ルーマニアと東ローマ

 最近の世界史板@2ちゃんねるの100越えスレッド。秀>優>良>並>可>駄、というのが目安です。
 元スレッド。
ルーマニアと東ローマ
 あまりよく知らないけど、なんとなく面白いぜ。優。

1 :世界@名無史さん:2010/09/13(月) 04:06:38 0
何で東ローマ領にならなかったルーマニアが正教なの?

というか何気にルーマニアてかろうじてだけど
オスマン帝国の領土化をまぬがれた唯一の正教圏じゃね
それってすごくね?

2 :世界@名無史さん:2010/09/13(月) 04:11:09 0
ルーマニアというかワラキア、モラヴィアな。
あそこはヴラドツェペシュが有名だけど
それ以外にもオスマン帝国に抵抗していた勇士が大勢いる。

3 :世界@名無史さん:2010/09/13(月) 04:16:58 0
近代に入ってスラブ系の単語を浄化したとはいえ
よくラテン系の言葉を話す民族が生き残っていたな。
ブルガリア、ペチェネグ、クマンといった異民族の支配下
あり続けたのに

4 :世界@名無史さん:2010/09/13(月) 04:29:16 0
元々ルーマニアは古代のローマによって
キリスト教がもたらされていた。
そしてそれから以後ローマカトリックに鞍替えせずに
正教を進行し続けた
ということだ

ルーマニアに居座ったクマン族が正教を進行するようになったかどうかは知らない

5 :世界@名無史さん:2010/09/13(月) 04:44:14 0
第2ブルガリアイヴァン・アセンはヴラフ人だったんだとよ

6 :世界@名無史さん:2010/09/13(月) 04:52:09 0
>>1
オスマン帝国からの派遣役人ファナリオティス支配下だったけどな


7 :世界@名無史さん:2010/09/13(月) 05:09:35 0
>>5
だからか第二ブルガリア帝国の反乱にはブラフ人とクマン人が
大勢加わったんだってな

8 :世界@名無史さん:2010/09/13(月) 05:24:25 0
ドナウから南の山岳に住み着いたブラフ人は
アヴァールやペチェネグとの衝突を嫌って南下したルーマニア

9 :世界@名無史さん:2010/09/13(月) 05:33:01 0
ブルガリアによって荒廃した所をついて南下していった
連中もいる

10 :世界@名無史さん:2010/09/13(月) 08:38:11 0
バルカン半島にいたヴラフ人が北上して
ワラキアやモルダヴィアを建国したんじゃないの?

11 :世界@名無史さん:2010/09/13(月) 22:09:51 0
遊蕩児カロル国王陛下万歳

12 :世界@名無史さん:2010/09/13(月) 22:12:27 0
ミハイ国王陛下万歳

アントネスク逝ってよし

13 :世界@名無史さん:2010/09/13(月) 22:39:07 0
ヨハネス2世が滅ぼしたペチェネグ族の軍にはルーマニア人もいた。

14 :世界@名無史さん:2010/09/13(月) 22:45:58 0
ローマがダキアを捨てて以後
ドナウ川の北がローマ領になったことなどない

クマン族のように今のルーマニアに住み着いた民族が
分裂以降の東ローマと敵対したとかで文献に出てくることはあっても
被支配層のブラフ人が文献や年代記に出てくることはあまりない。

ルーマニアよりハンガリーのほうがよほどバルカンに関係している国だ。

15 :世界@名無史さん:2010/09/13(月) 22:49:38 0
ハンガリーバルカン半島の一部とみなされなかったのは
オーストリアの一部になってカトリックだったからだ

よかったなハンガリー

16 :世界@名無史さん:2010/09/13(月) 23:02:23 0
ルーマニアジプシーの話題は厳禁である

17 :世界@名無史さん:2010/09/13(月) 23:20:31 0
周辺にスラヴ語民族が多く、
教会(現在のルーマニア正教会)の典礼言語が
かつては教会スラヴ語であったことから、
スラヴ語の影響を極めて多く受けた。
語彙にスラヴ語の影響が多く20%がスラヴ語からの借用である。
十九世紀以前の記録はキリル文字で書かれている。

教会スラブ語をブラフ語に翻訳できていれば
近代にスラブ語の単語を消滅させるという事態にならなかったのでは

18 :17:2010/09/13(月) 23:26:19 0
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%82%A2%E8%AA%9E

ここから



19 :世界@名無史さん:2010/09/14(火) 01:19:34 0
スヴャトスラフが南下してブルガリアを攻撃したときも
オグズトルコがドナウを超えてマケドニアに侵攻してきたときも(なんと30万と記されている)

通り道になったであろうルーマニアのことは年代記にはまったく出てこない


20 :世界@名無史さん:2010/09/14(火) 01:25:05 0
>>19
記す必要があるか?

21 :世界@名無史さん:2010/09/14(火) 02:32:39 0
ルーマニアにいたブラフ人が東ローマを攻撃したという記録ある?

22 :世界@名無史さん:2010/09/14(火) 03:48:02 0
4 :世界@名無史さん:2010/09/13(月) 04:41:01 0
一次大戦で一番弱体をさらしたのはルーマニア


5 :世界@名無史さん:2010/09/13(月) 10:02:11 0
>>4
それでも戦勝国で広大な領土を獲得だものなぁ


23 :世界@名無史さん:2010/09/14(火) 14:50:30 0
>>19
ビザンツ史とか読んでると
ドナウ川から北はクマン族とかの土地みたいな感じだよなあ

ドミニコ会が「クマニア司教区」を設立しようとしたのも
たしかワラキアのあたりだった

25 :世界@名無史さん:2010/09/14(火) 17:50:18 0
おそらく異教の民族が長い間支配していたのに
よくロマンス語系のキリスト教民族が生き残っていたもんだ

26 :世界@名無史さん:2010/09/14(火) 19:24:36 0
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NHK BShi 9月25日(土) 午後8:00〜9:30
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ブルガリアの各地には今も、未発掘の王家の墳墓群や神殿跡が数多く残っている。ブルガリアの考古学者ディアナ・ゲルゴヴァさんは、今年7月新
たな墳丘の発掘調査に入る。表土の下を掘り進めたとき、数千年の時空を超えて、はたしてどんなものが現れるのか?そのスリリングな瞬間をドキュ
メントし、地中海文明興亡の歴史の裏側で活躍したトラキア民族の実態を掘り起こす。

27 :世界@名無史さん:2010/09/14(火) 19:36:55 0
>>25
平地をスラヴ人に占領されたから。
山岳地帯で移牧民として生きるほかなかった

28 :世界@名無史さん:2010/09/14(火) 20:47:59 0
アナトリアの特権階級が治めていた東帝国の文献に
バルカンに住み着いたブラフ人の事が書かれていないのは
仕方ないことだ。

アナトリアの大名どもなんてのはなバルカンのことなんてしったこっちゃねー
と思ってるんだよ。


29 :世界@名無史さん:2010/09/14(火) 20:52:15 0
ブルガリアのシメオンに敗戦してたのはフォカスだったか。
カッパドキアが本拠地の。
そいつが失敗していくのを他のアナトリアの貴人は「ざまみろ
の目で見ていただろうよ。

そしてタウロス山脈の向こう側のアラブ人太守が次々
バグダットのカリフから離反して独立していく様を羨望のまなざし
見ていたことだろう

31 :世界@名無史さん:2010/09/15(水) 02:18:23 0
タウロス山脈付近でクルクアネスがアラブと戦争してた頃
ルーマニアではヴラフ人が羊と共に遊牧していた
トラキア人が住んでた頃から遊牧は盛んだったらしい

32 :世界@名無史さん:2010/09/15(水) 03:00:59 0
>>1
ウクライナやロシアやグルジアとかもおなじだろ

33 :32:2010/09/15(水) 03:11:21 0

>>1
ウクライナやロシアやグルジアもオーソドックスだろ

まあでも確かにルーマニアのように
国家建設が遅れた国がオーソドックスというのも興味深い

34 :世界@名無史さん:2010/09/15(水) 09:27:34 0
自らの国や王の事績、または回想録を残すような知識人は
13世紀ぐらいまで、ルーマニアには存在しなかったんだな。
皮肉にも、モンゴル襲来がなければ国家形成はもっと遅れていたかもしれん

35 :世界@名無史さん:2010/09/15(水) 10:14:44 0
>>6
オスマン帝国は東ローマの継承国だしな。

36 :世界@名無史さん:2010/09/15(水) 11:16:27 0
ヴラフ人どもはスラブ語で書かれた経典を理解することは
ほとんどできなかったという。

37 :世界@名無史さん:2010/09/15(水) 21:20:34 0
>>36
ギリシャ語は?

38 :世界@名無史さん:2010/09/15(水) 21:51:55 0
>>36

当たり前だ

39 :世界@名無史さん:2010/09/16(木) 02:17:16 0
当のスラブ人でもメフォディとキリルの訳したキリル経典を理解することは殆ど不可能だったが

40 :世界@名無史さん:2010/09/16(木) 02:26:11 0
書いてる意味がわかんなーい

わかんのはスラブのごく少数のインテリぐらーい

だけど中世なんてどこもそんなもーん

41 :世界@名無史さん:2010/09/16(木) 19:52:13 0
無政府状態のワラキアにどこまできりすときょうが広まっていたか疑問

42 :世界@名無史さん:2010/09/17(金) 07:27:36 0
レオン・フォカス
コンスタンティノープルが落ちてもカエサリアがあるからいいか

44 :世界@名無史さん:2010/09/18(土) 03:52:51 0
葬式で読経されても参列者のほとんどが内容を理解できない日本は
中世並みだな。

45 :世界@名無史さん:2010/09/18(土) 08:27:29 0
彼(テオフィロス)は皇帝にルーシと名乗る民族を使いに出してきた。
彼が言うには、この者たちの帰路には獰猛な蛮族がはびこっているため
帝国領内を通らせてほしいということだった。


そのあとこのルーシ人がスウェーデン人ということがわかり
ちょっとした問題になった。(まだヴァイキングの記憶が生々しい時代)

46 :世界@名無史さん:2010/09/18(土) 10:53:23 0
スウェーデンヴァイキングてあまりイメージないな

47 :世界@名無史さん:2010/09/18(土) 14:30:03 0
え?
スヴェーアは?
ノルマン、ルーシ、ゴート、スヴェーアあたりがヴァイキングの有名どこじゃんよー

48 :世界@名無史さん:2010/09/18(土) 15:47:00 0
ゴートはヴァイキングじゃなくね

49 :世界@名無史さん:2010/09/18(土) 16:41:48 0
>>45
それ神聖ローマ皇帝への使者だっけ?
たしかルーシの君主が「可汗」と呼ばれてる史料だよね

50 :世界@名無史さん:2010/09/18(土) 17:10:27 0
>>46
スカンディナビアは蛮族の原住地

51 :世界@名無史さん:2010/09/19(日) 01:33:06 0
ノルウェーデンマークよりも、陸上での活動が多いように思う。
おもな活動地はロシア方面〜コーカサスだからかも知れんが
海賊というか陸賊

52 :世界@名無史さん:2010/09/19(日) 01:36:29 0
たまにエストニア人の海賊に襲われる事があったスウェーデン

53 :世界@名無史さん:2010/09/19(日) 06:25:11 0
イサキオス・コムネノスは文官の専横に怒り、首都に向けて兵をあげた
不滅隊、ヴァリャーグ、ドイツ傭兵の三部隊が守備する要害に攻めよせた。
イサキオスはどの部隊が守る所から攻めるのが良いかをドゥーカス一族の者に聞いてみた。

その者は「不滅隊は現地出身だから難しい、ヴァリャーグは忠誠心が厚いからこれも難しい
ただ一つドイツ傭兵だったら交渉でなんとかなるかもしれない」と答えた。
その忠告通り、イサキオスはドイツ傭兵のギルブレヒトと交渉し、その要害を突破した。

54 :世界@名無史さん:2010/09/19(日) 06:26:41 0
不滅隊はこれ以後文献に現れなくなるので
解散したのかもしれない。

55 :世界@名無史さん:2010/09/19(日) 07:07:56 0
帝位についたイサキオス・コムネノスは改革を断行しようとしたが
アナトリアの田舎者に対する首都の文官貴族の反発は根強く。
彼の改革の必要性はついに同時代の人間からは理解されずに終わった。


56 :世界@名無史さん:2010/09/19(日) 13:31:23 0
セルジュークからの防波堤となっていた
アルメニア王国を滅ぼしたのは
後から考えれば実に失敗だった

57 :世界@名無史さん:2010/09/19(日) 14:06:56 0
さらにその後アルメニア人とグルジア人の軍団を解散させて
アルメニア、東部アナトリアの警備をガラ空きにしちゃうもんだから

58 :世界@名無史さん:2010/09/19(日) 14:41:37 0
>>54
不滅隊は明らかに古代ペルシャを習ってつけられた名前だな

59 :エビちゃん親衛隊:2010/09/19(日) 17:05:36 0
>>1
単に地理的に近いからそうなったんでしょ。
西欧はローマの支配下になかった地域もプロテスタントが出来るまでは
カトリックだった訳だし。
ワレキアは結局頑張ったけど、最後はブルガール、セルビア同様トルコの支配下に入っただろ。
オスマン帝国クリミア半島バルカン半島全域を支配下に置いていたはずだが。

60 :世界@名無史さん:2010/09/20(月) 04:34:26 0
トルコの支配下といっても
間接的なもの

61 :世界@名無史さん:2010/09/20(月) 04:38:37 0
一次大戦と二次大戦のルーマニア軍がもろすぎる

冗談抜きでイタリア軍のほうがまだ戦意がある

62 :世界@名無史さん:2010/09/21(火) 00:46:00 O
>>60
ファナリオット

63 :世界@名無史さん:2010/09/21(火) 03:56:11 0
>>62
だから間接的なものだろ


64 :世界@名無史さん:2010/09/21(火) 04:18:22 0
コンスタンティノープルを取り戻したミカエル8世は
十字軍国家にとどめを刺すべく
コンスタンティノス・パレオロゴスに兵を授け、アカイア公国に出兵した
アカイア公国の兵力が自分たちよりはるかに少ないことをしった
東ローマ軍は油断をして夜に宴会を開いた(と記録にある、古代オリンピア
近くの谷間だった)そこをアカイアに奇襲され大敗した。



65 :世界@名無史さん:2010/09/21(火) 04:27:52 0
東ローマは1263年に、もう一度アカイアに出兵するが
もたもアカイアに敗北した。
ペロポネソスの統合は遅れることになる。

66 :世界@名無史さん:2010/09/21(火) 04:42:50 0
1273年
東ローマはテッサリア君主国にも攻めよせ、
首都のネオパテラスを包囲した。

だがヨハネス1世は変装して脱出に成功し、
テーベに向かい、アテネ公国と同盟を結ぶことに成功し、
500人ほどの兵士共にテッサリアに戻った。

その頃東ローマ軍は他の砦に支隊を送っていて本体の兵力は激減していた。
本体の野営を発見したヨハネスは急襲を行い、本体を壊滅させた。
将軍の部隊が壊滅したことを知った支隊もすぐに逃げ去り、
テッサリアは東ローマの攻撃を退けることに成功した。

67 :世界@名無史さん:2010/09/21(火) 04:51:03 0
ミカエル8世は、ブルガリアの農民であるイヴァイロとの戦いにも敗北し、
あやうくトラキアを失いかけた。
ラテン帝国はなくなったが、他のライバル勢力はまだまだ健在だった。

68 :世界@名無史さん:2010/09/21(火) 13:24:14 0
そして結局アカイアやアテネは最後までつぶせませんでしたとさ
この地のフランス人はしぶとい

69 :世界@名無史さん:2010/09/21(火) 16:58:18 0
本国は百年戦争で火の車

70 :世界@名無史さん:2010/09/21(火) 17:07:41 0
>>67
そしてアナトリアも失うという

71 :世界@名無史さん:2010/09/21(火) 17:31:01 0
    ,,-―――――-、
    ,r´          `\
    | ,.-''" ̄ ̄ ̄ `"''-,,  .ヽ
    |./           ',   ',
    /-      -     i   .|   ←アレクシオス1世
    /⌒ヽ    /⌒     .|   |
   ,'  _ `  ´  _     |  .| ドナウブルガールは悪の帝国と戦っていた
   |.ノ-・、.〉 ,  /-・ヽ    .|/,⌒i
   |  ̄./     ̄       .>ノ.|  正義の国家なんやで!
    .',  .|   -、       .、_ノ  
    ヽ  `¨i⌒´      / / .| ブルガリアと関係が深いわしらが皇帝になったということは
    .|ヽ,ヽlエlエlアヽ /   /  |  
    .ヽ、 .ヾ二ノ    /   .|  ブルガリアが東ローマを乗っ取ったということや 
      i\  ‐    ./ /  |
      | ヽ___,/  ,'   .| 十字軍を呼んだぐらいでごちゃごちゃぬかすな!!
       ,, -''"´ ̄ ̄`"''- 、
     /           \
    /   /レリ(( ̄ ̄ ̄\  \
    /   .|     ―   .\  ミ、
   ,'   ,'  ⌒ヽ     '⌒ヽ/  ←ヨハネス2世
   |   / (       ,     ノ
   |  ,'  `ー・二ヽ. , 〈 r・二ー'ヽ
   i'^ヽ|     _ノ   '、ヽ_  〉 gayreekはバシターを見習え(笑)
   ',( {|\      (c、,ィ)    /
    .`r‐|        ,.へへ、 .イ ホンマバシターは民族の誇りやで(笑)
    'リl\   、_∠ィ'lエlュ.レ /
     |  \   ヽ\ェェン/ /    まずはバシターを見習ってgayreek国旗を燃やさんかい!
     |   \.  `ー‐'´/     
     .|\ '、 . \____/|
  _,, -く  `"''ー――――''|- ,,_
     \          ,ノ

72 :世界@名無史さん:2010/09/21(火) 19:54:17 0
>>68
結局オスマン領土となるから
ノルマンコンクエストならぬ
フレンチコンクエスは成立しなかったな

73 :世界@名無史さん:2010/09/21(火) 20:01:02 0
フルチンマンクエスト?

74 :世界@名無史さん:2010/09/21(火) 22:11:40 0
アテネ公国は結局カタルーニャ傭兵団に滅ぼされたね

75 :世界@名無史さん:2010/09/22(水) 07:03:18 0
アカイア公国は最後のほうはイタリア人になってるな
国外では、婚姻とか制服とかで外国人が支配者に収まるということは
珍しくないがな

76 :世界@名無史さん:2010/09/22(水) 07:36:42 0
現地の貴族の女性と婚姻を結ぶ際に相手に制服の着用を強要する外来の征服者とな……ごくり

77 :世界@名無史さん:2010/09/22(水) 08:33:56 0
俺ならレオタードの着用を強制する

78 :世界@名無史さん:2010/09/22(水) 15:36:03 0
ヴラフやアルバニアが反乱を起こしたという話は聞かないな。
スラブの反乱なんて山ほどあるのに

79 :世界@名無史さん:2010/09/23(木) 02:35:03 0
>ヴラフやアルバニアが反乱を起こしたという話は聞かないな。

第二次ブルガリア帝国を建てたペタルとアセンは?

80 :世界@名無史さん:2010/09/23(木) 07:27:26 0
あ、そうかそいつらはブラフ人だったな

81 :世界@名無史さん:2010/09/23(木) 18:01:29 0
ルーマニアを見てると
スポーツじゃなくて科学や工業発展に力を入れればいいのにと
思えてくる。
スポーツを否定しないが、あれはあくまでもサブカルチャーだろ

82 :世界@名無史さん:2010/09/23(木) 18:15:30 0
どうも、共産主義政権の時に
スポーツで有名人を出そうという
スローガンがあったらしい

83 :世界@名無史さん:2010/09/23(木) 19:10:29 0
>>77あたりから
コマネチムード

84 :世界@名無史さん:2010/09/24(金) 12:22:41 O
ルーマニアはモンゴル系のアヴァール人の支配下にあった時期が長くあった。

85 :世界@名無史さん:2010/09/24(金) 16:17:46 0
それ以降も異民族の支配だったな
ワラキアとトランシルバニアの最後の支配者は
ハンガリー王国だったか

86 :世界@名無史さん:2010/09/24(金) 20:54:22 0
一次大戦と二次大戦の間にハンガリーをレイプしたのが
近代ルーマニアの輝きか。

87 :ヨハネ:2010/09/25(土) 08:50:10 0
ベロイアでの戦いで負けたペチェネグ族は
小高い山で荷馬車を倒して砦を築いた。
東ローマ軍は何度もその砦を攻撃したが、
いずれも矢を浴びせられて失敗した。
皇帝は今度はヴァリャーグに攻略を命じた。
ヴァリャーグは砦の破壊に成功し、そのご全軍の攻勢により、
ペチェネグ族は滅亡した。

サーガではヨハネスはキリアラックスと書かれているが、
これは彼の父のアレクシオスのことで
ヨハネスは彼の父と混同されたためである。

88 :世界@名無史さん:2010/09/26(日) 08:54:09 0
ちなみにキリアとは陛下という意味

89 :世界@名無史さん:2010/09/26(日) 17:08:35 0
サーガてヴァイキングのサーガか?

90 :世界@名無史さん:2010/09/26(日) 17:11:06 0
>>87
ヴァリャーグの戦闘記録で目立った記述がある最後の戦いだな

91 :世界@名無史さん:2010/09/26(日) 18:32:00 0
ブルガリアの反乱はマラズギルトの敗戦後とか
ミカエル4世の治世に起きているけど
ペタンの反乱にブラフ人が加わったのは
やはりこいつらがブラフ人だったからだろうかね

92 :世界@名無史さん:2010/09/26(日) 21:38:45 0
>>87
>小高い山で荷馬車を倒して砦を築いた。

倒してはいないと思う

93 :世界@名無史さん:2010/09/27(月) 09:00:02 0
>>91
よくクマン人も味方に付いたものだな

94 :世界@名無史さん:2010/09/27(月) 11:18:04 0
ワラキアのブラフ人に仲介をお願いしたんだろうよ。

95 :世界@名無史さん:2010/09/27(月) 15:53:05 0
>>89
確かアイスランドのサーガだったと思う。

96 :世界@名無史さん:2010/09/27(月) 15:57:06 0
パレオロゴスの中期のコンスタンティノープルを訪れた
アイスランド人の述懐によれば、
現地住民は首都のことを「エスタムボール」と呼んでいたという。

97 :世界@名無史さん:2010/09/27(月) 17:08:47 0
>>68
ヨーロッパで一番先進的だったイタリア人の手に渡っていたら
もしかしたらもっと発展していたかも知れんね

98 :世界@名無史さん:2010/09/27(月) 17:11:14 0
イタリアにそんな強い勢力はいない

99 :世界@名無史さん:2010/09/27(月) 18:10:21 0
イタリアの都市国家は強力な海軍と
陸上でも北方からの侵攻を跳ね返すほどの力がある。
シチリア王国は中世のヨーロッパで最先端の国だが。
そこの国民のイタリア人は間違いなく当時のヨーロッパで
最先端の国民

100 :世界@名無史さん:2010/09/27(月) 21:00:59 0
あまり知られていないが、第二回十字軍の最中に
シチリア王国が攻撃を仕掛けてきて、
首都近くのマヌエルの官邸も攻撃を受けている。
第4回十字軍の時とは違って占領はされなかったがな。

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