日本読書新聞1955年11月28日「児童雑誌は良くなったか」(5回目)
そろそろ夏も終わりですが、1955年を中心にした悪書追放運動の話を続けます(復活します)。
悪書追放運動当時の新聞テキストから。誤字とか読み間違いはお許しください。
日本読書新聞1955年11月28日より。
前のテキストはこちら。
→日本読書新聞1955年3月21日の記事「児童雑誌の実態 その一 お母さんも手にとってごらん下さい」
→日本読書新聞1955年4月4日の記事「児童雑誌の実態 その二」(少女系雑誌)
→日本読書新聞1955年4月18日の記事「児童マンガの実態 その三 マンガ・ふろく・言葉など」
→日本読書新聞1955年5月2日の記事「児童雑誌の実態 その四」(良いものを探す)
今回は、日本読書新聞の5回目の「悪書」に関する特集記事です。当初の記事から半年経って、どのように変わったか、という話と、少女系漫画・読み物の傾向に関する話です。
児童雑誌は良くなったか
作家・作品を検討する
本誌では三月いらい数回にわたって「児童雑誌の実態」について特集し、その憂うべき現状と内容を、母親、教師たちに訴えてきた。その反響は大きく、雑誌を作る人たちの反省も高まってきた。
しかし、まる半年を経た今日、果して、これら児童雑誌は良くなったであろうか。たしかに、ひどい害毒をあたえるようなもの、残虐・怪奇のみを売り物にしているものは、ほとんど姿を消したようだ。これは一つの進歩である。だが、義理にも“良くなった”とは言いきれない。
編集者・作家・画家たちのより一そうの努力と勉強を望む意味から、本号では少しでも良いと思われるものを拾いあげて、具体的に作品・作家を検討してみた。
協同研究
菅忠道(児童文学者) 久保田浩(和光学園教諭) 菱沼太郎(淡路小学校教諭) 森久保仙太郎(和光学園教諭) 記述・本紙編集部
怪魔から力道へ
柔道・プロレスに興味移る
柔道・プロレスもの
最近の児童雑誌のマンガ・絵物語の中に、柔道・プロレス・空手・剣道が猛烈な勢いで登場していることは御存知のとおりである。
▼「冒険王」=高野よしてる『木刀くん』有川旭一『イガグリくん』吉田龍夫『鉄腕リキヤ』夢野凡夫『半月拳四郎』入江しげる『鉄腕パンチくん』▼「野球少年」=福田福助『力道くん』湯浅利八『少年拳闘王』武内つなよし『風の弥太郎』松沢のぼる『那智の小天狗』▼「痛快ブック」=下山長平『力道力松くん』福田三省『黒帯嵐』福田福助『拳闘パンチくん』松沢のぼる『稲妻太郎』▼「少年」=山川惣治『嵐源平』田中正雄『ダルマくん』木下としお『いなずまくん』茨木啓一『かちぐり選手』▼「少年画報」=福田福助『鉄腕くん』下山長平『イナズマ君』吉田龍夫『嵐をこえて』宇田野武『月影四郎』湯浅利八『チャンピオン』森川けん一『おんぼろ剣士』近江八郎『快男児麟之介』山内龍臣『大助物語』▼「少年クラブ」=古沢日出夫『豆たん主将』武内つなよし『ハンマー君』▼「おもしろブック」=益子かつみ『白黒くん』高野よしてる『いなづま一刀流』▼「漫画王」=茨木啓一『一二の三太』土屋一平『空手くん」▼「ぼくら」=瀬越憲『はやて小四郎』(他の雑誌も同断だから略す)
以上はマンガと絵物語だけで、小説はふくまれていない。
“あっ、ナイフだ”
これらのスポーツが、子どもの読物の素材とされることは、大いに結構である。ところが健全なスポーツ精神を養ってくれるものなどは、ほとんどないといってよいくらいだ。どんな調子か、二、三例を上げて見よう。
下山長平『力道力松くん』(痛快ブック)は2/3頁大の見出しカットが「あっ、ナイフだ!!」で始まっており、水上生活者の子を“家無し”といじめる中学生が、それを助ける力松くんに、ナイフで突きかかるのである。そのナイフをひらめかせるタカリの場面を、このマンガはくわしく見せてくれる。
阿部和助『がんばり太郎』(冒険王)は“相撲熱血絵物語”であるが、いきなりぶつかった男たちが太郎をとり囲み、「おれ、なにも知らなかったんだよ」「なんだとっ」「やい、ふざけたやろうだ」という会話があって、いきなり「ナイフのようなものをとりだした」といった書きっぷり。
山内龍臣『大助物語』(少年画報)でも、柔道部の連中が、レスリング部の大助をいじめようとして、通せんぼをする。この時は言われたとおり大助は、股くぐりをして詫びるが、アルバイトの夜なきソバの道具をこわされ、父をけなされると、かんにん袋の緒が切れたというわけで、相手をなげとばす。とたんに「よ、よくもやったな」と、ナイフを出す……。
身近だから危険
ナイフを出すこと自体がいけないとはいわぬ。福田三省『黒帯嵐』(痛快ブック)のように架空の島での時代活劇なら、まだ我慢できるが、右例は、いずれも学校生活など、きわめて現実に近い生活の中での出来事として描かれている点がおそろしいのだ。このことは児童心理学の第一歩で、作者も編集者も先刻御承知のことだろう。
無意味なケンカ
無意味のいじめかた、あるいはむちゃくちゃなケンカは、おどろくほど多い。
茨木啓一『かちぐり選手』(少年)での待ちぶせ、福田福助『力道くん』(野球少年)下山長平『イナズマ君』(少年画報)では、いきなり挑んで、いいわけを聞こうともしない。そして、待ち伏せとなると、他の中学の飛入りが加わって、「おやっケンカか……これはおもしろい」「よーし、ケンカのやりかたをおしえてやる」という具合だ。そうかと思うと、対抗試合に、負けること必然というので、相手校の選手をヤミウチしようと、おびきよせて目つぶしをくわせる。
木下としお『いなずまくん』(少年)で、「気にくわん顔している」と言いがかりをつけ、「いいえものだ」ととびかかり、ゆえなくして試合をいどむというのは、これらスポーツものの、共通な型である。
悪例はまだある
佐藤紅緑原作・中村猛え『少年の歌』(ぼくら)も、復讐話で浅草の洋食店での刃物ざんまい。関係者以外に誰もいないのがおかしい。
瀬越憲『やはて小四郎』(ぼくら)も仇討もの。父の恥をそそぐためのはげしい修業は「かわをきらしておいて、あいてのいのちをたつのだ」とある。細島喜美『忍術どくろ丸』も復讐話だし、益子かつみ『白星くん』(おもしろブック)では、息子の負けたのに親が出て、米俵を道路いっぱいに積んで、バスをとめ、乗客の一員、白星くんと力くらべして、自分が負けたらバスを通してやろうという、乱暴なものである。
チンプなお説教
柔道ものに代表される熱血物語には、かならずといってよいほど暴力否定や正義についてのお説教が出る。主人公の先生たちは、柔術ではなく柔道の心構えを説く。それで、全体としての暴力的雰囲気が浄化されでもするかのように思っているのだから、あきれる。
古沢日出夫『こがたタンクろう』(少年週報11月フロク)では、
「たたかいはくるしいことだ…そのくるしみをぬけてこそ完成がある。それが勝負の世界だ…柔道の道だ」
「挑戦するものにはいつでもあいてになるぞ」
こうして「正義は力だ」が「力は正義だ」に、すりかえられてしまう。茨木啓一『一二の三太』(漫画王)でも、放火をあばかれたナラズモノが、しかえしをするのに「レスリングと柔道の勝負をつけて見たいのです」といわせて、すりかえが行われている。
正義でごまかす暴力
そういう力の合理化としても、もっとも劇的なのは『シェーン』や股旅物の渡世人のように、暴力に堪えにたえたあげく、正義の力をふるうという設定であろう。チャンバラものから一例をあげると武内つなよし『赤胴鈴之助』(少年画報)11月フロク)では、親友の着物と刀をとりかえそうと、鈴之助は一人で敵の道場にのりこんでゆく。「腕でとろうか…」と思っているときは母親のおもかげが「心の修行がたりませんよ」とささやく。そこで門弟一同の股をくぐり、ホーホケキョと、なき声をたてる。それがバカにされただけとわかったとき、先生の面影に「もうがまんの必要もあるまい。やれっ」とはげまされ、大乱闘の場面がくりひろげられてゆく。
甘やかしは困る
柔道物で人気のあるのは、ほとんどがマンガじたてで、迫力のリアリティーに乏しくなる。それで業のみせ場などは、マンガと銘うっても絵物語風の描き方が多い。
柔道絵物語には、永松健夫『花も嵐も』(冒険王11月フロク)、宇田野武『月影四郎』(少年画報)などがあるが、乱闘の連続で、文字通りの暴力礼賛に終っている。
われわれは、柔道物だという形式だけをとらえて、暴力的だというレッテルを貼ろうとしているのではない。柔道物が、現に子どもの心をとらえていることには、それだけの根拠がある。その質的向上のための一つの試みを山川惣治『嵐源平』や、多くの柔道物の作家・画家に期待したいのである。
細島喜美『空手の小四郎』(痛快ブック)は“熱血感激少年小説”となっているが、主人公四郎を盗人にしくんで、インチキした俊介たちは、ボスの子ゆえに、先生にとがめられなかったような書きぶりだ。
武内つなよし『鬼面山谷五郎』(痛快ブック)では、熊造という大人が、悪庄屋にそそのかされて谷五郎をいじめるが、ついに負け、益子かつみ『白星くん』(おもしろブック)でも、大人の力もちが少年に負け、下山長平『イナズマ君』(少年画報)ではプロレスラーが、福田福助『拳闘パンチくん』(痛快ブック)では柔道の鉄というナラズものが、吉田龍夫『鉄腕リキヤ』(冒険王)では、赤月龍之介という巨大空手師が、それぞれ少年にやっつけられている。きびしい現実をとらえたような読物の中では、その現実をオナミダ物などに解消し、一方、柔道ものプロレスものでは、このように甘やかしているのでは、編集者や作家・画家たちが口ぐせに言っている“子どもの教育者であり、児童たちのよき兄であり、友達でもあるのだ”という言葉はどうしたのだといいたくなる。
子どもの共感よぶ
チャンバラものよりは進歩
子どもの興味の中心が、いわゆる殺伐なチャンバラものに代って、柔道もの、プロレスものに移行しつつあるのは、考えようによっては、一つの進歩ともいえるかもしれない。
大ていの作品では、主人公の少年が、悪漢や心のねじけた武術の達人とたたかって勝つ----という筋立てになっている。そして、身体が小さくて、力は弱くても、業が身につけば、非凡な達人になる----という設定は、多くの子どもの共感をよぶ。その身についた力で、忍術や魔術・奸計など超人的な魔力によらないで、堂々とたたかい悪者をたおしてゆく----正義感と自力によるたたかい----それは、その限りでは健康な読みとり方を子どもに与えているといえよう。
ゆがめる国際理解
プロレス・柔道ものは、アメリカないしアメリカ人の登場するものが多い。
吉田龍夫『嵐をこえて』(少年画報)は、少年柔道家・新一と、レスラー・ロス・赤熊との、アメリカを舞台にしての活劇もので、それに悪漢が介入する。湯浅利八『少年拳闘王』(野球少年)は、ユタカがペリーという悪童相手の活躍をアメリカを舞台にして展開する。
東富士と力道山をもじったような少年レスラー「東力弥」は吉田龍夫『鉄腕リキヤ』(冒険王)で、空手の業をふるって大活躍をする。
土屋一平『黒帯旅日記』(冒険王11月フロク)は、「東宝柔道漫画」と銘うたれ、“日本の虎”前田六段武勇伝とうたわれている。この中に(四〇頁)次のような文句がある。
「柔道をおしえ、ひろめたいとはおもうが……見世物にまではしたくないですな」「柔道のよさを…力を…世界にひろめたいわたしには、どんな試合もよろこんで受けますが……」「全力をつくしてたたかえるりっぱなスポーツマンなら、よろこんでやりましょう」
と主人公に言わせている。これはコトバ自体立派なことで、結構なことであるが、このような類いの作品が、全体として、子どもにどのような影響をあたえるか----民族的なゆがみ、戦時中のような国粋主義礼讃一辺倒になる----という心配を拭うことができない。このことは
アメリカとの特約絵物語『ブラック・ホーク』(漫画王)の場合はっきり言える。この物語では、仮想敵軍はソヴェトの軍服と星印で、水爆によって皆殺しにあう。この作品に関する限り“偏向もの”として編集者の良心を疑いたい。
以上あげたような作品が、総じてアメリカの暗黒街を印象づけるかのようで、国際理解もこんな形の理解では困る。
実在の人物登場
だが歴史物語とはいえぬ
時代もの
チョンマゲをのっけた無時代的人物が、やたらに白刃を振りまわすものから抜け出ようとする意図は、最近若干みうけられるようになってきた。
その一つに、実存した人物を主人公にする物語がある(だがこれはあくまで歴史物語とはいえない)。一番多く目につくのは宮本武蔵である。吉沢日出夫『宮本武蔵』(マンガ・おもしろブック)小山勝清『少年宮本武蔵』(絵物語・少年)等々……。同じ系列のものには、高木彬光『堀部安兵衛』(絵物語・おもしろブック)や沙羅双樹『少年太閤記』(同・おもしろブック)久米元一『少年太閤記』(少年クラブ)中村英夫『木下藤吉郎』(冒険王)鈴木光明『織田信長』(冒険王10・11月号フロク)等々と数え切れない。
これらに共通するのは、いわゆる剣士であり、義士であり、立身出世をとげた怪人たちばかりである。
立身出世主義の偉人
これらの作品で、偉人をとりあげる態度は、彼らがいかに奇智と力を用いて、権力と結びつき立身出世をはかったかということを認め、たたえているところから一歩も出ていない。その時代背景も持たないし、歴史の流れとは全く無関係にえがかれている(年号や年代をかくことは別問題なのである)。このことは、作者が「太閤記」などの古い物語を種本にして易しくダイジェストしたにすぎないことを示すものとはいえ、作者の不勉強が責められねばなるまい。現在必要な、これに対する批判や位置づけを少しも試みようとしていない。つまり、時代物といい歴史物語といいながら、力道山出世物語となんら変りのないものといえよう。
時代がもつ歴史性を
もう一つのゆき方は、ある時代を背景に架空の人物を動かすやり方である。中村英夫『つばめ流之助』(漫画王)をみると、天正ごろの一人の武士をえがこうとしたものらしく思われるが、なぜ主人公が、こうした運命に置かれねばならなかったのかが、筋としてしか分ってこない。この時代の野武士なるものを、もっとくわしく書くことによって、この物語はもっと興味あるものになったであろう。ただ時代を設定しただけで時代物語になるというわけではないことを、作者たちは考えてほしい。その時代のもつ歴史性をかく意欲がほしい。『オテナの塔』の亜流はもう不必要である。
野心作『嵐源平』
以上のような欠点は、いいかえれば、作者がすべて古く、勉強不足であるということだ。
その中で、山川惣治『嵐源平』(少年)は“熱血柔道絵物語”と銘うってはあるが、明治維新で没落した旗本父子を描いた歴史小説的な絵物語であり、『少年ケニヤ』の作者にとっては新領域の開拓をめざす野心作と思われる。
大仏次郎などの明治物にみられるように、時の敗者が官軍や新しくのしあがった田舎武士出身の官僚にしいたげられ、反抗心をもやすといった筋立てで、社会性のある主題・時代設定であり、作中の人物にも(絵物語としては珍しく)生活がある。時代の説明にはナマなとこともみえ、主人公の少年は最初から柔道の天才として現われ、その点では『少年ケニヤ』のワタルと同工異曲ともいえるが、調べようという意欲は十分うかがえ、今後の展開に期待がもてる。
低俗にとって代る
尾崎士郎『真田大助』(五年の学習)は、関ヶ原のあと紀州へ引きこもった真田幸村、子大助を中心に猿飛佐助、清海入道などの武勇伝である。さすがに尾崎士郎らしく文章は明快で、これは講談節でなく浪花節でもない。子どものためにこうした素材をとりあげた今までの多くの作品に比して清潔で、かつユーモアがある。
会話が現代調で、たとえば、
よかったですね(佐助)おい、さがせよ。さがしてくれよ(入道)はらがぺこぺこだよ(同)
などという言葉が、そこにうまくはまりこんでいる。
素材として上等とはいえないが、これなら低俗な時代ものにとって代れる作品である。
子供にうけた作品
三町半左『少年いなずま隊』(小学六年生10月フロク)は、堺の町が織田信長軍に攻略されたときの防衛闘争のマンガ物語。架空の主人公を登場させたチャンバラ漫画の形式だが、作者が歴史観や思想を生かそうとしている努力は読みとれる。実際に読んだ子どもにきいてみると、六年生にも、もっと低学年の子にも、「とてもいい」という評判であった。
会合衆(自治政府機関)が、町の人を裏切って信長軍に屈伏し取引きするといった、時世の風刺とも見れるような複雑な事情も、子どもたちは読みとっていた。町の平和を守るために自衛のたたかいをするという主題は子どもにもわかりやすいようだ。
だが、自衛のたたかいを、副題にもあるような「七人の少年の物語」として描き、町の人びとからかけ離れた英雄になっている点は、当節の流行語でいえば「主観的な極左冒険主義」であろう。野心的な問題作といえるだけに、作者の再考をうながしたい。
同じ作者が『太閤記』(小学六年生11月フロク)の長篇連作をはじめた。筋立てに異色をみせようと、工夫をこらしているが、こりすぎたきらいがないでもない。
俗悪から低俗へ
少ないが良いものもある
幼年もの
児童雑誌は俗悪で、子どもに害毒を与えている----という非難が高まって、それに対し雑誌編集者たちは機関紙「鋭角」で躍気になって怒ったり、居直ったりしているが、われわれとしては、あくまで“児童娯楽雑誌を良いものにしたい”という意図から過去数回にわたって批判をしてきたのであって、率直に言って、「児童雑誌は俗悪だ」とは言い切らぬが、「低俗な部分が圧倒的に多い」ということ、特に学習雑誌と銘打っている小学館の学年別雑誌でも、四年生以上は、低俗な部分がはるかに多くなっているという事実だけははっきりと申しあげる。
低学年向の雑誌は、高学年のものに比べて、たしかに俗悪なものは少ないし、子どもに与える害毒はないといえよう。しかし「これはいい」といって推せる作品、記事も案外少ないことは事実である。
推せる幼年向作品
まず推せるものを挙げよう。
土家由岐雄『ゴンじい先生大旅行』(三年の学習)は、なかなかいい作品だ。高学年の雑誌になかなか見られないような、意欲と創作性がある。
小川未明『遠い北国の話』(小学三年生)は、未明としては珍しく連載の生活童話である。こんな開拓をしてくれるのは、低調の児童文学界に、やはり意味のあるしごとといえる。
筒井敬介『おなかをわるくしたよしえちゃん』(小学二年生)は短篇だが、二年生の生活に密着した、しかもユーモアもあり、ゆかいな生活童話である。こんな調子の連載はできないものか。同誌の森いたる『でぶくんやせくん』もいい。
浜田広介『おとなりのはと』(小学一年生)は、文も美しく、広介童話のひとつとして、すすめられる。詩のようだ。安奈の絵も良く、何か新しいさしえの形になりそうである。この雑誌には、一年生向として他に、とりたてて秀れた作品も、わるいという作品もない。
欠点はあるが…
次にやや良い点が見出せるものをあげてみよう。
白木茂『ぞうのおうじ』(二年の学習)は、いささか文章に味わいがなく、解説調であるが、まず健康なものといえ、また和田義三の絵を見せる作品でもある。白木茂の作品として、よい動物童話として発展させてもらいたい。
住井すえ『大きなおみやげ』(小学三年生)は、農繁休みに家の手伝いをしながら、機械を作る人になる希望を話す子ども----というだけの話。まず無難である。しかし文章が説明調で、子どもも躍動していない。
那須辰造『川舟の子どもたち』(四年の学習)は文章のはこびがきびきびしていて快い。が、追跡の場面などを、これほど強調するのはわからない。今後に期待する。
長尾宏也『尾白ワシのしゅうげき』(小学四年生)は動物ものがたりで、短い作品であるが、人間の闘争を鳥獣に移しただけではない。北国の自然の風景がかかれており、尾白ワシの本性が、闘いの意志を通して書かれているからである。文章も、てきぱきとして、活劇調でない強さを出している。ただ、これが短篇の動物ものがたりに終っているのは惜しい。
惜しまれる失敗作
吉田光一『北海の子』(幼年クラブ)は、極北に近いらしい場面で、敵味方がたたかう物語。海上や雪の中ということに新しさがあって、期待されるものもあるように思えたが、闘争のくりかえしに終っている。山犬に襲われた時、かつて世話してやった片目のジム(山犬)が、少年を思い出して、仲間にたちむかい、少年を救う話があるが、こんな所がストーリーの山になれば、もっと見直せるような物語になったのではいか。
【少女ものについては七面に掲載】安直なすじがき
おセンチ・活劇ものに堕す
少年小説
まず代表的なものとして、いわゆる熱血小説がある。
牧野吉晴『天馬少年』(冒険王)は“正義熱血小説”と銘うたれている。この作者は、現在少年小説を各誌に書いており、最も活躍している一人だが、総じて、ひどい俗悪さがないのはいい。しかしレベルの低い作品である。
さらわれた小天花を救うためにのみ話がすすめられている、といっても過言ではないような作品で、大人のための大衆小説ならばいざしらず、少くとも少年小説であるならば、もう少し、少年少女の生活や、人間の生きがいや、社会のありようが描き出されて然るべきであろう。
いくつかの事件が起伏して、興味をさそうことはたしかだが、どうも無理な設定と、燃焼の不足が感ぜられるのは、多作すぎるためであろうか。
編集者の意図に疑問
同じく牧野吉晴『熱血の歌』(少年クラブ)は“正義小説”とあるが、未だ抜けきらぬ活劇の売ものである。谷俊彦のさしえも気品がない。この小説に対して読者の「どうかあまり健ちゃんをくるしめないでください」という手紙が載っているが、これは作品の方向をよく物語っているようだ。このような手紙は「まだくるしむ小説なんだぞ」という編集者の売り出しでもあるということを考えると、編集者の意図・態度に「これでいいのか」という疑問も出てくる。読者の手紙を編集者は、もっと大切に、そして真剣に分析し、自らの良心(機関紙「鋭角」で盛んに強調しているが)に照して、少年少女小説のもつ課題を掘り下げてほしいものである。
さらに牧野『太陽の子』(少年)では、広島の子どものために帰ってきた秋本先生が、大上徳べえから悪に味方するか、さもなければ広島から出ろといわれて「大上が暴力をふるって広島から追い出そうとするなら、正義のために、大上組を相手にして戦う」と言わせている。重大な社会的な問題を、一個人の英雄的なセンチメンタリズムにすりかえてしまうのだ。
これらの物語が、せっかく良いところをねらいながら、おセンチものになったり、活劇ものになったりするのは、まことに惜しいといわざるを得ない。
名ある作家でも…
柴田錬三郎『熱血行進曲』(少年画報)は“立志小説”ということになっているが、一応作家として通っている(この作者は直木賞受賞)人たちが、どうして筆をそろえて少年雑誌に、こういうものを書くのであろうか。
悪漢団(自由アジア団)のお国のっとりの活劇だが、これに立ち向かう日本少年清。白石大造は「バカな、きみのような少年の力で、どうしてとりかえせるものか」と言ったのに、清がツバメを生けどりにして見せただけで「うーむ、きみは剣道の達人だ!」と感心して許すといった安易さ。
一人でのりこむとき、「おにいちゃん」とよばれ、せがまれて少女を一人つれていく。せっかくとりもどした黄金の象も、この少女の手足まといのために再び、とりかえされそうになる----すべて、運びが安直きわまりなくできている。
このような筋立てで、読者の心をおどらせていたら、どうなるだろうか。「娯楽よみもの」だからといってすませられるものであろうか。
作家として評価できる人だけに、「子どもの誠実のあらわし方や、生活の向上はどこにさがし求めたらいいのか」と言いたくなる。
成功した熱血小説
同じく文壇作家の熱血小説として、田村泰次郎『ぼくらは負けない』(野球少年)がある。主人公の小太郎は愛犬ロンと朝鮮から引揚げるとき、黒眼鏡の男に、手紙と首輪に秘密書類をつけたものを頼まれる。日本に着いて母をたずねるわけだが、それに秘密の書類を取ろうとする男、小太郎をたすける「ハトの会」の友だち、牛飼いの壮太などが登場する物語。
小太郎の協力者として「力道山」が登場するが、力道山が試合前にテレビに現われて小太郎を紹介し、母をたずねる場面は、いささか唐突で安易であるが、ありそうなことであるし、子どもにはまっとうに受け入れられそうだ。現実のことと物語とが、たくみに織りまざって、いやみもなく、おしつけもなく、すすめられている。こんなところに、熱血小説の可能な線もあるかもしれない。大いに研究すべき作品といえよう。力道山をバカげた英雄視(力道ものの読みものは大ていそうなっている)していないのもいい。
描写も、例えば、川べりに野宿しようとして、だれもいない遊園地のブランコにのってみる場面など、子どものものになっている。概して文章は、淡々としたはこびで、さらりとし、しかも興味ぶかい。ストーリの運びが書きこめられている。
少年小説の共通欠点
以上の二、三例を見ても分るように、熱血小説といえば、1・かならず大きな男、つよい男、わるもの、悪党団があり、2・対抗するのは少年、しかも一人のことが多く、3・それに少女がからまり、4・大人たちが平気でその少年を危地にやっているし、5・レスリング、拳闘、柔道、剣道が必ず出てくる----といった組立てになっている。
少年たちの身近かなもの、親近感をもつ場面で、まっとうな熱血をわかせることが少ないのは、今日大部分の児童向小説の大きな欠点である。子どもの場合、こういった作品を読み重ねていくと、つくられたものと現実との区別は小さくなって、心へのひびきが大きいことと、考えあわせなければならない。
清潔で明るい作品
スポーツ感激小説と銘うったものに藤沢恒夫『この旗のもとに』(五年の学習)がある。これは城南校と双葉校の野球試合を背景にした作品で、いい少年小説である。清潔で気分が明るい。月並みな言いまわしの作品の多い中で、これは珍しく文芸作品らしい配慮で書かれている。
ただ、今日の強い刺激になれている子どもたちに、この淡々とした手法が歓迎されるかどうか疑問である。今後の読者の開拓が伴わなければ折角の作品が生かされない。この作者あたりに、このような少年小説をさらに押しすすめてもらいたい。今日の児童読物の活路であるといえよう。
出そうとした新味
“少年感激小説”小山勝清『山犬少年』(中学生の友)は、山犬とむすばれる少年を描いた点、一寸めずらしい。人間同志が闘争をくりかえす熱血小説、闘争物語とややちがって、作者が新味を出そうとしている意気がうかがわれるとはいえ、山犬の酋長といわれる白毛の犬などは、いささか作為が見えすぎるし、「山の証文」をもち出して奪い合ったりするのは探偵小説めいて、ごたついている。
良い作品とはいえないが、まず従来の俗悪ものにとって代る段階に来つつある、とはいえよう。
なお「中学生の友」には、良さそうな作品としてあげるものが、他にないのはさびしいことだ。
魚博士の感激小説
“感激小説”と銘うったもので科学的な要素をいれた末広恭雄『サーカス水族館』(六年の学習)がある。魚博士の作者らしく、型のかわった科学小説といえるので、簡単に筋を紹介してみよう。
原爆孤児川上士郎は上京して、不良仲間に入るが、金魚をおどらせる老人(三浦博士)に心をひかれて不良をやめる。三浦老人をたずね、金魚のしこみ方などを教えられる。三浦老人----大学教授であったが、バイオリンで金魚をおどらせるとき、悪い教授が弦を半音づつ下げておいたため金魚はおどらず、それがもとで彼は辞表を出し、研究生活に入る。十二月号では「金魚のスターたん生」という映画をとるため上京するところまでになっている。
この作品は、正義感や温情、自然への愛情なども語られ、興味もあり、文章もいい。低級なよみものに、すっぱりととって代る作品である。科学者の書く文学作品、こんなところに子どもの良い読みものが生れはじめていることに注目すべきだ。
探てい小説は落第
少年小説のひとつとして探偵ものがある。
島田一男『猫目博士』(少年画報)同『暗黒十字星』(冒険王)江戸川乱歩『海底の魔術師』(少年)武田武彦『地獄の魔王』(痛快ブック)などはいずれも“探偵小説”と銘うっているが、このほか“大冒険小説”久米元一『覆面探偵』(少年画報)“科学絵物語”小松崎茂『大暗黒星』(少年)も一応この部類に入る。
これらは、相も変らぬ怪魔的なものの活躍である。乱歩がいくらかましなくらいで、あとは推理もなにもない。さらい、さらわれが中心で、宝ものさがし。そうかと思うと、冷凍人間の研究とか、宇宙線バクダンとか、そのこと自体ヒューマンなひとかけらも持ち合せない。
純情に訴えかける
感動的だが恐ろしい影響
戦争もの
いわゆる戦争物といわれるものに、棟田博『燃える大空』(少年クラブ)がある。未来戦とか宇宙戦争などを扱った作品は多いが、太平洋戦争と真正面から取組んだ作品では、これが代表作である。戦記小説の作者としては年期が入っているので、部分的には少年たちの純情に訴えかける描写の真実性で迫るものがある。中学生の意見をきいてみると----「七つボタンの歌」をとってもいいと言うし、こういう小説には打たれるらしい。少年たちは、一方では平和がいいと思いながら、こういう張りのある、意地っぱりな男の世界にあこがれ、戦争というものを勇ましい場面としてだけ考え、心ひかれるものらしい。
戦争中の少年たちも、このように純粋な、単純な動機を、あのいたましい特攻隊の尽忠報国に育てあげられたのだった。
この小説が感動的であればあるほど、影響力のおそろしさが思われてならない。作者は十一月号で実戦部隊に出る日も近い主人公の少年に、こう言わせている。
「世界じゅうが、仲よく、ともに助けあってくらすようになる日を、ぼくは今、どんなにか、ねがっているかしれないのに」
ここには二重の問題がある。敗戦日近い少年航空兵に、このような考えがあったろうか、ということ。不幸な時代の少年をリアルに描こうとせず、今日の時勢に戦争中そのままを肯定的にかいて、再軍備風潮に手助けするなかで、とってつけたように、こんな言葉をさしはさんでいることを、作者はなんの責任も感じないでいられるのであろうか。
ひそむ危険な問題
戦争ものとしては、やはり年季の入った小松崎茂『大暗黒星』(少年)がある。これは、おそろしい遊星人が地球を攻撃する----という、国と国との未来戦を変形した戦争ものであるが、全篇をとおして、子どもに、戦争の恐ろしさを教えるものでなく、熱血!として描かれていることに注意されねばならない。
遊星人のロケット隊と戦うのは日本少年高田わたる(少年ケニヤの主人公と同じ名)である。気の弱い池田少年の代りに飛び立つわたる少年----友情・犠牲の精神を説くわけだが、こんなきわどい命のせとぎわで、子ども(少年)の友情が語られるのは危険である。単なる任侠に堕しはしないか? 戦争にたいする子どもの任務というものを、どう考えたらよいのか。そのわたる少年が「みなさんとおなじ年ごろの」と説明され、読者に「血わき肉おどる」戦争として密着させられていることに問題がありはしないか。
この作品の文章表現は、非常に概念的で、戦争ものの類型にはまりこんでいる。
戦争のすごさだけが、あおりたてられ、戦争を興奮にまきこむ文体でもある。平和を求める雰囲気が消えている。
「おかあさん、さようなら、ぼくは----死ぬかもしれません。ぼくは、おかあさんとふたりだけの、たのしいしずかなくらしがしたかった。でも、高田が死ねば、ぼくも生きておりません。ぼくが死んでも、かなしまないでください。おかあさん。」(池田少年のセリフ)
この少年のなげきを、読者はどううけとるか。
また、遊星人は原子力攻撃をしてくることになっているが、このような場面を、作者は自信をもって書いている。事実作者は十年もたてばこんな戦争になる----と断言もしている。だが、今日、現実に原子力についての国際会議で、平和利用や、戦争への使用禁止へ動いていることが、はかないものになってくる。
宇宙を舞台の豪壮な物語にしてからが、戦争や探偵ものにおわっている。結局、科学は闘争の用にたつものでしかない。衛星をつくり、自由に宇宙を飛びまわる如くに、自在に、人命をもてあそび、人権は無視される。まだしも土人ものの方がいただける----と言いたくなる。山川惣治、阿部和助などの最近かくものの方が、これらよりは、かなり健康的である。すべてが偶然で
病的な宿命に憧れさせる
少女小説
原淳一郎『空はみどりなり』(少女)の主人公は月丘露子で、父は亡くなり母は行方不明、それをいじめる少女田鶴子----といったお膳立て。別れ、めぐりあい、スレ違いのメロドラマである。ここまでなら、小学五、六年の子どもが立てそうな物語の構図である。文章も同様で“作文”の域を出ない。
“待って、露子ちゃん!”
血をはくようにさけびました。
しかし、おそかったのです。
どっとあふれる悲しみの涙。あきらめるには、あまりに身ぢかにいた露子のすがたに、おかあさんは、くちびるをふるわせて涙にむせびました。
紙芝居の小父さんの文句と変りない。
このような作品は、生活上のこと、事件などが、すべて偶然で支配され、別れた人はどこかで会うように出きている。会いそうになるとまた別れる。困った時はだれか救う人が現われる----自分の人生をそのように思いこんでくる少女が出来てしまう----という心配に、作家や編集者は、どのようにこたえるか。
ありふれた作品
北条誠『美しき涙』(少女ブック)は“純情絵物語”である。主人公ユカリは幼くして母に別れ、ふとしたことからオバサマとハルミを知り、親しみをいだく。ユカリは自分が読んだ少女小説に身の上が似ているところから、オバサマが母ではないかと思う。ところがオバサマは片山早苗という名ピアニストで、近く海外へ行くので左様なら演奏会をひらく。ユカリは早苗に会いにゆくが、お豊ばあやが「ユカリに親切にして下さるな」とと早苗に頼んであるので、早苗はつんつんしているが、ユカリにかくしきれない気持が見え、ついにたおれて病気になってしまう----といったあらすじ。その場面を紹介しよう。
片山早苗は、あいかわらずつめたい顔で、じっとユカリをみつめていました。
が……やがて、その目が、かすかにうるんで
『ユカリさん……』せつなくあえぎました。
『だめ、私にはいえません』
『おねがいです!』
と、いうせつないユカリのさけび声に
『かんにんして……』
北条誠をわずらわさなくてもと思える、ありふれた作品である。
「少女ブック」にはこのほか大林清、菊田一夫、北村寿夫、堤千代が少女小説を書いている。
プチブル的に描く
大林清『なつかしの花園』(少女ブック)。主人公堀田美沙は姫百合女学園の初等科生で、お金持の娘。その友人優木志津子。校長先生のお誕生日を祝う演芸会に、劇をやることになっているのだが、主役の志津子が母のために出演できない……という構図で話がすすめられている。
ストーリーは平凡ながら、変なこじつけや、きらびやかさがないだけ、良の部に入りかけそうな作品といえる。
前の北条誠にしても大林清にしても、不幸である子も、貧しい家の子も、ふつうの子も、なんとなくプチブル的に描かれているのはどういうわけか。これらの少女小説に現実感が出てこないのは、そうした所にも原因があるようだ。
感傷調で書き綴る
絵物語だが、菊田一夫『白馬のゆくえ』(少女ブック)----あらすじ----真弓の父は仕事に失敗し遠くへ行ってしまい、母も家を出てしまう。真弓はその実家をたずねるが、母はおらず、見知らぬ町をトボトボとひきかえす。貧しげな老婆にすくわれる。ところがこの老婆は----「ああ、真弓をたすけてくれたろうばは、女の子を使って花売りをさせる女でした」そこで真弓は逃げる----切符なしで汽車にのりこむ----流行歌手のおねえさまに救われる----母を見たように思ってかけだす……。
このような作品には新しい設定で作者の心を読者につたえたいというところもみられず、ああ、こうと安直に仕組んだストーリーだけが、作者の頭にうかんで、それを感動のない(あるごとく見せかけた)感傷調でさらさらと書きつづっているだけの作品だ。
俗悪だとは言わぬ。読んですぐ少女たちが不幸になるとも思えない。しかし、もっと考える作品、高いところで、読者をひっぱってゆくものを書いてもらえないか。子どもの作品は、大人のものより力を落して書いているように思えてしかたがない。
文章感覚の悪影響
同じく少女絵物語で、北村寿夫『母の湖』(少女ブック)があるが、これも同巧異曲のストーリーのむしかえしにすぎない。しかしドラマチックで波乱にとんでいることが特色である。文章はやさしくかいてあるけれど、文脈、文のにおいは大人のものだ。少女たちの文章感覚が、これらの影響を強くうけるとすれば困ったことだ。
不幸な宿命を背負った少女ばかり出てくる小説----センチメンタルは、今の少女たちにあってもよい。なければむしろ不健康といえるかもしれない。しかし、病的な、宿命的な、そんな悲劇的なものにむしろ憧れるような人情を育てる作品を、われわれとしては歓迎できないのである。
こまやかだが平凡
死者にむちうつのは不本意だが、堤千代『すずめ待てども』(少女ブック)はこの作者らしく、こまやかなはこびをもった文章だが、どこが作品のおし出しかはっきりしない。ただ起っては過ぎてゆく小さな事件、あわい生活のあとを読みたどって、読者たちは気をまぎらす程度であろう。高いヒューマニズムも、センチメンタリズムも滲み出ていない。可もなく不可もなしといった作品。
力を落す文壇作家
以上、「少女ブック」に掲載された作品を見てきたわけだが、この雑誌は、知名の文学者に多くかかせているが、全作品を通じて、われわれの期待に応えてくれる作品はなかった。いうならば、低俗そのものを売りものにしている傾向が減ったということ、ふつう平凡な作品になりつつあるというのが“悪しき進歩”といえばいえる。
上述のような、一応文壇に名の通った作家が、かかる少女ものを書いているが、いったい読者の読みどころはどこなのか、どんなことを与えようとしているのか、作者たちにききたいものである。
社会的関心の欠如
物語の良否は別として、藤子不二雄『母の呼ぶ歌』(少年)はマンガ形式だが、母の遺産の山に、ウラニウムが豊富なことに目をつけた悪社長が、横領しようとするのを、純情青年がはばんで、悪人をとらえる----という話。同じくマンガ物語の高野よしてる『おセンチ交響楽』(少女クラブ)では、少女歌手が、親のない子どものために「少年の家」を建設してやる。ここでは商売の鬼の支配人も、人情の暖かさにまいって善にかえる----というような、社会的な問題を中心に物語が始められている。
ところが、二友長半『歌のつばさ』(少女ブック)になると、食堂ガールの友だちの投書一枚をみて、デパートの主任が食堂ガールをくびにしてしまう。そして、おさだまりのかどわかしがあり、売られることになる。前述の菊田一夫『白鳥のゆくえ』(少女ブック)も、花売娘とそれをあやつる老婆たちの事件を、エピソードとして入れただけで、筋は主人公の行動中心に運ばれているにすぎない。読者である子どもは「なぜ警察に行かないんでしょう?」という疑問を大部分がもった。これは作者の社会的関心のうすさを示したものといえるのではなかろうか。
日常の新聞にみる、家出娘や、売春少女の記事にいだく気持は、「何とかならなかったか」ということだが、これらの読みものは、悪者につかまったら、どうにもならないのだ、と読者に考えるようにさせなければ幸いだ。
ほめたい少女ものは
こういうものを増やしてほしい
「女学生の友」では、多くの連載少女小説がのっているが、とるべきものはない。辛うじて短篇の読切少女小説、三木澄子『花とパンの日』がある。これは、担任の女先生が、その月誕生の生徒を第一日曜に家によぶことにしている。たまたま十一月は、嫌われ者で成績がビリの信子と、男子ナンバーワンの隆、当の先生の三人が誕生月で、招かれているわけだが、信子は家事が忙しくてゆけない。そこで先生と隆がきて、店を手伝う----これをきっかけにして、級友も、信子のよき友だちになるだろいうという話。
文章も、まずまずあくどくないし、物語としては他愛ないけれども、ありうべからざる架空ものより、前進している。
そして、成績最低の子を出していること、先生の愛情みたいなものが出ていること----この二つをとるのである。
ありふれた設定
西条八十『母よぶ時計』(小学四年生)にしても、悪者、秘密、誘拐……西条八十ともあろうものが、相も変らぬ設定ではある。
田島準子『緑いずこに』(小学四年生)は“父のゆくえをさがしに東京へ出てきたルミ子とミチルの悲しい物語”。北海道から美しい女の先生----いじわるな同級生----母の病気----こういった少女小説の要素が、ここから抜け出すときに、新しい作品となるだろう。
主人公の名前にしても、ルミ子、ミチル、ユカリ、マユミといった名や、宝塚調の名のつけ方で、おおよそ、バカげたものは見当がつくのも皮肉である。
本格的な少女小説
以上、賞めようと思って、いくらかましな作品をえらんで取り上げてきたつもりであるが、御覧のような悪口を言わざるを得ない結果になってしまった。そこで、まあ良いものとして推せるものを以下にあげてみる。
富沢有為男『山のさっちゃん』(少女ブック)は長い連載だが、プチプルで、悲劇の主人公で----といった少女ものの多い作品の中で、これは“山のさっちゃん”を登場させ、東北地方を場とした珍しい作品である。“海のさっちゃん”が仲良しであるという構想もいいし、馬の子が生れる話や、山崩れによる洪水を知らせるため川下の町に馬を走らせるさっちゃんのいき方など、山奥の村に、はつらつと生きる少女を描いており、夢や美しさをも忘れず、といったぐあいで、連載の今後も期待される。本格的な少女小説と、敢てよんでおこう。
よい明朗少女小説ユーモアというより明朗少女小説ともいうべきものとして、飯沢匡『トマトさん』(少女)がある。トマトさんとあだ名のある少女、走るのが速く、負けずぎらいで、ちょっとばかりウソも言い、さあとなると、少女らしい心づかいも出てくる。いたずらに紅涙をしぼろうとするおセンチの少女小説より、この『トマトさん』あたりに、今の新しい少女像が描かれているのではなかろうか。
良いおテンバもの
NHK連続放送劇「青いノート」からとった乾信一郎原作・竹山のぼるえ『夢みる愛ちゃん』(少女ブック10月号フロク)は、マンガ形式のおてんば娘行状記だが、愛ちゃんの無邪気ないたずらや、はねまわりの展開である。なによりも、そう甘やかしていないのがいい。男のようなのを心配する一家の、愛の眼で見まもられる愛ちゃんの、開放的な動きの中にも、女らしいやさしさをうまく出している。
最近うり出してきた手塚治虫の『そよ風さん』(少女)も、女の子のおてんばを扱ったものだが、子どもたちには人気がある作品。今日の女の子は、メソメソしているのを心よく思わないという点も相当ある。彼らは、物語りによる感動と、オセンチのメソメソをちゃんと区別している。手塚治虫が、『そよ風さん』そのほかの新作において、作風に変化をつけようとしている努力は買われる。実験室風な作品としておもしろい。
活路見出すマンガ
入江しげる『めぐみちゃん』(りぼん)は登場人物が生活をもっているという点では、この種のマンガとしては異例である。いままでのマンガの多くが、無生活無国籍あるいは夢のような豪奢な生活をしている人々のみであったのと比べて一歩進んだものと考えてよい。ただ、この点----生活の中にある、現実的なおもしろさ、希望、愛情などというものを、もっとふかく掘り下げるわけにはいかないものだろうか。ここにマンガのひとつの活路が見出されるといえよう。
同じ作者の『すみれさん』(少女ブック)も、マンガとして中学生活のリアリティや親近感がある作品といえよう。
ついでに、少女ものではないが、マンガとして良いものに----
馬場のぼる『カラスのとん平』(六年の学習)は、最近、マンガ家として注目されているこの作者の快心の作と見える。このマンガの絵には素朴さがあり、むしろ土くさいけれど、下品ではない。清潔でもある。ただ、バックなどにリアルな描写のカスみたいのが残っているのが気にかかる。ユーモアめいた文章のはこびもなかなか達者。佳作。
また山根一二三『のんきなトン兵衛』(おもしろブック)も、ユーモアがあり、ヒューマニズムも感じられる。
誤まれるクスリ
少女マンガで、やはりおてんば娘行状記ふうのものに、大友朗『おてんき姫君』(少女クラブ)がある。これは、すべて大人を軽べつすることの上に立っており、女性の優越感を満足させる----というところに、くすぐりを持たせた作品。殿様は恐妻家で、奥様が絶対権をもち、姫君も父をバカにしているという話だ。
これに対して、男性がわの場合は、身分的な優位をもって、権力によって女性をおさえるといういき方も多い。一例をあげれば、夢野凡夫『とんてんちゃん』(少女ブック)である。
この作品の中で、失敗から起す物的損害や、物の価値の軽視に対しては、もっと心を配るべきである。
家出、誘拐の悪用
少女もので、さらに指摘しておきたいことに「家出」と「かどわかし」の問題がある。
原口透谷『母よいずこ』(痛快ブック)というのがある。これは“感動絵物語”だそうだが、捨てられっ子のさち子が、父母を探しに、ひとりで東京行きをする。車中の黒メガネ(実はスリの親分)に親切ごかしにさらわれるが、婦人警官の手で、父と再会できるという話。家出については何の心づかいもない。
総じて、家出は正当化されている、というのが雑誌の現状だ。
二反長半『母を呼ぶ鳥』(なかよし)という写真物語は、先生に引き取られている澄子が箱根へ旅行にいって、友をたすけるが、その時のやさしい婦人が母だとわかって、箱根へ出向く。そして芝居小屋へ売られることになる。
同じ作者の『花びらのうた』(りぼん)は、仲よしのとよ子がいなくなるが、ひろ子が箱根へ遠足のとき、湖畔でおどる旅芸人のとよ子を、船中から見つける。家に帰ってから、とよ子を見つけに母と箱根へ行くが、わからない----という似たような筋立てを書いている。ここでも、売られる、さらわれる、である。
例に「りぼん」をとって見よう。さらわれる話は、写真物語『まきばのうたごえ』、益子かつみ『かなりやさん』、母をつれ去られる話では南村蘭『さくらひめ』、菊田一夫『こばとはどこに』、松沢のぼる『ははをたずねて』など曲のないことおびただしい。なぜこうも安易で、不勉強で、子どもをバカにしているのであろう。
これらの家出と、かどわかしは、ここでは「かわいそう」として受けとられる。三面記事をかざるこれらの事実への、子どもの啓発には、考えも及ばないらしい。
ということで、ざっくり紹介してみましたが、いい読み物も悪い読み物も、今ではほとんど実物を読むことが不可能になっているところが面白くも残念なことでもあります。
半世紀前は、少年少女の数が多かったんだろうなぁ、としか…。
「悪書追放運動」に関するもくじリンク集を作りました。
→1955年の悪書追放運動に関するもくじリンク