「民族浄化」という言葉について考える

これはなかなか面白いテキストでした。
「民族浄化」という言葉について

(前略)
ともかく二〇世紀半ば頃までの歴史においては、他のエスニック集団を「劣等」「汚れたもの」「人間ではない」などとして、彼らへの大量暴力を正当化する例はそれほど珍しいものではなかった(戦前から戦中にかけての日本もまた、中国人・朝鮮人などに対してそのような態度をとったのは周知の通りである)。しかし、ホロコーストの経験があまりにも巨大な衝撃を全世界に与えたため、それ以後の世界において、少なくとも責任ある地位の政治家がこのようなイデオロギーを公然と鼓吹することはできなくなった(大衆意識レヴェルではそうした発想がしばしば残り、いわば中間レヴェルの政治家たちがそれをこっそりと利用するというようなことはあるにしても)。それ以後の時期についてこのような捉え方が提出されるのは、暴行を加える側が自ら公然と宣伝するイデオロギーとしてではなく、暴行された側が「あいつらは、こんなひどい差別的イデオロギーをもっているのだ」という宣伝の文脈においてであることが多い。民族浄化」の語が情報戦の一環をなすということは先にも触れたが、そこに込められたイデオロギーについても、当事者が自ら語るイデオロギー(「われわれはこのように考え、だからこのように行動する」)なのか、それとも他者が誰かに帰しているもの(「あいつらはこんな考えをもち、だからこんなことをしているのだ」)なのかという点の区別は決定的に重要である。
(後略)

「え、ジェノサイド? 俺たちはやらないけどね。ていうか被害者。あいつら本当にひどいことしたんだよ」と言う側が正義。