が高過ぎるね。魏の征西将軍じゃないか?
黄忠が征西将軍になったのは、夏侯淵を討った褒賞だと思う。
当時、黄忠は討虜将軍。大司馬の劉備が黄忠をさらに昇進させようと思えば、
後漢時代最も格式の高かった雑号将軍の征西将軍ぐらいしかないだろうから。
- 59 :世界@名無史さん:2010/08/02(月) 22:59:51 0
- 黄忠は死ぬときは軍人ではベスト3位にはいってるよね?
- 60 :世界@名無史さん:2010/08/02(月) 23:09:10 0
- >>59
まあ、関羽が死んでたからね。上には仮節・左将軍の馬超と仮節・右将軍の張飛しかいなかったから。
- 61 :世界@名無史さん:2010/08/03(火) 04:20:09 0
- 馬超と張飛も同時期に死んでるけど
トップはギエンになったの?
- 62 :世界@名無史さん:2010/08/03(火) 04:55:12 0
- >>61
夷陵では領軍の馮習が全軍を統括してるから、馮習がトップっぽいけどな。
主力軍数万を統括するなんて、蜀では軍のトップ以外にありえない。
張飛が生きてたら、多分この役割は張飛がやってただろうね。
魏延はライ降都督勝g方と同じく、あくまで地方の司令官だな。
- 63 :世界@名無史さん:2010/08/03(火) 05:15:16 0
- 馮習も夷陵で死んだようだし
ほんとうに人材不足の感じだね
- 64 :世界@名無史さん:2010/08/03(火) 14:54:29 0
- 夷陵の責任者は劉備だし、
張飛が生きてたとして馮習と同じ役割をしたとは思わないし、
黄権の方が馮習より上だと思う。
漢中戦に加わらなかった関羽は「あくまで地方の司令官」か。
それは違うし、
魏延は漢中の守りをしていたから夷陵に加わらなかった。
- 65 :世界@名無史さん:2010/08/03(火) 21:59:31 0
- >>64
でもね、諸軍を統括したのは馮習という記述が確かにあり、
陸遜伝では「大督」とまで言われてるのだよ。
実質、東征の副司令官格だったんじゃないのかな?
別軍を率いて魏に備えていた黄権より格下ってことはないだろ。
関羽は劉備が領する二州のうちの一州の全権を任された別格の存在。
一州の中の一地方の軍権を握ってたにすぎない魏延や勝g方と同列には語れない。
で、君の説だと張飛・馬超死後の軍のトップは誰?
- 66 :世界@名無史さん:2010/08/03(火) 23:38:30 0
- 当時の蜀で最も格式高い将軍号持ってるのは輔漢将軍の李厳だから、
李厳が軍のトップと言うことで手を打たないか?
- 68 :世界@名無史さん:2010/08/04(水) 15:57:25 0
- >別軍を率いて魏に備えていた黄権より格下ってことはないだろ。
いや、別軍を率いるってのは高官の証明だろ。
劉ショウを征伐した時の「軍のトップ」は誰?
劉備の元にいた誰よりも、別軍を率いた張飛の方が上だろ。
>関羽は劉備が領する二州のうちの一州の全権を任された別格の存在。
>一州の中の一地方の軍権を握ってたにすぎない魏延や勝g方と同列には語れない。
晋代に漢中は梁州となり、南中は寧州になった。一地方というレベルではない。
それに、一地方の司令官に過ぎないから、諸軍の統括者より下位であるとする根拠がない。
魏で七軍を督した趙ゲンは「軍のトップ」か?
>張飛が生きてたら、多分この役割は張飛がやってただろうね。
そもそもこれが間違ってる。
- 69 :世界@名無史さん:2010/08/04(水) 18:26:50 0
- >>68
横から失礼するけど、
>>一地方の司令官に過ぎないから、諸軍の統括者より下位であるとする根拠がない。
は分かるが、
>>晋代に漢中は梁州となり、南中は寧州になった。一地方というレベルではない。
これは同時代ではあまり関係ないだろう。
州に分割されるポテンシャルがあるにしても、
片方は人民移動させられて空っぽだったのを前線拠点に、南中は異民族からの搾取最前線。
二勢力との隣接地点で異民族も抱える荊州とは重要度がダンチだし、同列に語れない、はまあいいと思うんだが。
勝g方は正直事績が分からないから、どうとも言えないんだが、
当時の漢中はすっからかんになった後な上に、恐らく軍事拠点として改造された後だから、
魏延は一段落ちる気がするなあ。
- 70 :世界@名無史さん:2010/08/04(水) 19:38:10 0
- 漢中の重要性は蜀書で繰り返し述べられてるでしょ。
「すっからかん」とか「軍事拠点として改造」とかが「一段落ちる」というのは意味がわからない。
- 71 :世界@名無史さん:2010/08/04(水) 20:28:13 0
- >>70
軍事上の重要性、という点ではそうなんだけどね。
そこではなく、民力、農耕、そういった点も含めての統括者じゃないっしょ、この時点での魏延は。
その点で、荊州に比べると一段落ちるかと。
もちろん、関羽の場合も行政担当は潘濬などのように別にもいたわけだけど、
それとは別に統治上の格の問題ね。
俺は単に漢中と荊州の重要性には差がある、ということを言いたいだけで、
漢中が重要ではない、という意見を出したわけではないよ。
- 72 :世界@名無史さん:2010/08/04(水) 22:45:21 0
- で、議論が横道に逸れまくってるが、結局馬超と張飛死後の蜀の軍部のトップは誰なのよ?
夷陵の主力の指揮官の領軍馮習?魏に備えていた鎮北将軍黄権?漢中を守っていた鎮北将軍魏延?
蜀では四鎮や四方以上の格を持つ輔漢将軍李厳?
- 73 :世界@名無史さん:2010/08/04(水) 23:19:58 0
- >>72
仮節、司隷校尉、丞相の諸葛亮だと思うけど
- 74 :世界@名無史さん:2010/08/04(水) 23:49:28 0
- >>73
仮節で丞相なら、馬超や張飛が生きてようが、諸葛亮が軍のトップなんだろうが、
入蜀時の別軍指揮以外、軍事経験に乏しい諸葛亮に劉備はなぜ仮節と言う軍事指揮権を与え、
軍のトップに据えたのだろうか?
- 75 :世界@名無史さん:2010/08/05(木) 14:16:48 0
- >>74
才能と実績でしょ
入蜀時の別軍の総指揮官としての功績は大きい
- 76 :世界@名無史さん:2010/08/05(木) 22:16:59 0
- 陸遜は偏将軍→宜都太守・撫辺将軍・華亭侯→右護軍・鎮西将軍・婁侯と、
顕職を歴任してきて侯にまで封じられたのに、なぜ鎮西将軍になった後にようやく茂才に推挙されたのでしょうか?
大豪族出身で県令や太守を歴任した人物が、茂才や孝廉になっていなかったというのは不思議な気がするのですが。
- 77 :世界@名無史さん:2010/08/06(金) 06:14:50 0
- >>76
単純に地元の実力者で兄貴は孫家に殺されてるし
あまり力を付けさせたくなかったからかと
- 78 :世界@名無史さん:2010/08/06(金) 18:47:54 0
- 茂才は州刺史の推薦だっけ?
その頃まで、孫権陣営に揚州刺史がいなかったんじゃないの?
>>77
兄貴なんていたっけ?
- 79 :世界@名無史さん:2010/08/06(金) 21:38:13 0
- >>77
記録に残っている兄はいない。陸遜は字が伯言だから、おそらくは長男と思われる。
>>78
揚州牧の呂範の別駕ということにして、呂範に推挙させたんじゃなかったかな?
- 80 :世界@名無史さん:2010/08/07(土) 07:56:34 0
- 魏、蜀、呉で皇帝についたとき配下の地位を改めて定めてたよね。
大将軍とか司空とか色々。
袁術が皇帝についたときに定めた配下の地位とかは文献残ってるの?
特に文官。その時に重職についてた者って、その後も活躍とかした?
- 81 :世界@名無史さん:2010/08/07(土) 21:49:59 0
- >>80
陳国の相袁嗣や九江太守孫賁、沛国の相舒仲応、征南将軍孫香、長史楊弘など。
あと就任者は明らかではないが、淮南尹を任命している。
- 82 :世界@名無史さん:2010/08/07(土) 22:11:02 0
- >>77
叔父の陸康の勘違いではないか?ただ、もしかしたらそれで遠ざけたかも
しれない。親子で対立している君主に使え、互いに殺し合った陳紀、陳羣
父子とはまた違うからな。
>>79
確かに陸遜そのものは長男だった。陸康の息子陸績がいたから、勘違い
したのかもしれない。
- 83 :世界@名無史さん:2010/08/07(土) 22:18:05 0
- >>82
陳羣の父の陳紀と、袁術に仕えた陳紀は別人だよ。
陳紀・陳羣親子は頴川出身。袁術の九江太守陳紀は丹楊の人。
- 84 :世界@名無史さん:2010/08/08(日) 00:20:55 0
- 陸績も孫陣営だろ。
- 85 :世界@名無史さん:2010/08/08(日) 01:31:16 0
- 満寵ってかなりの長生きじゃない?
- 86 :世界@名無史さん:2010/08/08(日) 07:14:55 0
- >>72
東征では、馮習は呉班と共に先鋒を務めている。
どうも全軍の総司令官という訳ではないようだ。
全軍と主力軍のトップはあくまでも劉備の直卒で、
先鋒隊の総司令官というのが実態ではないだろうか?
総司令官が先鋒にはならないし、劉備のそばにいたなら、
そもそも戦死もしなかったはず。おそらく、長く伸びきった
陣営になった為、陸遜の劉備本営への直接攻撃で中央隊が
壊走、前方に取り残された部隊が殲滅されたのだろう。蜀軍の
将官クラスの戦死者の多くは、前衛と中央隊の殿だったと思われる。
緒戦で呉班と共に前方に出ていたことを考えると、劉備の傍らで
総司令としていたというよりも、先鋒部隊の総司令官と考えるのが
妥当だろう。
- 87 :世界@名無史さん:2010/08/08(日) 10:58:16 0
- 『季漢輔臣賛』で馮習が批判されたのは、
直接劉備を批判できないからでないの?
呉も自分達の戦果を宣伝するには、馮習は全体の指揮して
たみたいに言うほうが格好いいし。俺も先鋒隊の指揮官だった
という解釈に一票。実際は後方で劉備が直接指揮してたと思う。
- 88 :世界@名無史さん:2010/08/08(日) 19:20:28 0
- 呂岱って40歳頃になって初めて仕官して県丞になるけどさ。
それまでいったい何やってたの?20代の頃は黄巾の乱や反董卓連合軍。
30代の頃は群雄割拠に袁術・孫策の侵攻と揚州は揺れに揺れて、
呂岱ほどの人物ならいくらでも世に出る機会はあったと思うんだけど。
80過ぎてからの出世スピードが異常だから、陳寿が呂岱の年を20歳ぐらい書き間違えたかのかも知らんと思うわ。
それぐらい呂岱の前半生の何もしてないぶりと、ジジイになってからの八面六臂ぶりのギャップは異常。
- 89 :世界@名無史さん:2010/08/08(日) 19:24:33 0
- >>85
満寵は世に出たのが早かったから、長生きしたように感じるだけだよ。
活動期間50年以上という人物はこの時代はごくまれにいる。
- 90 :世界@名無史さん:2010/08/08(日) 19:34:14 0
- >>86
陸遜伝では馮習が大督、張南が前部となっているから、
先鋒部隊の総司令官は張南じゃないの?
あと、馮習は開戦当初は先鋒だったけど、
劉備軍が数十もの陣営を連ねてからは諸軍の統括の任にあたっているから、
途中で役割が変わったのでは?全軍の指揮権を得たのではなくて、監軍みたいな役割だったと思う。
敵を軽んじたと酷評されたのも、諸将を引き締める事が出来なかったからでは?
- 91 :世界@名無史さん:2010/08/08(日) 19:46:11 0
- >>88
>80過ぎてからの出世スピードが異常だから
それは単に他の連中が死にまくったおかげだと思うが。
呂岱は軍人として出世していくので、世代的には二張と変わらないけど
若い頃の名士としてのエピソードがないのが前半生で何もしてない印象なんじゃない?
でも161年生まれで、若い頃は広陵の郡・県の役人で、
194年くらいに劉備と袁術の争いで広陵が戦場になった時に江南に渡ったんなら
それほどおかしくもないような。
個人的にも年齢間違ってる可能性はあると思うけど、それは前半生が不明だからじゃなくて
息子の存在かな。
息子が副軍校尉になって老齢の親父をサポートしてるけど、息子も結構な歳だろ、とw
もし呂岱がホントにあの年齢なら、息子はもっと早くに仕官してそうなものだし。
- 92 :世界@名無史さん:2010/08/08(日) 20:01:23 0
- 呂岱が江南に渡ったのが趙序宸ェ殺されて広陵が混乱した193年頃から、
劉備と袁術の戦場になる194年頃の間なら、
孫策か劉ヨウに従っててもおかしくないと思うんだが、
そうしなかったって事は、単に避難してただけなのかな?
それがなんで孫権の時代になっていきなり出仕したのか?
しかも最初の官位が普通名士はやらない県丞だから、
呂岱は名士ではないが、郡県の役人をやる程度の家柄の人だったのかもな。
- 93 :世界@名無史さん:2010/08/09(月) 19:38:53 0
- 曹操の華北討伐の頃に并州刺史になって、文武に多大な功績を挙げた梁習が、
爵位とわずかな食邑を得ただけで20年以上昇進できず、
曹叡の代になってようやく大司農に昇進できたのはなぜ?
- 94 :世界@名無史さん:2010/08/09(月) 20:16:25 0
- あの土地を調整出来そうな人材が他にいなかったから
- 95 :世界@名無史さん:2010/08/09(月) 20:21:58 0
- それならせめてそれなりに高位の将軍号を加官するとかしても良かったと思うんだけどね。
- 96 :世界@名無史さん:2010/08/09(月) 20:40:42 0
- >>95
爵位と食邑を得ているだけでも十分すぎる昇進
あの時期だと刺史と高位の将軍を兼ねているなんてのは曹休のように皇帝の親族のような特別な存在
どんなに功績があっても一官僚には望むべくもない
- 97 :世界@名無史さん:2010/08/09(月) 21:42:45 0
- 高位の将軍じゃなくても、普通の将軍くらいにはしてやっても良かった気がする。
梁習は武功も多いし、刺史や太守で普通の将軍を加えられてるのは結構いたから。
普通の将軍+刺史となると、九卿か四征四鎮将軍に次ぐ地位だから、
せめてそこまでは引き上げてやっても良かったんじゃないかと。
ずっとただの刺史ってのは功績に見合った待遇では無いような。
- 98 :世界@名無史さん:2010/08/09(月) 21:55:35 0
- 出世だけが人生じゃないさ
- 99 :世界@名無史さん:2010/08/09(月) 22:46:07 0
- 本当に見合ってないのなら「もうちょっと何かしてあげれば?」って進言が周りからあってもよさそうだけどね。
それが有ったという記述もないし、本人が不満だったという記述もない。
- 100 :世界@名無史さん:2010/08/09(月) 23:33:33 0
- >>99
田豫と牽招に関しては、陳寿が「働きと官位が見合っていない」と評で書いてるけど、
伝記の中にはそんな事書いてないから、
梁習の場合もそう言う進言や本人の不満があったとしても、
伝記に記録すべきこととして陳寿が採用しなかったかもしれない。
だから、あったとも無かったとも言えない。
しかし、最終的には刺史から一足飛びに九卿になれたんだから、
まあ悪くない人生のゴールでは無いと思う。
これ以上は三公しか無いからな。
- 101 :世界@名無史さん:2010/08/10(火) 00:17:25 0
- >>94
田豫とか牽招とかなら務まったんじゃね?
- 103 :世界@名無史さん:2010/08/10(火) 22:10:58 0
- >>101
そう言えば、田豫も牽招も曹操時代からの古参で、并州で活動した人間なのに、
なぜ田豫は振威将軍・并州刺史・使持節・護匈奴中郎将を経て衛尉、
牽招は右中郎将兼雁門太守までしかなれなかったんかね。
田豫は鎮北将軍、牽招は并州刺史ぐらいにまでなってもおかしくない実績と思うんだが。
并州で働いたら、出世コースから外れてしまうんかね?
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