スタニスワフ・レム=インタビュー(2)

 これは以下の日記の続きです。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20110226/lema
 レムのインタビュー、続きます。

問:あなたの英語は非常にみごとなものです。どこでお習いになったのですか。また、なぜご自分の作品を自ら翻訳しようとなさらないのですか? どういう言語をお読みになり、お話しになるのですか?
レム:いやいや、わたしの英語はうまいはずがない。耳で聞いた英語は理解できないし、自分でも喋らない。できるのは読むことだけで、最初に英文の手紙を書いたのはたぶん三、四年前のことだ。それまでは、意味をなす文章を書けようとは想像もしてみなかった。
 フランス語、ドイツ語、ロシア語を話す。ときおり、ドイツ語やロシア語でエッセイあるいは書評を書く。この二か国語でそれぞれ講演したこともある。しかし、自分の文学作品を外国語で書くとなると、これはまた別問題だ。わたしはポーランド語でのみ文学的自己表現をせざるをえない。
 おそらく傲慢に聞こえるだろうが、わたしは自分には、書物に注ぎこみうる以上の発想が実質上あるような気がする。(芸術は長し、人生は短し、というわけだ。)実は、ここから『完全な真空』が生まれたのだ。書かずしていかに本を書くか? という疑問に対する答として。さて、わたしのみいだした解決法はもちろん逆説的なものだった----不在の書物に関するエッセイ、書評を書いたわけである----が、この問題の解決法としては、まあ、悪いものではなかった。
 わたしは自分の作品を映画、テレビ等に翻案しない。一般に、何であれ後戻りするのは好まない。自己模倣をするのは考えただけでぞっとする----脚色であれ翻訳であれ、何であれ。
『完全な真空』はわたしの次の著書『Imaginary Greatness』につながった。(この英語の題名は正しい翻訳ではない。というのはポーランド語やドイツ語にはquantity(量。大きさ)とgreatness(偉大さ。偉人)とを同時に表現する単語があり、ポーランド語の題名はその両義性からできたのだが、英語版ではそれが消滅してしまうからである。*1
 この本は二十一世紀のさまざまな書物の「まえがき」のアンソロジーである(つまり、全篇「まえがき」だけ)。一両日中にわが国の書店に出る(1973年)。
 
問:SFに関するあなたの論文が、あなたがSFを書くことに影響していますか、もしそうなら、どのようにでしょうか? 論文を短く要約していただけませんか? 論じる西欧の書物をどのようにして入手なさるのですか、現在のSFの情勢を把握しておられますか?
レム:『SFと未来学』SF and Futurologyはわたしの四冊目の非フィクション的著書だ。これまでに『ディアローギ』Dialogi(1956年)、『科学技術大全』Summa Technologiae(1962年)、『偶然性の哲学』Philosophy of Chance(1968年)がある。
 もちろんこれらの本は私の創作に、ほんの間接的なものにもせよ、なにがしかの影響をおよぼしている。
 ことに『大全』はそうで、この本は当節流行の未来学に類するものではない。なぜなら、これを書いたときわたしは未来学のことなど何も知らなかったからだ。これは「理想的未来学」つまり、物理学でいう「理想気体」や「無摩擦機械」に似たものなのである。この機械には何の摩擦もなく、わが『大全』には何の「フィクション」も、つまり政治的、社会的「雑音」もない。
 事物、精神、肉体のありとあらゆる可能な現象に関する人間の知識と掌握は、はたして無制限のものなのか? この問いに対する答をわたしは追及していた。「宇宙航行工学」、自動進化、心理過程の機械化、情報の自動的増殖、自動機械の物質代謝、宇宙創造過程の規制・制御に関する諸問題、精神動物の文化的「保護」、科学技術の崩壊etcはどうか?
 もちろんこれは実現不可能なことだった。しかし、である。わたしは実現不可能な仕事というのが、大体において好きなのだ。
『SFと未来学』だが、これは礼儀の問題であると思う。わたしはSF作家だといわれている。とすれば、この分野全体を測定すること、このジャンルの理論を知ることはわたしの義務ではないか、と思った。ところが大いに失望したことには、そんな理論などかけらもみつからなかったのである。
 そこでわたしは自分でそれを組立てることにした。
 非対数的な事柄には理論が立てられない。このことをいまわたしは確実に知っている。そしてこの作業の過程で認識したのだが、今日のSFの九十九パーセントが採用している「帰謬法」は本心からのものであり、無反省なものだった。現代SFを読めば読むほど、わたしの幻滅は大きくなっていった。最初わたしは、これは単に適切な本が手に入らないからだと思っていたが、やがて、適切な作品というのは最大級のダイヤモンドと同様に稀少なものだということがわかった。だが、繰返す、わたしは決してSFの「滅亡」を面白がっていたわけではない。わたしはただ、この分野に存在しないものをさがし求めていただけなのだ。
 どういったらいいものか? 「いまでは」よくわかっているが、わたしの側にも大きな考え違いがあった。ステープルドンを「読んだ」(そして最新SFについて「聞いた」)あと、わたしは、この種子から巨大な、枝のいっぱいある樹が育っていると----無意識のうちに----期待していた。わたしがステープルドンを気にいったのは、彼が到達した境地そのものではなくて、むしろ、従来表明されることのなかった仮説を進展させる構造への、新たな無限の展望、巨大な可能性を彼が開いた、その開き方が気にいったのだった。ステープルドンの純粋に芸術的な才能よりも、彼の広漠たる思考の幅広い枠組みのほうがはるかに重要なものだ、と思ったのである。そこでわたしは、彼の後継者たちは彼を----両面にわたって----しのいでいるだろうと予想した。ところが、彼の作品の情報形成的な内容や知的な密度に比して、現代SFは大きな後退なのだ。
 わたしのみるかぎり、現代SFの一般的な作法はこうだ。いかにして一つのアイデアをなるべく多くの語数に引伸ばすか、いかにしてほんのわずかなオリジナリティのかけらを----たとえそれが偽りのオリジナリティであっても----ふくらますか。
 だから、今日のSFに対するわたしのいわゆる軽蔑は決して優越感などではない。わたしはただ、真に「新しい」情報をさがし求めているだけであり、わたしに反感を抱いているのはきらびやかさを装った古い連中なのだ。
 わたしが待望しているのは一つではなく多次元的な連続的な突破である。ところがSF人の大半はわたしの期待のまさに正反対のことをしているのだ----ぐるぐると一つところを循環しているだけなのである。
 では、どういうものをわたしは待望しているのか----というか、していたのか? それは、未知の哲学的思考のパターン、新しい社会学的概念、新しい精神動物現象の銀河的多様性、「自動装置の思考」への何らかの洞察。そうしたものの中には人類の運命を指し示すものもあれば、宇宙の本質に関する単に新しい仮説にすぎないものもある、といったようなことである。
 だがわたしのみいだしたものは、擬似科学的な語彙を表面(うわべ)にちりばめた古い神話、おとぎばなし的構造、ささいなトリック、初歩的な意味の原始的な転換、にすぎなかった。いいかえれば----置き換え、偽装、模倣であった。総じて欠如しているのは「新しい」存在論のオリジナリティである。
 たとえばアシモフのSF作品を彼のノンフィクション著書(通俗的科学解説)と比較してみれば、アシモフが、彼のもつよりよいものである知識をSF人としていかに「飼い馴らし」てしまっているかがわかるはずである。そんなものではないと「知って」いながら、いかに多くの虚偽と単純化とを彼が自分のSF作品に持ちこんでいることか。惑星植民者が、幻覚剤で心を操作して彼らをばかにするような地球からの宇宙航行士の到来を待っている、などというようなことを彼が「信じ」ているとは、まさかあなたがたも一瞬たりとも本気には考えないだろう----どうかな?
 もちろん、物語の「前提」として一応の、非実証的な設定をすること必要であろうし、それは許されることである(詩的発想の自由)。たとえば、超光速航行といったようなことだ。
 しかし、「一応の」版経験則的前提を設定することと、事実として明白なことの総体を際限もなく無視しつづけるということとの間には、大きな相違がある。
 SF作家は、知ったかぶりのばか者にすぎないか、文学的からえたよりよい知識を出しおしみしているか、どちらかである。
 こんなとほうもない例外がこのジャンルの法則になってしまっているのは、これはいったいどういうことなのか。
 もちろんわたしは才能ある「すべての」作家、よく書かれた「あらゆる」作品に味方する----たとえばコードウェイナー・スミスを支持するが、「SF作家」としてではない。なぜなら彼はSF作家ではなくて、「モダンな」おとぎばなしの作家にすぎなかったからだ。そしてわたしはおとぎばなしが大好きだ。わたしはただ、経験的な仮説でしかないおとぎばなし、あるいは「大胆なスペキュレーション」と称する無意味な駄作が好きでないだけである。
 最初わたしはSFの現状に大いに当惑した。いまでは多少、理解しているつもりだ。
 しかしいまなおわたしはSF界では異質の存在である----だからわたしはなぜわたしの作品が何人かのSF作家を怒らせ、敵に回し、騒がせるのかを完全に理解している。たとえそうした状況が、鳥の眼から見ればきわめてグロテスクなものであっても。なぜなら、SFは銀河的な心の広さを持つべきものであり、可能なすべての仮説のパターンを受けいれる用意のあるべきものだからである。実際には、一部の敵対的な反応からも明らかなように、SFは凡例遵守的に閉じた、石化した存在であり、いかなる「逸脱」をも非難しようとするけれども。
 リチャード・ガイス(彼の最近の「SFレビュー」)のように、わたしの『ソラリス』をうけいれるほど寛容な人でさえ、やはり、書評の最後に、これは「思考者のSF」だと言っているほどである。
 その結論はこう発展する----不可避的に----のこりのすべてのSFは「考える人」のためのものでは「ない」のだ、と。彼はどういう読者のことをいっているのだろう? 考えない読者?
 そこでこういうギャップができる。おとぎばなしを読むとき、われわれは自分の「理性的概念」を停止しなくてはならない----これはいうまでもない。しかし、おとぎばなしに典型的な、そうした疑いの停止をもって小説を読むということは、わたしにとっては、SFを愛好することと矛盾することなのである。
 その原因の大半はわたしの受けた教育にあると思う。『デューン』に見られるような、反目と抗争の渦巻く銀河帝国、といったようなものは、わたしにとっては恐ろしく退屈なものだ。SFの「地球外人類学」といったようなものをわたしがたのしめる可能性はまずない。なぜなら、人間の文化的行動についての第一級の本物の研究のほうが、そうした原始的なしろものよりもはるかに多くの「驚異」を内包しているからだ。
 たとえば蜘蛛崇拝の歴史だとか、狂宴的儀式の歴史、「この」世界のある地域でのカマキリ崇拝のはたす象徴的な役割、そういったようなモチーフは何百とある。それらすべてがもつ固有の複雑さや形而上学的両義性を、どうやって、SFにおいて(初歩的な方式で)示された銀河種族の「信仰や信念」などと真剣に比較できよう?
 わたしは必ずしもすべてのSFが、読者としてのわたしの肯定的な評価と愛好をうけるために、現代の科学に従わねばならないといっているわけではない。決してそうではない。ただ、現代の科学がすでに獲得している複雑さ、人間の行動の多様性、生物界の動的平衡のすばらしい建築性、等に「比較しうる」固有の複雑さを持った、論理的緊密性あるいは知的凝縮性をある程度、提示すればよいのである。
 そういうわけで、わたしのSF論を要約することはできなかったが、わたしはいま、この本を書いた動機を明らかにしようとしているわけだ。(どうやってSFを手に入れたかって? それは簡単なことだった----編集者たちにとりよせてもらったり、自分で外国へ行って買ってきたりしたのだ。)

 レムのSF観と、どういうのがすごいSFなのかが語られています。翻訳のせいか不明だけど、レムの理想のSFが少し分かりにくい(私感)。どういうのがダメなSFなのかは、それよりは分かりやすいですな。
『Imagined Grandeur』は邦訳名『虚数』で、今でも手に入ります。

虚数 (文学の冒険シリーズ)

虚数 (文学の冒険シリーズ)

人体を透視することで人類を考察する「死の学問」の研究書『ネクロビア』バクテリアに英語を教えようとして、その予知能力を発見したアマチュア細菌学者が綴る「バクテリア未来学」の研究書『エルンティク』人間の手によらない文学作品「ビット文学」の研究書『ビット文学の歴史』未来を予測するコンピュータを使って執筆されている、「もっとも新しい」百科事典『ヴェストランド・エクステロペディア』の販売用パンフレット。人智を越えたコンピュータGOLEM 14による人類への講義を収めた『GOLEM 14』様々なジャンルにまたがるこれら5冊の「実在しない書物」の序文とギリシャ哲学から最新の宇宙物理学や遺伝子理論まで、人類の知のすべてを横断する『GOLEM 14』の2つの講義録を所収。架空の書評集『完全な真空』に続き、20世紀文学を代表する作家のひとりであるレムが、想像力の臨界を軽々と飛び越えて自在に描く「架空の書物」第2弾!知的仕掛けと諧謔に満ちた奇妙キテレツな作品集。

 これは以下の日記に続きます。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20110228/lemc
 

*1:訳注3 結局、Imagined Grandeurとなったらしい。『幻影の栄光』とでもいう感じか。