スタニスワフ・レム=インタビュー(3)

 これは以下の日記の続きです。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20110227/lemb
 レムのインタビュー、続きます。

問:多くのSF作家と接触がありますか?
レム:SF作家との交際? なきに等しいね。
 
問:西側におけるSF評論(ブリッシュ、エイミス、ナイトetc)を多くお読みになっていますか、それについてどう思われますか? 『完全な真空』はそれを批評しようとしたものなのですか?
レム:そう、わたしはエイミスやモスコウィッツ、ブリッシュ、ナイト、ランドウォールらの評論を知っている。また、Extrapolationで出版されたもののような新しいアカデミックな評論も知っている。概して書評的なもので、系統的な記述を恐る恐る試みていて、ときには(たとえばナイトの『驚異を求めて』In Search of Wonderのように)手際よく機知に富んでいるものもあるが、このジャンルの一般的な理論はかけらもない。
 いや、厳密にいえばそうした理論の試みはいくつかあった。たとえばスーヴィン博士のものだ。しかし彼の努力は正しいものだとは思わない。彼は系統的なタイプの歴史的な回顧に偏向的にもとづいてSF理論を組立てようとしており、叙述的な部分はごくわずかしかない(=通史的、年代別配列的方式の組立てである)。
 しかしわたしの見るところ、価値判断ぬきの純粋に記述的で「無偏見」のSF理論など、不可能なものである。それは(理論生物学における)一般生物理論と異種同態的に似たものになるだろう。しかし、独自の「有機組織」をもつこの「環境」は----生物圏にはあらゆる生物がおり、こちらにはファンダムと受動的な読者の「ものいわぬ大多数」とに根づいたSFの「生態学」がある----決して異種同態ではない。
 だから、生命現象の純粋に記述的で通史的で「しかも」年代別配列的な一般理論は理解できるし、可能なものであるけれども、SFにはそれは通用しない。
 なぜか? なぜなら生物の有機体は「すべて」真に完成されたものであるからだ。いずれもみな、生存持続の問題を解決しようとするあらゆる進化の試みのうちでの「最上の」ものばかりを具現しているのである。だから生物学者はすべての属や種を「評価」する必要はないが、まさにそのことをこそSF評論家はなすべき義務があるのだ。進化はすべての「できのわるい」有機組織を淘汰してしまうが、読者という環境は、残念ながら、あまり有効な判定のフィルターではないのである。
 したがって最初の作業は、全般的な傾向と文化的性格の原理とにもとづく何らかの評価判定に「ならざるをえない」。概して、ブリッシュやナイトの「内部」批評は、Extrapolationで発行されるさまざまな出版物上で見られる操作のいつくかのものよりも----客観的に見て----率直なものであるとわたしは思う。アプリオリに選択された一組の作品に、平均的な大量生産のSFの恐るべき劣悪さ、陳腐さについて何もいわずにいることはできない。
 記述的な作業は、対象となる減少を「まるごと」考慮する場合にのみ許容される。「選択的に」目をつぶろうとする試みはそのこと自体が、科学における不正に等しい。こんなことをいわねばならないのは残念なことだが、そうなのだ。また、自然の進化においては生存が究極的なゴールであるが、芸術作品は「適者生存」によってのみ評価するわけにはいかない。とりわけ、純粋に商業的な種類のものの場合はそうである。
 したがってこのSF理論は目標と価値とを指標としたものであらねばならない。完全に中立的な----つまり公理的に中立な----理論は立てえない。そこで、最新のアカデミックな批評についてわたしの意見を手短に述べることにする。ファンジン上で見られる内部批評は無用なものだ。
 有名な、SFの定義の問題をとりあげよう。でもねえ、これは純粋にスコラ学的な、中世的な、まったく無関係な、信仰上のドグマの探求だよ。信仰上の信念においては、正統的と異端(避難さるべきもの)とを区別する手段として必要なものだ。
 しかし科学においてであれ芸術においてであれ創造者たる者の最初の任務は、存在するすべての定義を破壊し乗りこえることである(ただ、もちろん単にそれを「無視」するだけではない!)。創造するということは、そのときまで支配的であったドグマに従わ「ない」という、語の本来の意味で「異端的」なことではなかろうか。
 われわれの知識はどのように進歩するのか? 最初に分離された論理と熱力学の二つの概念をとりあげよう。新しい情報の概念はどこから来るのか? そう、現象の論理的側面と物理的側面の「交配」から、つまり、「これまで有効であった定義を廃棄」するところからだ。
 だからSFの唯一の穏当な定義はこう述べることができるにすぎない。従来、必要条件として知られていたものは一篇の文学作品によって満たされうる、と。その作品に新しい「突然変異」「種」「属」といったものが出てきさえすれば、現在通行している「SFは何であり、何でないか」という定義はすべて廃れてしまうかもしれない、という保留条件付きで。
 たとえば、アメリカ合衆国の未来をストレートに述べた歴史は----SFか、そうでないか? わたしがいっているのは対話やロマニチックな出来事のたぐいはいっさいない、便覧だ。2918年の百科事典----これはSFか、そうでないか? 二十世代目のサイボーグたちのマルチセックス的行動に関する論文----これはSFか、そうでないか? 31世紀の宇宙論の講義録----これはSFか、そうでないか? リビドーを内蔵した自動機械の一般理論----これはSFか、そうでないか? そう、わたしはこれこそSFの可能性のまさに精髄だと思う。
 しかしこれらはすべて、「シリアスな」SFにおいて「のみ」通用する。それ以外のすべての様式----風刺、借成、奇想、寓喩etc----は典型的なSFのトリックや仮装を利用あるいは濫用する文学にすぎない。
 またわたしは、SFについて語るときのみニヒリスティックであるわけではない。今日の主流文学は全般的に主流の位置から後退していて、「審美的に偽装しカモフラージュした」現実逃避を試みている(もちろん例外はあるが)とわたしは思う。そこでわたしは私的に一つのアフォリズムをこしらえた。
 主流文学はいまわれわれにほとんど「無」についての「すべて」を語り、SFは「すべて」についてのほとんど「無」を語る。
(これはこういう意味だ。「神話的リアリズム」、反小説etcは生のまったく周辺的、瑣末的、まとはずれの細部、断片について異常なまでに能弁であり、いっぽうSFは不器用に、ピントはずれに、下手くそに語る----「あらゆるもの」について。つまり、宇宙、人類の運命、宇宙生命etcについて。)
 すでに述べたように、『完全な真空』はSF批評とは何の関係もない。わたしが意図したのは、いわば書かずして新しい本を書くこと----知的努力を惜しむことなく機械的作業を節約すること、ただそれだけであった。また「SFの本」は『完全な真空』のほんの一部を占めるにすぎない。十四、五篇中の三篇ほどである。

 レムのSF批評に関する意見と、SFの定義について語られています。

完全な真空 (文学の冒険シリーズ)

完全な真空 (文学の冒険シリーズ)

 これは以下の日記に続きます。
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