1956年7月当時の「漫画」に対する近藤日出造の意見

 これは以下の日記の関連テキストです。
1955年の漫画バッシング(悪書追放運動)について
 
 中央公論1956年7月号に掲載(多分雑誌が出たのはそれより一月ぐらい前)された「子供漫画を斬る 近藤日出造」というテキストなんですが…。ぼくの感想はあとで述べます。
 1955年の漫画バッシング(悪書追放運動)より1年経って、少し落ち着いてきたころですかね。

子供漫画を斬る 近藤日出造
 
 僕の子供の一番小さいのは小学四年生で、彼は、親父の仕事に全然興味を感じていない。
 しかし、子供というものは、自分の父親を「えらい人」だと思いたがるのであって、彼は、まったく「つまらない漫画を描くお父さん」を「えらく」思いたがることの、精神的あつれきを覚えている様子だ。「お父さんはとてもえらいんでしょ?」と、彼がしばしば母親に訊くのは、このあつれきがあるからで、僕という漫画家が、悪漢探偵ナンジャモンジャ博士火星探検アリャランコリャランウヘットホホホ、といった工台の子供漫画でめしを食っているならば、彼は、何の抵抗も感ぜず「お父さんはえらい人」と思うにちがいない。
 ところで、政治漫画などを「大人芸」と考え、それによってめしを食う自分を、悪漢探偵ナンジャモンジャ輩よりは「えらい」と考える兆しが、僕自身にあった。子供の本棚が悪漢探偵ナンジャモンジャによって埋められているのを知ったとき、「素人衆」よりはずっとずっと暗然とし、はげしい口調で「こんな下らないものばかり見るんじゃないッ、上品なタメになるものを買いなさい!」と子供をにらめつけたのは、僕のその思い上がりの発散である。
 しかし、それは何の効果もなかった。彼は小遣銭を貰うと、相変らず悪漢探偵ナンジャモンジャの類いを買い込み、キンチャク頭をその赤本にこすりつけるようにして耽読し、やがて、近所の友達を誘い集め、「テヘッ」「ギャーッ」と、くだんの赤本の内容を早速遊びで実践して、「充ち足りた」よろこびを味わうのだった。このことは、親として、大人として、真剣に考えてみなければならないことである。なぜならば、そのような悪漢探偵ナンジャモンジャ漫画は、明かに下品ではっきりとタメにならないからだ。子供によっては、かなりの害毒を被るだろうからだ。
 下品なものは見るな、タメになるものを買え、と自分の子供をたしなめた僕は、ついに何の効果もなしとサジを投げるまでには、もちろん積極的な努力をこころみてみた。
 僕には教育上の一つの持論がある。「わかってもわからなくても、いいものばかり見せろ、聴かせろ、読ませろ」という持論だ。この持論は、大ていの人に納得される。松本市でバイオリンの天才教育をやっている鈴木氏は、物心つくかつかないかの幼児に、バッハやベートウベンやショパンマーラーを日々聴かせ、炭鉱節や芸者ワルツから絶縁させておくと、やがてその子は、本格的な音楽に猛烈な関心を抱くとともに、低級なものは受けつけない筋金を持ち、チョイナチョイナともアラエッサッサともいわない教養児になる。音楽による情操教育とは、まずいい音楽をやたら聴かせ、悪い音に対するツンボをつくることだ……と僕に語り「賛成!」とさしのべた僕の手を、強く握った。
 ある高級料理店の板前が、僕にこういった。
「板前の給金が高いのは当り前ですよ。私らヒマさえあれば、うまいといわれる名代の料理食い歩くんですからね、モトがかかるんです、私らにゃ。とにかくうまいものを食い漁る以外に私らの勉強はありませんね。うまいもの食い漁ってると、不味いもの口に入らなくなる。こうなったらしめたもんで、もう不味いもの自分がつくりっこないんですよ」
 つまり、その板前にとって「まずいもの」はチョイナチョイナのアラエッサッサなのである。この話も、僕の持論を裏づけるものである。
 持論の裏づけとしてここに持ち出すのは不穏当かも知れないが、ある花柳界へ仕事の取材に行ったとき、高給置屋のおかみさんが、こんなことをいった。
「芸者衆もね、はじめてこの世界へ入ったときは、田舎っぺの山出しで、おさんどんみたいなもんですよ。そらァもう、最初っからイキだの粋だのスマートだのっての、いやしませんよ。それがどうして間もなくイキでスマートになるかってますと、何しろあなた、この世界へ入ったら、右を向いても左を向いても、みんなきれいでイキでしょ。そういっちゃ何ですが、裏長屋のねえちゃんみたいなのいないでしょ。ですからね、私たちがああしろこうしろとうるさくいう必要ないんです。きれいな妓たちの中へ放ったらかしとけば、見よう見真似で天然自然と上手なお化粧も覚える、着物の衿の合せかげんも覚える……そういったものなんですよ。何てますか、それが一番いい教育方法なんですね」
 書画の鑑定人のもっとも大切な仕事は、ほんものをより数多く見ることだときいている。ほんものをしょっちゅう見ていれば、ニセモノに接した場合、プーンと悪臭が感じられるのだそうで、このこともまた、僕の持論を裏づける。
 自分の持論に、このように酔いしれていた僕は、悪しき漫画を好む自分の小倅の廻りに「いい本」「タメになる本」を積み重ねてやるという、積極的な努力をこころみた。そしてその努力は、まったく実を結ばなかった。持論は、この身近な例証によって、はかなく崩れ去らんとしている。
 こうした場面に立至っても、長く護持した持論を捨て去るに忍びず、小倅にこうきいてみたのである。
「お父さんが買ってやったこの本を読まないで、なぜ漫画の本ばかり見ているの?」
 小倅は、斜めに僕を見上げていった。
だって、つまンないんだもの
 子供にとって、「いい」ということは、「面白い」ということなのだ、とこの時はじめて僕は悟った。
 松本市の天才音楽教育の場合も、このことが当っているのだ。バッハやベートウベンやショパンマーラーは、「作品何番」といわざるを得ない、いわゆる「題」をつけられない純粋な曲を生み出した。その純粋な曲は、幼児の耳にもこころよい。そして、チョイナチョイナのアラエッサッサは、曲よりも文句をきかせるもので、幼児の耳は受けつけない。つまり幼児には、チョイナチョイナよりバッハの「作品何番」の方が「面白い」のである。すなわち子供に与えるものは、面白いということが絶対条件となる。われわれ大人が「いいもの」「タメになるもの」と考えている本や雑誌が、「悪いもの」「害毒がある」と思われている漫画に敗北を喫するのは、僕の子供の場合に限られたことではあるまい。
「よくない」子供漫画がますますはんらんし月刊子供雑誌など、全ページの何十パーセントをこれで埋めるばかりか、別冊の付録をほとんど漫画ものにしている事実は、大多数の子供が僕の子供同様である証拠だ。PTAの優秀メンバーなどが憂える子供向きの「俗悪低級本」というのは、ほとんど子供が「無条件」によろこぶ漫画本を指している。
 その言葉をきくとどうも僕は味気なくもくすぐったくなるのだが、「程度の低い」母親連は、「よい子」という言葉が大好きで、俗悪低級漫画本を「よい子」の敵と見なし、不買同盟をつくったりした。俗悪低級漫画本は、十分に不買同盟に値する「悪いもの」だから賢母たちの金切声はかなりの効果を見せ、一時は出版社の自粛から巷の本屋に並ぶ漫画本の数が、大分少くなった様子だったが、発売の目的は文化に非ずして儲けだ、と悟った出版社は、自粛というものの割の悪さをガク然と痛感して、最近はまた旧に倍する俗悪低級漫画本の増産に励んでいる。売れるから儲かる、儲かるから増産に励む、何の不思議もない商業の本道である。
 なぜ売れるか。
 くりかえしていうが、子供にとって面白いからだ。
 もちろん、巷にはんらんする子供向きの漫画の大部分は、画技稚拙、内容デタラメ、漫画本来の面白さなどほとんど見られない粗末な品物だが、その粗品にして尚且つ子供に迎えられ、「よい子」の母親たちを歎かせているということは、漫画以外の「上品」で「タメになる」子供用の読み物が、子供にとっては、ケタはずれにつまらないのだろう。
 =秋になりました。木の葉がハラハラとちります。風が吹きました。ちった木の葉がコロコロところがります。ころがる葉を、ポチがおいかけました=
 ざっとまアこんなあんばいの文章に、文字通り木の葉を追う犬の絵が描いてある。こういったあんばいのものは「よい子」の母たちに上品さと詩情を感じさせ、この絵本こそ、愛児の座右にそなえて然るべし、と思うだろうけれど、愛児は、これを見て、「なアんだ、つまンない」とつぶやくだけである。
 =鯉のぼりはおなかがすいてだらりとしていました。さわやかな青葉の上を吹く風を、早くおなかいっぱい食べたいな、と思いました。
 やがて、待ち遠しかった風が、花の香りや木の芽のにおいのソースをかけて、吹いてきました。
 鯉のぼりは、大きな口をあけて、その風をたらふく食べました。空に元気にひるがえった鯉のぼりは、いつまで風を食べつづけるのでしょう=
 たとえばこんな文章があり、イラカの上に重なって靡く鯉のぼりの絵があったとすると、やはり「よい子」の母親は、家計簿に、文化費-百五十円と書き込むことだろう。
 しかし、こうした文章と絵は、幼い眼に当節の複雑怪奇さを長め、拙い耳に破壊音をきく子供に、決してゾクゾクとするようなスリルを感じさせない。
 子供は、木の葉を追った犬が、とんでもない失敗をやらかすことを期待する。鯉のぼりが風を食って靡いただけでは、本を放り出して「ボクもごはんを食べよう」と思うだけのことである。
「よい子」好きの大人たちがつくり出す「よい本」は、多かれ少かれこういった調子のものだった。詩と真実はあっても、子供を本当に喜ばせる「案」がなかった。「うちのように品よく育てた子供にはこういう上品なものでなければ」と考える、親の「ざァます的教養ごっこ」が勝ちすぎていた。
 つまり、低俗漫画本を征伐するための高級ものは、大人の童心と郷愁を満足させるだけのもので、「事件屋」の子供たちには、一向にピンとこなかったのである。
 本来「事件屋」の子供は、高級ものの物語り性の少なさにあいそをつかす。高級童話の登場人物の立派さに退くつする。「事件屋」の子供にはファシストの根があり、むやみと平和好みの主人公が現われて、正しい行いをし正しい言説を吐く「進歩的童話」を、てんで面白くないな、と思う。正しい言説は、親の口からガミガミいわれるだけでたくさんだ、という気持もあるからだろう。
 こういったからとて、僕が子供の心に滞在するファシストの根を是認し、平和主義に反対を唱えているわけではなく、僕はただ、事実を述べているだけのはなしだ。高級で進歩的な子供雑誌が、次々と出て次々と廃刊されたのは、この間の消息を物語る。もっとも子供を愛する編集者が、もっとも子供ごころを知らなかったというのは、皮肉だった。
 また、次のような事柄もある。
 ある著名な児童研究家が僕に語ったのだが「童話作家には子供ぎらいが多いんですよ。特に進歩的童話作家にはね。子供が何を好むか、子供ごころとはどういうものかということが、子供ぎらいだから掴めない。そうして彼らは、作家仲間だけで、いわゆるクソリアリズムを論じ合い、大変勉強したと思ってるんですね。
 子供に好まれる筋道の立て方というより、これは反動だ、これは進歩的だが問題になるんです。もちろん進歩的でなければいけないけれど、それをどういう筋でどう発展させ、どんな表現をしたら子供が喜んで読むか、という、一番大切な研究と能力が足らない。ですからね、漫画を目のカタキにして、有害だ愚劣だといってばかりいないで、子供が一番好む漫画の手法を、進歩的童話で生かしてみるぐらいの気になればいいと思うんですよ
 酒は身心によくない……世界的定説である。しかし、身心にいいもので、酒にかわるべきものがなかった。現在の日本の子供にとって、俗悪低級漫画は酒だった。
 子供漫画という酒のもっとも忌むべき点はその大部分が、絵画技術という、「味」において、レベル以下であることだ
 しかし呑ンべえは、ほかにうまいものがないとなると、医学用アルコールでも飲む。子供漫画という酒の大部分は、子供に非常な悪酔をさせる。やがて子供は、アル中となり、正業にたえられなくなる。
 子供漫画特有の「吹き出し」文句は、タハッテヘッといった風のもので、このタハッテヘッの中毒に罹ると、正業……つまりまともな文章を読むことがおっくうになる
 だから僕は「ほかに面白いものがない」今の日本において、俗悪低級漫画が圧倒的にうけるいわれを十分に納得しながら、その害毒を、P・T・A有力者の如く恐れている
 むろん、漫画家である僕が、出来のいい子供漫画までを無益有害と考える筈はない。俗悪低級漫画ですら、そのために一生をあやまった話はまだきかないし、チャンバラ映画で育ったわれわれ年配の者が、再軍備絶対反対を唱えたりしているのだから、タハッでもテヘッでも、月世界ムチャクチャ探検話でも読んだ子供をムチャクチャにするほどの「偉力」は持たないかも知れないが、やはりムチャクチャなものは、ムチャクチャなるが故に有害なりと考えるのが、常識というものだ
 この常識を持つと「ムチャクチャだから子供が喜ぶ」ともいっていられない。そして、発行部数の点で「一流」といわれる子供雑誌が、厖大なページを漫画で埋めていることを「結構だ」ともいっていられない。
 そこで、二、三の子供雑誌の、実に嫌いな言葉でいうと、漫画の在り方について調べてみた。次のような在り方だった。
 まず、『少年クラブ』六月号。講談社発行。
 表紙に、別冊まんが五大ふろくと銘打ち、次のように刷り込んである。
(1)西郷どん (2)木曾義仲 (3)黄金バット (4)黒帯大四郎 (5)怪傑やまどり剣士
 この文字を見ただけで、幼い世界には社会党クソ喰えとばかり、右翼的な風が吹いていることがわかる。本誌を開くと、全篇を義経、秀吉、野球選手、力士、怪少年などの絵が乱舞して、オール戦い絵巻。その間に連載漫画が点々とはさまっているのだが、二百ページほどの本誌のうち、漫画が七十余ページ。別冊まんが五大ふろくが、各々五十ページほどだから、計二百五十ページで……そのボリウムからいうと、何のことはない、『少年クラブ』は少年漫画雑誌だ
 大人の漫画雑誌が存在するのだから、子供の漫画雑誌があたって少しも差支えないけれど、その厖大な量の漫画の質が、大人の眼で見るとあんまりひどすぎる。絵がレベルをぐっと下廻り、内容がどれもこれも殺伐で、僕のように絵が下手で頭の古い人間が、ちょっと思い上がって無遠慮にいえば、これらの作者といっしょくたにして「漫画家」と呼ばれることが、腹立たしいほどだ
 特に、本誌「鳴門の獅子丸」「出世だんご山」などの絵のひどさ講談社という老舗の資力と実績をもってすれば、いくらでもちゃんとした粒を揃えることができる筈だが、その老舗の経験が「このひどさ故に売れる」という結論を生んだものとすれば、獅子丸もだんご山も、西郷どんも黒帯大四郎も、大助くんも少年武蔵坊も、木曾義仲もやまどり剣士も、安心して誌面に暴力をふるいつづけられる。論より証拠=おそるべき柔道の天才少年あらわる……。次号からの大助くんの活躍をご期待くだしさい=だの、=少クがきて、まっさきによむのが、この獅子丸です。次号がまちどおしくてたまりません=などの謳い文句が漫画の傍に書いてある。
 伝統ある『少年クラブ』が漫画雑誌の観を呈してきたのは、殊によると、堂々と漫画を謳った『漫画王』なる雑誌が現われ、相当の売行きを見せていることなどによるものかも知れない。子供雑誌の場合、伝統も漫画に食われる。子供は、伝統に気を使うほど「不正直」ではない。
『漫画王』は、秋田書店の発行だ。雑誌の体裁は、『少年クラブ』とほとんど同じようなもので、これまた六月号の表紙に付録の数を誇っている。
 曰く、宮本武蔵大江戸の巻、曰く一二の三太、曰く、大あばれ京都篇近藤勇、曰く、大長篇竹光一万流、曰く、決戦まぼろし城、曰く、黄金剣士。このうち一二の三太だけが現代物だが、これが人をとっては投げとっては投げる豪傑で、つまり六冊の別冊付録悉くが喧嘩暴力抜く手は見せぬといった態のもの
 本誌は、これも三分の二が漫画で、「青空くん」というのを見ると「やっちまえーっ」「やれっ!! 山犬」「うおーっ」「むっ!」「おーら!」「このやろう!」「おーりゃっ!」「へへへへ」「くくく」「りゃ!?」「だあっ」などの吹き出しが全篇にちらばって、子供をゾクゾクさせる仕かけになっている。
「アンパン放射能」という漫画は、一見頭がクラクラッとするほど惨たんたる絵だ。しかし、アンパン放射能という題は、インデアンを出没させた内容と相俟って、やはり子供をニコニコゾクゾクさせる。たとえそのインデアンが、案山子の頭に羽根をつけたような頼りない描き方でも。
 この雑誌の表紙裏から、手塚治虫の「ぼくのそんごくう」という多色刷漫画がはじまり、七ページを埋めている。
 その画法が、アメリカ日曜新聞の冒険漫画の亜流を行ったようなものでも、さすが格段の腕前で、この程度の絵が揃っていればP・T・Aの有力者も、目くじら立てて漫画の追放を企むこともあるまい。しかし、その手塚治虫が、この頃しきりに大人漫画への進出を志し、今のところ「絵の点」での力量不足のため、進出思うにまかせず、との噂をきく。
 一応「大人漫画家」で通っている絵の下手糞な僕が、こうした噂を伝えるのはどうかとも思われるが、僕は、この噂を伝えることにより、一般の子供漫画家というものが、いかに箸にも棒にもかからない粗末な「絵描き」であるかをいいたかったのだ。
 雑誌『漫画王』も、『少年クラブ』同様、全然暴力肯定右翼雑誌で、子供の心にひそむファシズムに迎合している。僕はこういう雑誌編集者の顔を見たいと思うと共に、その胸中を気の毒に思う。彼らは悪太郎の召使だ。
『冒険王』という名前の雑誌も、『少年クラブ』『漫画王』と、まったく同体裁のもので、この六月号の表紙には、豪華別冊五大ふろく、ハリケーン太郎、はやぶさ頭巾、少年四天王、ガッチリくん、熱球珠太、と出ている。
 本誌はこれまた半分ほどが切ったりハったり蹴飛ばしたりの漫画で、漫画以外のものもほとんど切ったりハったり。目次を見ると二十三ほどの読み物のうち、十七ほどが、血なまぐさい題名だ。
 曰く、暗黒十字星、熱血鉄仮面、K2帝国、鉄腕リキヤ、三日月剣士、風雲の剣児、清水次郎長、ひよどり天兵、半月拳四郎、千葉の小天狗、等々。『冒険王』の本誌と付録数百ページを片っ端からめくって、剣戟か殴り合いか蹴っとばしの場面のないページを発見するのは、非常な困難である。だからこそ、これを見る子供は「一ページも無駄のない面白い本だ」と思う。
 これらの雑誌の漫画には、作品が全然チンプンカンプンの頭脳の持主故、筋の進行発展その他に、小さな子供の常識をさえ無視したデタラメさがある。そのデタラメさが、子供たちに、「筋を知らない映画を見るような」はかり知れない期待を持たせる。まったく、何がしあわせになるかわかったものではない。
 事柄の首尾がデタラメで、しかも全ページ、切ったりハったり殴ったりの殺伐さというところに、われわれ人の子の親は、愛児への害毒を感ぜざるを得ない。
 親には俗悪低級漫画本を「実力をもって」追い払う「いいもの」の出現を望んでいる。
 大人は今まで「いいもの」の解釈を間違えていた。大人の世界には「難解で面白くない文章ほど高級なもの」と考える迷信が存在し、難解な文章の書けない僕などは何かと尊敬されないのであるが、子供の世界には、そうした迷信がない。子供は正直だ、といわれる所以である。正直者は、浮気だった。秋になりました、木の葉が散ります、といったような「凡々たる女」に魅力を持ちつづけなかった。「漫画という面白い女」に、彼らの気がうつり、「きりょうはよくないけれど倦きない女」だというわけである。しかし彼らは正直な浮気者なんだから、「きりょうがよくて面白い女」が現われれば、実にハッキリと無残に「俗悪低級漫画女」を捨て、恥らいも外聞もなく新たな女と腕を組む。新たな女とつきあってみれば、俗悪漫画女の頭の低さがわかるというものだ。大学を出、むずかしい入社試験にパスした秀才が、子供のための雑誌つくり、という意義ある仕事に就きながら、たとえば教育二法の批評さえきまりが悪くてできない、というような状態に置かれていることは、悲劇である。彼らの悲劇を救うためにも、才能ある子供作家は、才能を発揮しなければいけない。出版社もまた正直な浮気者で、俗悪漫画より売れそうな「いいもの」が出れば、さっさと俗漫を捨てる。

 社会党とかファシズムとか、時代を感じさせる言葉が並んでたり、手塚治虫の悪口を言っているところは、うしおそうじ手塚治虫とボク』の通りなんですが…「すなわち子供に与えるものは、面白いということが絶対条件となる」って…すごくまともじゃないですかね?
 俗悪漫画本に大敗北している現状とか、ダメな児童文学の状況とか、ここらへんの「強力なライバル」としての漫画というメディアに対する近藤日出造氏の言葉は、一部過激なところもありますがうしおそうじ手塚治虫とボク』ではちょっと印象操作が過ぎるかな、と思いました。
 いやはや、どんなテキストでも、引用されたところだけではなくその周辺を読んでみないといけないです(個人の感想です)。
 引用に出てきます『アンパン放射能』という、タイトルからしイカしている漫画は、杉浦茂のもので、『杉浦茂マンガ館』第3巻(少年SF・異次元ツアー)に収録されています。読んでみたんだけど、話がメチャクチャでアナーキーで、他の漫画も含めて超おすすめ!

杉浦茂マンガ館 (第3巻)

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 こちらは新刊で手に入ります。
杉浦茂の摩訶不思議世界 へんなの…

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