1954年4月当時の手塚治虫に対する週刊朝日の評価

 1950年代の「子供向け有害図書(主に漫画)に関しての話を少し掘り起こしてみたくなったので、このタグでやります。
 ていうか、ほとんど「1955年の悪書追放運動」について。
 この話は、以下の日記の続きです。ていうか、そこに書いた週刊朝日の記事関係。(『週刊朝日』4月11日号)
1955年の漫画バッシング(悪書追放運動)について
 

知られざる二百万長者 児童マンガ家・手塚治虫という男
 
宇宙船、電気銃の活躍
 
 大阪人を、アッといわせた男がいる。
「こんなケッタイな(妙な)名前の絵かきさんは、知らなんだなア」
 関西の税務当局が、さいきん発表した長者番付の、画家の部の筆頭に、年収二百十七万円、第二位の和田三造の百十四万円、第三位の小磯良平、第四位堂本印象百万円等を軽くしのいで、昨年度第一のもうけ頭、手塚治虫(てづか・おさむ)というのが、その男だ。
 が、手塚治虫という、この妙な名前を知らないのは、大人たちだけだ。試みに、貴方の子供たちが読んでいる雑誌をとって、ページをくってご覧になればよい。ほとんどの児童雑誌で、手塚治虫の名がのっていないものは、ないはずだ。
 一例をあげてみよう。
 少年(光文社発行)の最近号をみれば、「鉄腕アトム」というのが載っている。アトムという少年人造人間が、人間の隊長となって火星に遠征し、ほかの天体から地球を襲おうとするヒトデ形の怪生物と戦う話である。ロケット、人造人間、電気銃、宇宙船等の科学兵器が、縦横に活躍する。
 同じようなマンガが、多くの児童雑誌にのっている。ロック冒険記(少年クラブ)、ジャングル大帝漫画少年)、ワンダーくん(おもしろブック)、リボンの騎士(少女クラブ)を始め、少女、少年画報、冒険王、漫画王等の雑誌に、手塚治虫の名をみないことはない。
 山川惣治小松崎茂等(本誌1月17日号参照)の、絵物語作者とともに、手塚治虫もまた“童心の英雄たち”をつくるものの一人なのだ。
「やはり、手塚先生のものを、一本のせないと、子供には受けませんなア」
 ある児童雑誌の記者は、こういうのである。その記者は、東京椎名町の、彼の宿であるアパートの前に社旗をたてた自動車を停めて“先生”の御帰りを待ちくたびれていた。とにかく、一たんこのアパートに彼が現われると、各雑誌社の奪いあいである。見付けたものが、すぐ連れだして“都内某所”にカン詰めにしてしまう。この、争奪戦が昂じて、ついに記者同士の、乱闘騒ぎまで起ったそうだから、まずは“花形作家”に間違いない。もっとも、近ごろ各社の協定が成立して、毎月の仕事の順位を約束したそうだが……。
 
昆虫好きの医学生
 
 ガタピシしたアパートの、机に本棚だけといってよい、六畳一間の一室で、深夜ペンをとるこの“花形作家”は、地味な紺の背広にベッコウ縁眼鏡、細面の一青年にすぎない。大正十三年十一月三日生まれ、というから、今年二十七歳。「手塚治虫とは、妙な名前ですね」
 と尋ねたら、こう説明してくれた。
 子供の時から昆虫が好きで、ことにオサムシ類という甲虫の一種族を愛好し、その感じも似ているところから、友達からもオサムシというアダ名をもらっていた。明治節生まれで本名は治というが、その下に虫の字を添えてペン・ネームにした、というのだ。
 この虫好きの少年、中学校時代からマンガをかくのが得意だった。別にマンガ投書家ではなかったが、自分のかいたマンガを友人の間で閲覧したりしていた。子供の時からの動植物好きから、医学への途をえらび、大阪大学医学部在学中に、このマンガがどういう訳か、毎日小学生新聞に認められて、昭和二十年に、三ヵ月にわたり同紙上に「マーチャン」という連載マンガをかわれた。これが原稿料をもらった最初だ。その後、京都で出されていた「世界の子供」等の児童雑誌に寄稿したり、大阪の出版社から「漫画大学」「月世界の少年」等の単行本を出しているうちに、東京の学童社社長加藤謙一氏に発見された。
 加藤氏は、古い少年倶楽部の編集長で、戦後講談社から独立して学童社をつくったが、いまは講談社顧問に帰っている、児童雑誌界のベテランだ。
「これは売れるゾ」
 編集者の目に、狂いはない。阪急沿線宝塚に、両親や弟妹と暮していた一医学生を、東京の出版界の渦中に、引張りだした。それから五年、東京のアパートに二十日、宝塚の自宅に十日といったような生活が、始まったのだ。師匠もなく、正式に絵を習ったこともない白面の一青年が、一躍児童漫画の第一人者になってしまった。
 
ディズニー張り描写
 
 五年間にわたって連載された「ジャングル大帝」(漫画少年・学童社)は、さいきん完結したが、親子三代にわたるライオンの物語である。その彩色の仕方、登場する動物の表情、クローズ・アップと、ロング(遠景)の用い方等、どうみても、ディズニーの天然色映画ばりである
 事実、
「私の尊敬する人物は、ディズニーだけです」
 と彼もいっている。
 この青年、非常な映画気違いで、このあいだ勘定してみたら、この一年間に三百本以上の映画をみていた、という。ことに、ディズニー作品には熱心で、バンビは、映画館の中でパンをかじりながら一日五回連続みたのを最高に、合計八十回みたというし、白雪姫は五十回だ、といっている。
「私の求めるマンガの世界は、ただ笑いだけでなく、涙や夢や、もっとイデオロギーのある世界です。現代のジャーナリズムは、しかし、こういうものを認めてくれません。ディズニーだって、アメリカの商業主義に圧迫されて、長編物を作るようになってからは、次第にことなかれ主義になってきましたね。ジャーナリズムが、私に要求するものは、一番読者にうける傾向を、よせ集めて書いてくれ、ということです。例えば、ピストル、乱闘、すれちがい、涙等……」
 この要望にこたえてか、彼の作品にも、電気銃、奇妙な宇宙人、ロボット、科学兵器が活躍する。
「が、いま私のかいているものは、科学マンガではありません。あくまで、一種のおとぎ話であり、魔法使いの話と変りはない。ただ、その底を流れている、イデオロギー的なものを、子供たちが分ってくれればと思います。だから、私のマンガは小学生にはわからないでしょう。ファン・レターも、中学生、大学生や父兄等から多くきます」
 
マンガによる科学書
 
 こういう彼が、「ファウスト」「罪と罰」等もマンガ化してる。「罪と罰」では、原作とちがって、大通りで地に伏して罪を告白するラスコリニコフが、革命後の廃墟に、ただ一人生残るのが、ラスト・シーンになっている。「安っぽいヒロイズムは無意味である。英雄も革命の前には抗しきれない」という、彼一流のニヒリズムが、このマンガを通じて流れている。冷酷に人間の死があつかわれることも、彼のマンガの一特色だ。もっとも、この本はあまり売れなくて、失敗したそうだが……。
 ということを、しゃべりながら、彼のマンガは、やはり圧倒的に子供たちに受けている。彼自身はその秘訣を、
「たんなるナンセンス漫画でなく、ストーリー性をもつこと、絵をキレイでモダーンにかくこと」
 といっている。
「さいきんソ連の科学者も、宇宙旅行協会を結成し、最初に月世界へ行くのはソ連の宇宙船だ、とアジッっている。この世界を通じての“宇宙旅行”、これを巧みにとらえて、子供の空想を刺激したのが手塚治虫のマンガだ」
 という見方をする向きもある。
「児童マンガ家の盛衰ははげしいですが、好きな道は続けたい。私のやりたい仕事は、マンガによる科学書、これまでのようにコウトウムケイなものでなく、自然界の事実をマンガ化する、ディズニーの"自然の驚異"シリーズのような作品をつくりたいことです」
 ほう、生真面目に答える彼は、やはり花形画家手塚治虫ではなくて、医学士手塚治虫の印象だった。(本誌・足田輝一)

 まあ書いてあることは、手塚治虫についてある程度知っている人なら知っているとおりのことです。
 インタビューした記者の名前で検索したら…。漫画ではなく自然観察のほうが趣味の人(理系)のようです。
足田輝一 プロフィール - あのひと検索スパイシー

1918年兵庫県生まれ。北海道大学理学部卒業。朝日新聞社入社。定年退職後はナチュラリストとして自然探究の生活をおくる。著書に「雑木林の博物誌」など。95年没。

自然有情―雑木林の花や虫たち

自然有情―雑木林の花や虫たち

 ついでに、当時の「長者番付」、関西の「画家の部」で名前が挙がった人のウィキペディアにリンク。
和田三造 - Wikipedia
小磯良平 - Wikipedia
堂本印象 - Wikipedia
 ちなみに、このときのインタビューに関して、手塚治虫は以下のように書いています。『ぼくはマンガ家』(復刊本・2009年毎日ワンズ、元本は1969年)p191-192

 昭和二十九年に、ぼくは、年間所得額が画家の部でトップになったとかで、週刊誌の記者がトキワ荘にインタビューに来た。記者は、部屋へはいったとたん顔をしかめ、次に呆気にとられたように、キョロキョロと部屋を見回し、信じられないような表情ですわった
 彼の書いた記事によると「この百万長者の部屋は、ガタピシしたアパートの、机に本棚だけといってよい六畳間」と書かれてあった。これには、さすがのぼくも多少ひっかかった。お客さんによい印象を持ってもらいたいと思ったぼくは、本意ではないが、なにか金目のものを置いておくに限ると悟った。それからというもの、むやみに高級品を買いこんだ。エンプレスベッド、普及したての大型テレビ、ピアノ、ステレオ、大型スタンド、補助机、といったものをごちゃごちゃと飾りつけたために、ぼくは、机の中に頭を、テレビの下へ手を、ピアノの下へ足をつっ込んで眠らなければならなかった。それからしばらくして、今度は大宅壮一氏が取材に見えて、「文化的なものは一通り揃っている」と断定してくれた。なにごとも、見た目の体裁がかんじんなのだ。

 大宅壮一氏の取材記事も、どこかから探してみます。
「童心の英雄たち」の話は、またあとで。
 
「悪書追放運動」に関するもくじリンク集を作りました。
1955年の悪書追放運動に関するもくじリンク

近藤日出造「赤本が売れて法隆寺が焼ける」ってどこ情報よ?

 …俺だったりしたらすみません。
 一応このネタ読んでおいてください。
1955年の漫画バッシング(悪書追放運動)について
 
 少し興味を持ってピンポイント的に「1955年の悪書追放運動」について調べてみることにしました。
・新憲法下でおこなわれた(多分)最初の、民主的な方法による、もしくは方法を偽装した「表現の自由」に対する組織的な異議申し立てであること。
・現代でも漫画を中心とした文化の「表現規制」の問題として語られたり尾を引いている話ではあるけど、「事件」としては一応完結していること。
・ネットで見られる情報(一次情報・資料)がほとんどないこと。
 などなどが理由です。
 
 で、その資料として、「1955年の漫画バッシング(悪書追放運動)について」でも言及した『中央公論』の一九五六年七月号、「子供漫画を斬る」なんですが。
 …ないんですよこれが! 「法隆寺」に関する言及。手塚治虫に関する、かなりひどい、というか、嫉妬の混じったテキストは、うしおそうじ氏の引用通りなんですけど、全文読んでみるとちょっと印象違うし…それについては後述します。
 まあ、法隆寺が焼けたのは1949年、近藤日出造が「子供漫画を斬る」発表したのは1957年なんで、言及時期としては少しズレている印象ですね。金閣寺鹿苑寺)炎上も1950年にあるので、それに触れてないのもおかしいし…。
 で、元発言は何に載っていたかというと、週刊朝日』1949年4月24日号の記事「こどもの赤本 俗悪マンガを衝く」の中の、「漫画家はこうみる」に出てきます。これにはほかに清水崑横山隆一の「談」もありますが、あとで紹介します。

算盤主義を排せ 近藤日出造氏談
 
 低俗な子供漫画は大阪がもとである。大体大阪人というものがそういうものだ。売れて金さえもうかればそれでいいという恥知らずなのだ。その恥知らずのつくったのが、こういう赤本漫画だ。そして彼等はこれを見て喜んでいる。少し絵画的な目を以ってすれば見るに堪えるものじゃない。絵というようなものじゃない。
 切った、張ったも出てきていい。その芯にヒューマニズムがあれば、子供はまだそれによって楽しみながら教育されていく。しかしそういうのを描くには相当しっかりした頭脳がなければ出来ることじゃない。科学漫画の荒唐無稽も一種のロマンだからいいが、やはりそれには必然性が無いのではロマンでもなんでもない。またこれらの本をえらぶ親がなっていない。趣味も教養もない親がえらぶのだから見ていておかしい。親は分厚で派手で値の安いのを探している。内容の良し悪しなどは問題じゃない、こういうものが一番売れるということからみても、この頃の世論というものが信ぜられないのだ。赤本が売れて法隆寺が焼ける。それが今の日本文化の姿だ。

 …いろいろひどい(特に大阪人に対して)。
 法隆寺の壁画が炎上したのは昭和24(1949)年1月26日、手塚治虫が『新宝島』を発表したのは1947年。
赤本 (少年向け本) - Wikipedia

赤本漫画ブームは1948年から1950年がピークと言われ、1955年には1冊が100円を越えるようになった赤本漫画は姿を消していった。

 まあそんな感じです。
 
「悪書追放運動」に関するもくじリンク集を作りました。
1955年の悪書追放運動に関するもくじリンク

1955年の漫画バッシング(悪書追放運動)について

 以下の本から。

手塚治虫とボク

手塚治虫とボク

★『手塚治虫とボク』(うしおそうじ/著/草思社/1,890円)【→bk1】【→amazon

1950年代にマンガ家として、60年代にはアニメーターとして活躍した著者が、盟友手塚治虫と、その時代を回想する。月刊児童誌全盛時代のマンガ家たちの横顔。「悪書追放運動」のてんまつ。映画界からマンガに転身したアニメーターたち。『鉄腕アトム』にはじまる初期のTVアニメはどのように製作されたのか。『0戦はやと』や『マグマ大使』誕生のいきさつなどを記す。本書は、戦前からの映画人である筆者が綴った、日本アニメーション史でもある。

 未だに年に何冊か出る(ぼくの感覚としては3か月に1冊ぐらい出る)「手塚治虫関連本」で、著者・うしおそうじ氏と手塚治虫の話なんですが、この本のキモは戦前〜戦後の日本アニメ関係者について言及しているところでしょうか。下川凹天・幸内純一・北山清太郎にはじまり、太平洋戦争で戦死するPCL漫画映画部の大石郁雄とその門下の人たち(うしおそうじ鷺巣富雄氏もそのひとり)など、全然知らない・あまり知らないアニメーターの名前が数十ページにわたって書かれています。
 その中では1941年、海軍が拿捕した米軍輸送船の中にあったディズニーのアニメ映画「ファンタジア」(海軍戦利品)を、東宝砧第一スタジオで見て泣いた、というエピソードがすごいですが、他にもピープロ時代、手塚治虫の『マグマ大使』を特撮TV化するにあたって、箱根・湯河原温泉で宴会中(「漫画集団」の忘年会)の手塚氏に、名刺に「マグマ大使』のパイロット製作を許諾します。うしおそうじ」と書かせてトンボ帰りするとか、いろいろ楽しい話があるので、まぁそういうのは本のほうを読んでもらうことにして。
 気になったのは1955年の漫画バッシングに関する章だったのでした。
 今でも定期的に、もっぱらエロ方面での「規制」の動きが話題になりますが、漫画の行きすぎた表現・描写とその影響力についての口出しというのは、多分これが最初のことなんじゃないかと思うわけです。
 しかし1955年、昭和30年というと、戦争が終わってから10年しか経ってないわけですからね。現在の「戦争体験者」が、軍隊を経験した最低年齢の人でも八十代で、それをたとえば「漫画バッシング」時の漫画家・編集者で考えると、「昭和30年代で二十代(後半)〜三十代(前半)」だった人ということになると現在やはり七十〜八十代。伝聞情報としてならともかく、その時代にどのようなことが実際に起きていたのか、当時現役だった人の証言を聞けるのはもうあと数年ぐらいなんじゃないかと思います。
 『手塚治虫とボク』の中で語られていることは、たとえば以下のようなことです。
1・1954年3月、手塚治虫が年収217万円で、関西長者番付・画家の部でトップになる(当時の確定所得申告時期は今と少し違っていたのかな)
2・同年の『週刊朝日』4月11日号で「知られざる二百万長者」の取材記事が載る(要確認)*1
3・1955年1月21日、第四回青少年問題全国協議会で、青少年に有害な文化財に対する決議がおこなわれる(協議会のメンバー確認)
4・それを受けて翌日の1955年1月22日、鳩山一郎内閣総理大臣が、衆議院本会議の施政方針演説で「不良出版物」のことについて触れる。
 これは「国会会議録検索システム」で見ることができます。

国務大臣鳩山一郎君)(前略)覚醒剤、不良出版物等のはんらんはまことに嘆かわしき事態でありますが、特にわが国の将来をになりうべき青少年に対し悪影響を与えていることは、まことに憂慮すべきことであります。政府としては、広く民間諸団体の協力を得まして、早急にこれが絶滅のため適切有効な対策を講じ、もつて明朗な社会の建設に邁進いたしたいと存ずるのであります。(後略)

4・それをマスコミが取り上げ、「悪書追放運動」が全国的運動となる。
 という展開になるわけですが、そのすったもんだの中から、『手塚治虫とボク』の中のテキストを引用します。p138-141

 大人漫画家たちの中で、誌上対談に出席し、凄まじい勢いで手塚治虫を面罵した『漫画集団』の領袖近藤日出造の言葉をボクは忘れない。岡本一平門下の近藤は「口も八丁手も八丁」という才能を生かし、戦時中も敗戦時も、戦後のデモクラシー時代も、つまり戦争のときも平和のときも民衆世論をコントロールできると思っているらしく、オピニオンリーダーをもって任じる人であった。
 近藤日出造は『中央公論』の一九五六年七月号に、『子供漫画を斬る』と題した文章を書いている。そのなかで近藤が述べた、子供漫画に対する憎しみにも似た言葉をあげてみる。*2

 俗悪な子供漫画は大阪がもとである。だいたい大阪人というものがそういうものだ。売れて金さえ儲かればそれでいいという恥知らずなのだ。その恥知らずのつくったのがこういう赤本漫画だ。赤本が売れて法隆寺が焼ける。それが今の日本の姿だ。

 これでは批判にもなんにもなっていない。根拠のない断定に基づいた感情論である。つづけて近藤は二の太刀で斬り込み、俗悪低級、暴力肯定右翼雑誌として『冒険王』『漫画王』などの児童雑誌批判をした。その際『漫画王』の内容を吟味しながらこう書いた。

 この雑誌の表紙裏から、手塚治虫の『ぼくのそんごくう』という多色刷漫画が始まり、七頁を埋めている。その画法が、アメリカ日曜新聞の亜流を行ったようなものでも、さすが格段の腕前で、この程度の絵が揃っていればPTAの有力者も、目くじら立てて漫画の追放を企むこともあるまい。しかし、その手塚治虫が、この頃しきりに大人漫画への進出を志し、今のところ『絵の点』での力量不足のため、進出思うにまかせず、との噂をきく。一応『大人漫画家』で通っている絵の下手糞な僕が、こうした噂を伝えるのはどうかと思われるが、僕は、この噂を伝えることにより、一般の子供漫画家というものが、いかに箸にも棒にもかからない粗末な『絵描き』であるかをいいたかったのだ

 近藤日出造さんの元テキストをちゃんと読んでみたくなりました。*3
 しかし1950年代中ごろに、手塚治虫が「大人漫画への進出」を考えていた、というのはあまり聞いたことのない話で、これは漫画家同士の派閥・縄張りを利用して内部分裂を図ろうとした孔明の罠、のような気がします。1955年の手塚治虫といえば、リボンの騎士鉄腕アトムを筆頭に、毎月十本以上の月刊連載を抱えていた超多忙時代。1960年代後半ならともかく、ちょっと考えられないことではありました。(追記:一応大人漫画も描いていたみたいです。コメント欄参照)
 ということで、気が向いたら関連資料でも読んでみたいと思いますが、ネット上でその「悪書追放運動」についてくわしいことの分かるテキストがあったら教えてください。
 
「悪書追放運動」に関するもくじリンク集を作りました。
1955年の悪書追放運動に関するもくじリンク

*1:記事については以下の日記で書きました→1954年4月当時の手塚治虫に対する週刊朝日の評価

*2:この件に関しては一部うしおそうじ氏の勘違いもあるようです。詳しいことはぼくの以下の日記を参照。→近藤日出造「赤本が売れて法隆寺が焼ける」ってどこ情報よ?

*3:こちらで読めます。→1956年7月当時の「漫画」に対する近藤日出造の意見

1955年の悪書追放運動に関するもくじリンク

1955年の「悪書追放運動」について言及しているテキストのリンクです。何となく年表っぽく整理してみます。
 
【はじめに】
1955年の漫画バッシング(悪書追放運動)について
 
【悪書追放運動以前】
週刊朝日 1949年4月24日号 こどもの赤本 俗悪マンガを衝く
知られざる二百万長者 児童マンガ家・手塚治虫という男(『週刊朝日』1954年4月11日号)
図書新聞1954年8月14日『子どもの講談 少年ケニヤを語る』(山川惣治)
 
【1955年の展開】
朝日新聞1955年2月11日の滑川道夫「青少年読物を健やかに 出版界への警告と民間勢力結集の提案」
A.E.カーン『死のゲーム 戦争政策が子供たちに与える影響』抜粋(1955.2.15)
日本読書新聞1955年3月21日の記事「児童雑誌の実態 その一 お母さんも手にとってごらん下さい」
読売新聞1955年3月30日の記事「見ない読まない買わない運動」
朝日新聞1955年4月3日の記事「エログロ出版は致しません 出版団体連合会 業界浄化に乗出す」
日本読書新聞1955年4月4日の記事「児童雑誌の実態 その二」(少女系雑誌)
読売新聞1955年4月12日の記事「ひろがる悪書追放運動」
日本読書新聞1955年4月18日の記事「児童マンガの実態 その三 マンガ・ふろく・言葉など」
朝日新聞1955年4月21日の記事「ひど過ぎる児童雑誌 出版社に“もの申す”会」
朝日新聞1955年4月27日の記事「悪書追放 出版界、自粛へ動く 近く倫理化に実行委」
日本読書新聞1955年5月2日の記事「児童雑誌の実態 その四」(良いものを探す)
57年前の母の日、5万冊の「悪書」が処分されました(読売新聞1955年5月8日夕刊の記事「悪書五万冊ズタズタ 悪書追放」)
「不良出版物」に関する1955年5月12日の正宗白鳥の意見
読売新聞1955年5月14日の社説「ひろがる悪書追放運動」
日本読書新聞1955年11月28日「児童雑誌は良くなったか」(5回目)
日本読書新聞1955年11月28日「悪書追放運動を顧みる」(総括)
 
【以後】
子供漫画を斬る 近藤日出造(中央公論1956年7月号)
 
【回想】
悪書追放運動に関する手塚治虫の1969年における回想(『ぼくはマンガ家』から)
 
【雑】
近藤日出造「赤本が売れて法隆寺が焼ける」ってどこ情報よ?
調査中です→1955年に『鉄腕アトム』は燃やされたの?
 
【番外】
漫画家・佐々木マキに言った手塚治虫(マンガの神様)のひどいこと
マンガの神様=手塚治虫の起源