スタニスワフ・レム=インタビュー(6)

 これは以下の日記の続きです。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20110303/leme
 以下、インタビューのあとのレム自身による補注その他です。

レム補注
1 わたしの非フィクション的な仕事のプラグマチックな一貫性にここで注釈を加えておくべきだと思う。私がどういう隔離状態で仕事をしているかという事実に、留意していただきたい。ロビンソン・クルーソー機械的な道具が不足していたのと同様に、わたしには知的な道具が不足していた。
 だから、まずわたしは、サイバネティックスの諸概念の総体から何が外捶されるのかを「自分に教えた」(『ディアローギ』1956年)。次に、可能なSFの諸パターンの組合せのための全体的な枠組をつくる作業があったが、ここでもまたわたしは文学作品の基本的理論が欠落していることを感じていた。(そうした理論が必要だったのは、定義上、Sfは文学活動「全体」にわたる「特殊例」であらねばならないからだった。)
 だから『偶然性の哲学』はむしろ、しかるべき次の段階に至るための予備的なものだった。というのは、入手しえた唯一の文学理論----わが国の哲学者ロマン・インガーデンの構築した(そして専門家なら誰でも知っている)現象学的文学論が、わたしには役に立たないものだったからだ。なぜなら、彼の理論は非実証的な性格のもので、その論述にはいかなる実験にもとづく論証もなく、反証のしようもないからである。
 そこでわたしは文学作品の実証的理論の試みを構築してきた。全体を二つの部分に分けて。まず、基本的な構図が、実用的な理由で法則と呼ばれるいくつかの仮説とともに提示される。文学の一般的あるいは抽象的な理論。ついで第二の部分、いわば応用理論(つまりわたしは第一部で述べた仮説と法則を、さまざまな文学作品の個別的な分析に適用する----肯定的な証拠を集積するために)。
 つまり、発見されたいくつかの規則性が出てきたところから、たとえば、そう、読者のソフィスティケーションのレベルと----課題としての所定の書物に対する----「読解能力」との度合いの逆転についての記述も出てくる。その場合、それらの本は標準的な測定器具としての役割をはたす。というのは、それらの「内容評価」はすでに確立されたものであるからだ。
 それはたとえばトルストイの『戦争と平和』とマーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』をとりあげて、一群の人々に読書課題として提示するわけだ。
 純朴な読者はこの二つの作品が「とてもよく似て」いて、さらに、トルストイの作品にはところどころ「退屈な」箇所がある(それはこの作品にいくつかの歴史哲学的記述etcが含まれているからである)から『戦争と平和』よりも『風と共に去りぬ』のほうが上等だ、と考える。このすれていないグループのうちの一部は、最終的に、トルストイの作品のほうが「立派」だという意見を述べるだろう……だがそれは、その人が、トルストイシェイクスピアに匹敵し、マーガレット・ミッチェルはそうではないという世評を聞いたことがあるからにすぎない。だからそういう人たちは自分の本当の意見を示さず、体制順応的にふるまっているのである。
 次に別な実験が行なわれた。その大半は純粋に思考上のものだ。というのは、実地に真の実験を行なうことが(適切な手段も可能性もなくて)できなかったからである。しかしそれらの仮説はすべて、実験的な研究における検証にほぼ耐えうるものだ。
 ついで、文学作品の「堅牢度」、つまり個々の作品が「意味論的に」崩壊してしまわずにあるタイプのダメージにどこまで耐えられるかを、認識するために、文学作品にとって特別に損傷度が強くなるよう考案された一連の実験がなされた。(その場合の一般的な法則はこうだ。「リアリスティック」な作品であればあるほど、右に述べた方式によれば、堅牢性の度合いも大きい。)
 そのあとに、もっと複雑な問題。意味論的に多義性を内蔵した作品の問題が出てきた。第一次の近似値は、総体的に、心理学者にはよく知られている事物の状態に比較しうる構図を提示する。1971年11月号の「サイエンティフィック・アメリカン」には、視覚認識における多重安定性に関するフレッド・アトニーヴの論文が載っている。これに似たメカニズムが、いくつかの卓越した文学上の傑作の「多重安定性」の底にはおそらくあるのだろう。ただ、それらのもつ変形可能性は意味的性格のものであって、視覚的性格のものではないだけだ。
 意味上の多義性を内蔵した小説、たとえばカフカの書いたような作品は、いわば「罠」のようなものである----そして多義的な視覚映像もまた罠だ。というのは、それは「完全に」は説明(理解、把握)できないからである。
 このことから、われわれを驚嘆させ、そしてある程度「麻痺させる」あのトポロジー的な特性を推論することが、理論上、可能になる。これこそ、芸術作品の決定的な意味である。
 また、さらに考察を進めれば文脈的性格の諸問題がからまってくるし、新たな問題も出てくる----一冊の書物の意味における矛盾と反意の問題である。
 そうした矛盾のいくつかはさまざまな進行綱領のさまざまな教義の中にもみいだされる。そこではそれらは、とても有効な役割、つまり「聖なる謎」としての役割をはたしている。純粋に形式的にとりあげてみれば、単純な、論理的なタイプの矛盾である(不合理故に吾信ず)。
 だから、この『偶然性の哲学』を書いたあと----この表題は文学的創造と文学作品の「受容」の、確率的、統計的側面を暗示している----わたしはSFについて書く用意ができた。
 ここでもまたわたしは参考となるシステムを必要とした。そしてそれは、未来学の一般的な原理によって与えられた。(探求的な研究をする場合には、必ず、参考となる安定したシステムが必要である。そうすれば、調査される領域総体の個々の部分を動かすことができる。つまり、ひとたび、所定の作品群に「安定した」測量の目盛りをつけてしまえば、次からは、すでに診断された「読解能力」によって知られた部分が、標準的な測定器具になり、それら一群の書物が未知の変数にあたる。
 表題を示した二つの著書----文学の一般理論と、SFへのその応用篇----はいずれも、いわば、自然科学によって再解釈した人文学の分枝である。最後の本----『科学技術大全』---は、したがって、あらゆる芸術的(人文的)考察から完全に隔離された、「多様性生成装置」に相当する。これら三つの本すべてが右に説明したように一貫したものであるのに、それらをSFを書くうえで利用できるわたしの道具にしようというのがわたしの意識的な意図ではなかった、というのは意味深いことであり、注目すべきことである。それらがわたしの本職において実用的に非常に役に立つものである、ということに気づくほどわたしが賢明になったのは、それらを書きおえた「のち」のことである。
 
2 何人かのアメリカの批評家はフレッド・ホイルの長篇『暗黒星雲』を、どちらかといえばけなしていた。ところがこの長篇はソ連で出版されたときには大騒ぎになった。訳者は古い世代の卓越した物理学者フランク・カメネツキー教授だった。『暗黒星雲』は、なにがしかの地球的大変動を描くアメリカの「終末論的」SFのどんなものよりも、比較にならないほど優れたものであることがみいだされたのであった。
 そこで、ソ連科学界の大御所の何人かがSF評論家の役割をはたした。ソ連においては、SF作品の内在的な価値とその作品の発行部数との間に強い肯定的な関連性があるという形跡はない。それゆえ、売れゆきがいいからといってそのことが自動的に、書物の価値の指標としての役割をはたすわけではない。総じて、そういう結合は間違っている。なぜなら、どれが年間の最優秀作品であるかを判断するときに、読者は自分自身で選択せねばならないからだ。
 たぶんわたしはこう言い添えるべきだろう。『暗黒星雲』は大好きだ、だがそれ以後のホイルの作品にはどれもひどく失望させられた、と。
 
3 ここにひとつの実例がある。孤立した諸概念の操作の組みあわせから、いかにしてSFの可能性が抽出されるか、の。辞書の項目を一つ選ぶ----たとえば「情報」。そして、新しい種類の等価転換作用を仮定する……情報と質量との間に……一兆まで数をかぞえたとき、かぞえるというそのプロセス自体が「それと等価の質量」、たとえば陽子を生む、と想定してみよう。これで、新しい種類の宇宙論の前提がえられる。そこには強い形而上学的な含意もある。いかにして「ことば」が「肉」となったか----つまり、いかにして「主の秒読み」が「世界」をつくったか、という。
 さて、右に述べたことはわたしがとっさに思いついたものだ。そこですかさず著作権を設定しておこう。質量と情報との等価性に関するこの「ひらめき」は現在(1973年12月)数週間前に書いた新しい短篇になっている。(文明の情報崩壊----コンピューター化された世界の終末----一種の喜劇的地獄図。)
 この種の言語遊戯はまた、奇想的に利用することもできる。わたしは「computer(コンピューター)」から「computainer」をひねりだした。これは特殊なフランス型のもので……身持ちの悪い遊蕩者だけのためにプログラムされている。*1
 
4 わたしはいま、フィリップ・K・ディック----彼の『ユービック』----をポーランドの人々に紹介することに全力を注いでいる。*2彼の作品はときには真の「ゴルディアス王の結び目」であり、彼は反意的構成の原理を濫用するが、しかしそれでも彼は、アメリカの全SF作家の90パーセントには欠如している、まったく個性的な----ユニークな----特質の持ち主である。(わたしの述べていることは実証可能だ。作品から作者の名をはずして、誰の作品かあててみるよう読者に問えばよい。大半の場合、それに答えるのは非常に難しい。なぜならSF作品の大多数は標準化された性格の、相互に入れかえうる部分からできているからだ。)
 この点についてもう一言、つけ加えさせていただく。アメリカSFには二つの疫病がある。「駄作病」と「まやかし病」である。ただ、第一の伝染病は再三述べてきたほどにはひどいものではない。駄作は、まともな論議の対象外だからだ。趣味の悪さというのはどこにでもたくさんあるもので、駄作の好きな人がいればその人は駄作を得ればよい----民主的な社会では(「各人の必要に応じて……」)。(それに代わるべきものは、周知のごとく、常に、検閲的な、抑圧的な性格の社会である。すべての駄作生産を廃止するには、文化の領域に一種の「開明的絶対主義」を導入せねばならない----それは非常に危険なことだ。なぜなら、その体制は通常の「非開明的」専制に堕落しかねないからである)。
 しかし、価値のまがいものつくりの問題は非常に由々しい、危険なものである。ここではこの問題に深入りするわけにはいかないので、はびこっている溟濛化(めくらまし)の一例を挙げるにとどめる。それの有名な製造者はシオドア・スタージョンである。皮肉にも、彼は名高い「スタージョンの法則」(「どんなものでも」90パーセントは屑だ、というもの)の作者である。たしかに彼自身は駄作を書いてはいない、それは真実だ。彼は別なことをしている----文学のまがいものを生産しているのだ。スタージョンのSFについてのエッセイは「文学としての韜晦(はぐらかし)」と題するべきだろう。
 この論述の証明は容易なことではない。なぜなら、スタージョンは「信憑性のある」模造品をつくるからだ。それらを「本当のほんもの」のいくつかと対照してはじめて、巧妙にカムフラージュされた違いを発見することができるのである。
 だから、たとえば『オッド・ジョン』をスタージョンの『成熟』Maturityと比較してみればいい。「超人」の真の問題はもちろん存在論的なものであって、ビジネスライクな性質の問題ではない。このことはステープルドンの作品の中で非常に明確に述べられている(たとえ彼のこの長篇の「筋」が概してメロドラマ的なものであるにせよ)。
 スタージョンは、問題の核心である、「成熟」を明確化しようとする彼のいわゆる試みを導入する際に、中心的な諸概念を置き違えてしまっている。なるほど、この「点」は何ら問題点ではない。なぜなら、この語の意味自体が多義性に満ちているからで、主人公----つまり「超人」----でなくて誰がいったいそれを最初に発見するのか?
 ところがスタージョンの主人公は、あたかも大衆の意見(「成熟」についての)を訊いてまわる世論調査員であるかのごとくに振舞う。
 そう、彼自身、何をなすべきか、成熟とは何かを知らないのだ。だから彼は「庶民の知恵」に訴えるのである。
 ソクラテスニーチェスピノザアインシュタインに匹敵する人物が、街頭で人々に、生の究極の知恵について世論調査する、などという姿が想像できるだろうか? これが問題のはぐらかしでないのなら、世の中に韜晦などというものは存在しない!
『オッド・ジョン』には超人の人生の三つの時期がある----彼が自分の生きる世界について学び、生活の手段を得るだけのために一種のエジソンになる「疾風怒濤」の時代。第二の時期は答の追及と決断の時代。最後の時期は悲劇的な挫折の時代である。
『成熟』には、この筋書きの無意識のカリカチュアが見られる。ささやかな装置を考案し戯曲を書く「エジソン」期のあとに、「世論調査」期が----つまり、自己認識の獲得ではなくて喪失が来る。そして次に、悲劇の代用品として単に病気が来る。悲劇の外観は内蔵された三角関係によってわれわれに押しつけられる。そしてスタージョンの超人の人生上の決定的な箇所は、彼が処女性の神聖さの前に屈服するがゆえに女性との性行為から撤退する瞬間である。超人だなんて、とんでもない! むしろ、意図せざる悪意的な、超人の戯画化だとわたしは思う。
 これがほかならぬ「ファンダムの未成熟性」の証明でなかったなら、こんな不愉快なことをこうも長々と述べはしなかったろう。ここ十年間に、ハインラインアシモフといった何人かの「SFの老大家」が何人かの若手の批評家たちによって攻撃されていながら、それがスタージョンのSFに対してはなされていないというのは、注目すべきことである。わたし個人としてはむしろ、スタージョンの最高作よりもアシモフハインラインの最高作のほうをとる。なぜならこの二人は何ものをも装ってはいないからだ。
 アシモフは彼の高級な知識を単純化してなにがしかのプロットに仕立てている。ハインラインは彼の社会的、人生訓的な意見のいくつかのもののせいで批判されているが、アシモフは決して「SFのプルースト」、心理学の目利き、微細なことがらの奥儀に達した偉大な専門家、であるふりをしたことなどない。ハインラインは、たとえばわが良友フランツ・ロッテンシュタイナーらによって、官憲主義的態度だとして非難されているが、作家の人生観、政治観と、書き手としての、作りあげられたものの質とは、別のものだ。フランスの作家セリーヌはドイツの占領時代には協調主義者だったが、しかしそれでも彼が何らかの個性をもった非常に熟練した才能ある作家であることに変わりはない。
 一般に作家は、その「最低の」成果ではなくて「最高の」達成をもって評価されるべきだ。わたしはハインラインアシモフの作品のいくつかは生き残るだろうと思う。たとえそれが、たとえば、そう、ジュール・ヴェルヌの作品のようにアナクロニズムの緑青で覆われようとも。
 しかし残念ながらわたしは、それはスタージョンにはあてはまらないといわざるをえない。彼は「SFのオルツィ男爵夫人」であり、彼の名声はファンダムの全体としての批評能力のなさのさらなる証しである。
 繰り返す。駄作はSFの最悪の疫病ではない。なぜならそれは何ものをも装わず、何ものをも偽造しないからだ。まやかしこそ真の脅威だ。なぜならそれは、真の問題のあるべきところにそっくりの擬似解決を置くことによって、真の問題をぼやけさせてしまうからだ。スタージョンの法則は半面の真理だ。なるほどたしかに屑はどこにでもみつけられる。だが、生きながらえ、もてはやされ、高く評価されるまやかしは、文化的ゲットーの内部にのみみいだしうるものだ。
 
レム記:(1973年12月)これらすべてのほんとうに最後に、以下の要請をさしはさませていただきたい。わたしはまもなく、クラクフで編集、発行されるSFシリーズ(『レムの選んだもの』Lem's Choice)の編者になる。すでにアメリカのSF作品の最高作を何冊か集積しているが、もちろん「すべての」最高作があつまったわけではない。わたしはアメリカから最新SFをとりよせている。DAW、バランタイン、エース……そしていわば「あまりにも」選択の自由がありすぎるほどなのだが……わたしはさほど多くの「少し前の」優れたSFを持っていない。そこで、もしどなたか、度量が銀河的に広い、適任の方がいて、ポーランドの出版界を豊かにすることの必要性を感じ、わたしにそうした本の題名を知る機会を与えてやろうとお思いになって、そうした本をお送りいただければ、非常にありがたいのだが。

 長ぇよ! おまけに何言ってるか一部さっぱりだよ。
 アメリカSFの二つの疫病以下には笑った。
 フレッド・ホイル暗黒星雲』は新装版が手に入るようです。

暗黒星雲 (コスモス・ブックス)

暗黒星雲 (コスモス・ブックス)

 ステープルドン『オッド・ジョン』は中古で入手可能です。 スタージョン「成熟」は短編集『海を失った男』に収録されています。
海を失った男 (河出文庫)

海を失った男 (河出文庫)

 ディックの『ユービック』はもちろん入手可能です。
ユービック (ハヤカワ文庫 SF 314)

ユービック (ハヤカワ文庫 SF 314)

 レムのディック論は、レム選集の『高い城・文学エッセイ』に入っていて、元テキスト入手可能です。
高い城・文学エッセイ (スタニスワフ・レム コレクション)

高い城・文学エッセイ (スタニスワフ・レム コレクション)

 英文テキストで読みたいかたは以下を参考に。
Philip K. Dick: A Visionary Among the Charlatans
 次にはこのディック論を電子テキスト化しようかと思ってたんですが(1986年サンリオ版)、後回しにします。
 次は非SFの戦争(軍事)もので、1983年中央公論・増刊に掲載された座談会「もしも本土決戦が行われていたら」を電子テキスト化します。
 スタニスワフ・レムの読者と、だいぶ(全然)違う気がしますが…。
 レムの「補注」は「4」までですが、他の人による補注もあるので、このあとにそれを掲載して、おしまいにします。

REG註:スタニスワフ・レムとのこのインタビューが最初に世に出たのが、ダニエル・セイの、下手くそなガリ版刷りの、発行部数の少ないファンジン「Entropy Negative」6号上であったことは、記しておかなければならない。

訳者補注
1 このインタビューは、本文中にも一部触れられているが、聞き手ダニエル・セイがレムとの書簡の往復で行ない、彼の謄写版ファンジンに載せたものを、レムの校訂をうけたのち、大手のファンジン「The Alien Critic」の10号(1974年8月号)に転載したものである。リチャード・E・ガイス(=REG)はその編集人。そうした性格上、レムも気軽で率直に、また教えさとすように親切に、重複をいとわずに語っている。
 
2 レム自身の文章がポーランド語以外で一般の目に触れるのは、実質上、これがはじめてのことのようで、ことに英語でこれほど長い文章を書いたのは空前のことと思われる(といっても、日本語に訳してしまったから、その意味は消える。日本の読者との接触がない、とこの中でもレムが語っているが、わが国での反応を彼に伝える積極的な努力が望まれる)。文中、新造語(らしきもの)が瀕出し、一般的な語法でないものや綴りの誤りも見られる。ラテン語、フランス語等の格言、諺、慣用句も多い。これはレムが英語を科学論文、哲学書等で読むことが多いからだと考えられる。ファンジンの一般読者に「解読」できたかどうか、疑わしい点もある。調べのつくかぎり、(それらしき)日本語に直したが、不明な点もいくつか残っている。
 
3 原文では、強調部分として、" 〟や下線、大文字、等の方法が用いられているが、訳文ではすべて「 」で統一した。書名、作品名には『 』をつけた。英語題名に乱れがあるが、そのまま並記した。なるべく英題を直訳したが、すでに紹介のあるものは邦題を並記した。
 
4 割愛したが、REGは後記で反論を試みている。要旨を紹介する。
「『まやかし』論は不明瞭だ。『成熟』などという作品が本当にあるのか」(実在する)「レムはファンダムのことがよくわかっていない。そんなに力のある存在ではない。少なくとも、ファンもプロもそうは思っていない(はずだ)----東欧以外、世界中どこでも」「既知の科学と、柔軟なスペキュレーティヴな『科学』とは別なものだ。レム自身の作品も後者に属するもので、ハードSFとはいえない----『無敵』(『砂漠の惑星』)は、まあ、ちょっと別だが……」

 今までのテキストは、こちらです。
スタニスワフ・レム=インタビュー(1)
スタニスワフ・レム=インタビュー(2)
スタニスワフ・レム=インタビュー(3)
スタニスワフ・レム=インタビュー(4)
スタニスワフ・レム=インタビュー(5)
スタニスワフ・レム=インタビュー(6)
 

*1:フランス語のputainは、淫奔な女、売春婦、の意。

*2:レムのディック論としては、『フィリップ・K・ディック:俗物に囲まれた幻視者』(大和田始・訳、NWSF12号)があり、そこで『ユービック』について詳細に論じている。