読売新聞1955年5月14日の社説「ひろがる悪書追放運動」

 悪書追放運動当時の新聞テキストから。誤字とか読み間違いはお許しください。
 いよいよ読売新聞の社説登場です。

読売新聞1955年5月14日 社説 ひろがる悪書追放運動
 
 青少年を悪い出版物や映画、レコード、ガン具などから守る青少年保護育成運動は目下全国的に展開されているが、特に最近問題になっているのは“悪い本”の追放運動である。書籍というものはこれを一人の子が買ってもやがて次々と簡易に貸与が出来るため、ラジオとは別な意味で影響が大きい。
 戦後の児童雑誌の特色は第一に漫画のはんらんであり、その次が冒険探偵小説である。また、青年層の好むものはいたずらなるお涙ちょうだい的な読物や、政治的にも文化的にも一方に偏している小説とか、それと順を同じくするイデオロギー性の創作実話や同種の性雑誌などである。
 まず、ここに取上げなければならないのは悪い漫画であり、これらの雑誌から子供たちを守ろうとして「母の会連合会」や「日本子どもを守る会」などが起ち上がって業者の自粛と反省を求めようとしているのは当然なことである
 漫画には子供の美の感覚や思想を向上させる何物もない。いとも簡単に視覚のみに頼らせる俗悪な絵と低級な文句があるだけで、これは、一種の便乗物でしかなく、そこには子供たちを育成しようとする英知も愛もない。東京の「日本子どもを守る会」が先般調査したところによると某児童雑誌に刀の絵だけでも二八〇余も数えられたという。ここにはただおそろしい暴力肯定と無秩序な姿があるだけで、何等のロマンチシズムも問題も美も見られない。
 冒険物はともかくとして探偵物に至ってはその実害ははなはだしいものである。数多くの少年たちの犯罪のヒントや物真似がここにあることはいくたのニュースの伝えるところで、本来が悪を糾弾すべき探偵物も純真な児童たちの判断では結局は悪を真似る方向に走るといった危険がふくまれている。
 少女雑誌のドギツイお涙物も子供たちの伸びゆく理性を眠らせるだけである場合が多く、また時として文学的な導きかたに偏見があって一方の思想に偏したイデオロギーに陥っている。
 かつて坪田譲治氏は「児童は文学的教養の点では荒地だ。そこへいきなり面白さを失った文学性を持ちこんでもムリだ」といい、童話と俗悪な児童出版物の悲しい宿命を物語っていたが、その通りであり、真の意味で面白くてためになる読物というのはまれである。しかし出版業者の売らんかな主義のために日本の沢山の子供たちが毒されていることは事実であり、おそらくこれら業者の自粛と反省をまつことも容易なことではない。
 そこで対策であるが、最近「母の会」その他全国的にまき起されている悪書追放の運動はまず家庭が中心になって起されなくてはならない。だが学校も学校図書に良書が購入されていないといって平気な顔をしていてはならない。ともあれ青少年が学校以外で自由にこうした読書の誘惑に身をまかせているため、教師や父兄の指導というものが大切な問題になってくる。
 戦後わが国の学校は社会科的な方面にのみ走り児童の基礎的な学力の低下が重大な問題になっている。読む力がないとながめるものに集中する。そこに考え方の訓練があろうはずがない。漫画などが流行するのは当然であるが、日教組もこうした点につき特に深い考慮を払ってしかるべきだ。
 しかし、ここで注意すべきは、これら悪質図書にしろ映画にしろ政府が文化規制をつくって介入しないことである。厚生省の児童局長は(五月一日本紙)「自粛は望ましく成功してほしいが失敗すれば好ましくない。そのため法律で…」とのべていたが青少年の読物が国家によって左右されることは危険である。あくまで民間団体の手により出版業者の反省を辛抱強く求めてこの問題を解決すべきで「母の会連合会」や「子どもを守る会」など民間団体の悪書追放運動に期待したい。

 …ミステリー(推理)作家も少し怒ったほうがいい。
 坪田譲治氏の言葉はどこから引用されているのか、少し調べたいところですが、とんと検討がつかないです。
 
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