「沖縄戦に“神話”はない」(太田良博・沖縄タイムス)をテキスト化する(1)

雑誌『正論』に1971〜72年にかけて連載されたテキストをまとめた『ある神話の背景』が1973年に出版され、それに対する反論が1985年に「沖縄タイムス」で、太田良博さんという、沖縄タイムスが刊行して、曽野綾子さんの批判対象テキストになっている『鉄の暴風』を書いた人によって掲載されたわけです。
なんで本が出てから10年以上もたってこんなことになったかは不明なんですが(あまりくわしく調べてないんだけど、家永三郎教科書裁判と関係ある様子)、太田良博さんの批判テキストは1985年4月8日から10回にわたって掲載され、それに対する曽野綾子さんの反論が、1985年5月1日から5回、さらに太田良博さんの再反論が1985年5月15日から6回にわたって掲載されました。
ぼくのブログで、その全テキストを掲載・紹介してみたいと思います。
渡嘉敷島の集団自決が軍命令であったのかなかったのか、について考察するための、ちょっとした資料になるような気がします。
その前に、一応こんなテキストを。
『ある神話の背景』の背景 曽野綾子の一書にふれて(石川為丸)

【「集団自決」論争】
 
『ある神話の背景』の背景  〈神話〉を作る身振りと〈事実〉へ向かう姿勢
 
            石川為丸
 
曽野綾子の『ある神話の背景』は、いささか挑発的な、右よりの論調を特徴とする雑誌『諸君』に1971年10月から1972年8月まで11ヶ月にわたって連載された後、1973年に、単行本として文芸春秋社から刊行された。この『ある神話の背景』を書き上げた曽野の意図はあまりにも明白であると言ってよい
「神話」とは、言うまでもなく、古くから人々の間に語り継がれている神を中心にした物語のことである。が、普通は、「客観的根拠なしに人々によって広く信じられていることがら」といった意味で使われている。曽野はかつての沖縄戦における日本軍のなした悪業の事実を、客観的根拠のない「神話」という水準のものにしたかったのだ。沖縄戦にまつわる島々の重たい歴史を、軽い「神話」にしてしまおうとする意図。慶良間列島の島々の名前を覚えにくいという人のために、曽野はこんなザレ歌わざわざつくったりしているのだ。「慶良間(けらま)ケラケラ、阿嘉(あか)んべ、座間味(ざまみ)やがれ、ま渡嘉敷(かしとき)」。最後の「渡嘉敷」に無理があるへたくそなザレ歌ではあるにせよ、曾野のこういう軽いノリが、暗黙のうちにそのことを物語ってもいるのだろう。
だが、この書『ある神話の背景』はそれなりの説得力を持ってはいたようである。琉大の仲程昌徳先生でさえ、こんなことを書いて、曽野の「神話」説に寄り添ったほどなのだから。仲程先生は、「公平な視点というストイックなありようが、曽野の沖縄戦をあつかった三作目『ある神話の背景 沖縄・渡嘉敷島の集団自決』にもつらぬかれるのはごく当然であったといえる。」(「本土の作家の沖縄戦記」)などと曽野を持ち上げていたのだ。だが、もし、曽野の語り口に惑わされずに、冷静に『ある神話の背景』を読んでいさえすれば、それが、戦後になってまとめられた赤松隊の「私製陣中日誌」や、赤松や赤松隊の兵士らの証言等をもとに構成された加害者の側に立ったものでしかなかったということがわかるだろう。いったいそんなもののどこに、「公平な視点というストイックなありよう」などが貫かれていようか。だが、仲程先生はさらに、〈ルポルタージュ構成をとっている本書で曽野が書きたかったことは、いうまでもなく、赤松隊長によって、命令されたという集団自決神話をつきくずしていくことであった。そしてそれは、たしかに曽野の調査が進んでいくにしたがって疑わしくなっていくばかりでなく、ほとんど完膚なきまでにつき崩されて、「命令説」はよりどころを失ってしまう。すなわち、『鉄の暴風』の集団自決を記載した箇所は、重大な改定をせまられたのである。〉とまで述べて、曽野の「神話」説を全面肯定したのだ。
こうした論調の存在を踏まえて、1985年になって、『鉄の暴風』で渡嘉敷島の集団自決の項を執筆した太田良博氏から「沖縄戦に“神話”はない」と題された曽野綾子の「神話」説への丁寧な反論が「沖縄タイムス」紙上(1985年4月8日〜4月18日)でなされた。これに対する曽野綾子からの「お答え」があり、更にそれに対して太田氏からの反論があった。この太田―曽野論争を受けて、タイムス紙上で、石原昌家氏、大城将保氏、いれいたかし氏、仲程昌徳氏、宮城晴美氏らが発言した。その後、『ある神話の背景』をめぐる論争等に関連して、シンポジウム「沖縄戦はいかに語り継がるべきか」が、沖大で催された。その際の、新崎盛暉氏、岡本恵徳氏、大城将保氏、牧港篤三氏らの発言が「琉球新報」紙に掲載された。さらに、タイムス紙上に伊敷清太郎氏の「『ある神話の背景』への疑念」が掲載された。さらに、新聞の投書欄やコラムを通して活発な発言がなされた。
「太田氏は、伝聞証拠で信用できないと(曽野らに)決めつけられた『鉄の暴風』の記述を戦後四十年にしてさらに補完したことでジャーナリストとしての責任を果たしたことになり、そのことに敬意を表したい。」といれい氏が述べている通り、この論争では太田良博氏は一貫して事実に向かおうとする真摯な姿勢を貫いた。それに比べて、曽野綾子不真面目さが際立っていた。曽野は、「つい一週間ほど前に、エチオピアから帰ってきたばかりである」ことをまず述べて、太田氏の主張も、それに反駁することも、自分の著作も、「現在の地球的な状況の中では共にとるに足りない小さなことになりかけていると感じる」などと言って、まともに対応しなかったのだ。また、「第二次世界大戦が終わってから四十年が経った」ので「いつまでも戦争を語り継ぐだけでもあるまい、と言えば沖縄の方々は怒られると思うが、終戦の年に生まれた子供たちがもう四十歳にもなったのである。もし大量の尊い人間の死を何かの役に立たせようとするならば、それは決して回顧だけに終わっていいものだとは私は思わない」などと説教までたれていたのだ。こういう無責任なずらしに対しては、石原氏がピシリといいことを言っている。「歴史始まって以来の大きなできごとである沖縄戦の全事実の一部たりとも、闇に葬り去らずに記録し、そこから再び惨劇を繰り返さない歴史の教訓を学ぶことが、体験者と同時代に生きるものの責務であり、体験を語ることが戦没者の死を無駄にしない生存者の使命となっている」と。『ある神話の背景』を書き上げた曽野の意図は、住民虐殺を始めとする、沖縄における日本軍のなした悪業の数々を免罪しようということであった。もともとそんなことは無理なことなので、曽野はまともに論争することができなかったのだと言えよう。客観的な事実に正面からぶつかったら、当然にもボロが出てしまうような質のものだった。だから曽野は、『鉄の暴風』の中の太田氏の記述を、「こういう書き方は歴史ではない。神話でないというなら、講談である。」とけなしてみたり、「太田氏という人は分裂症なのだろうか。」などと病む者への配慮を欠いた、けなし文句で対応することしかできなかったのだ。挙句の果ては、沖縄は「閉鎖社会」だとか、学校教育の場では「日の丸」を掲揚し、「君が代」をきちんと歌わせろ、などと述べる始末であった。太田氏の反論に対して、曽野は、結局何一つまともに対応できなかったのだ。
曽野の発言に見られるような支配的な潮流は、沖縄戦における日本軍の犯罪を免罪し、「もうあの戦争のことは忘れよう」ということであった。そういう文脈の中で、仲程昌徳氏が、「軍部にのみ責任をなすりつけて、国民自身における外的自己と内的自己の分裂の状態への反省を欠くならば、ふたたび同じ失敗を犯す危険があろう」という岸田秀の一節を引用して、民衆レベルでの戦争責任を持ち出そうとしたのは、それ自体は大切な問題であったにもかかわらず、住民の側が凄まじい被害を受けた場であるということを考慮にいれていないために、大きく論点を逸らす役割しか果たさなかったと言えよう。それは、「生き残ったものすべての罪である」などといった、沖縄戦における真の加害責任を免罪しようとする曽野の論調に荷担するものでしかなかったのだ。だが、そのような仲程氏の発言を除けば、県史料編集所専門員(当時)の大城将保氏の、「住民虐殺」も「集団自決」も根本的な要因は軍の住民に対する防諜対策、スパイ取締であったという、客観的な資料に基づく説をはじめとして、総じて沖縄戦を再認識させる真摯なものであった。ただ、残念であったことは、論争が、沖縄という地域限定のものから全国的なものに展開する前に、曽野が逃亡を決め込んでしまったことである。
こうした十四年前に行なわれた論争に、私たちは、今何を付け加えようか。それがあまりにも常識的なことであるためなのか、天皇制への言及がなかったことが、ただ一つ私などの気になっている点ではある。渡嘉敷や座間味にまで慰安婦を連れて蠕動していた日本軍は、そこでいったい何を目的にしていたのかということを、ひとまず再確認しておこう。渡嘉敷では住民を虐殺し、「集団自決」を強制させていたわけであるが、それは、皇軍の使命が沖縄を守るためなどではなく、「国体(天皇制)護持」のためであったからということだ。ポツダム宣言の受諾が遅れたのは、時の権力が国体護持すなわち天皇制の存続に執着したためであることは、今や常識となっている。天皇の命を救い、天皇制を延命させるための策謀のために、沖縄の住民九万四千人が犠牲にされたのだということは、何度でも確認しておく必要があるだろう。天皇(制)による戦争の凄まじい犠牲にあいながらも、それから半世紀以上経てもなお、天皇制は温存され、沖縄が日米両軍の戦争遂行のための中心基地にされているという事態に、私たちはもっと驚くべきなのだ。これは、戦争責任の問題が、「戦後責任」として現在にも持ち越されているということにほかならない。十四年前の「集団自決」論争は、今に温存されてしまった「戦前・戦中」と絡めて、繰り返し想起していくべきはずのものである。
                         〈「EDGE」 NO8 1999 より〉

わりと左寄りの人がよく使われる、フレーズ的あおり部分が面白かったので、ちょっと太字にしてみました。だいたいこういう言いかた、よく見かけるなぁ、みたいな感じと、自分ではそのような言い回しはなるべく使わないようにしよう、という目印のために(左寄りの人、あるいはそのシンパな人以外には通用しにくいようなフレーズのように思えるので)。
この「シンポジウム「沖縄戦はいかに語り継がるべきか」」を含む、タイムス紙の他の人のテキストが見つかったら、ちょっと目を通して公開してみたいと思いますが、そんなわけで少しずつ、「沖縄タイムス」に掲載された太田良博さんと曽野綾子さんのテキストを掲載してみます。
そのテキストが、石川為丸さんの言うとおり、一方が「一貫して事実に向かおうとする真摯な姿勢」のテキストであり、また一方が「不真面目」でまともに「対応」「論争」「適応」することができなかったテキストかどうか(石川為丸さんは「まとも」という言葉を3回、「真摯」という言葉を2回使っていますが、「まとも」「真摯」の石川さんの定義・考えがよく分からないので、「俺=石川為丸がそう思ったからそうなのだ」以上の意味はないような)、読んで感想を聞かせてみてください。
それでは、はじめます。
 
沖縄戦に“神話”はない」----「ある神話の背景」反論(1)(太田良博・沖縄タイムス1985年4月8日掲載)

はじめに
 
沖縄戦でいつも話題になる事件の一つに渡嘉敷島の集団自決と住民虐殺がある。
この事件について作家の曽野綾子氏は『ある神話の背景』のなかで、当時渡嘉敷島の指揮官であった赤松嘉次大尉が「完璧な悪玉にされている。赤松元大尉は、沖縄戦史における数少ない、神話的悪人の一人であった」と述べる。その神話の源になっているのが『鉄の暴風』のなかの赤松に関する記述だとしてその赤松神話を突き崩すために書かれたのが『ある神話の背景』である。

ちょっと待った! 弁護士・成歩堂龍一の出番です。
『ある神話の背景』が復刊された『沖縄戦渡嘉敷島「集団自決」の真実』(曽野綾子・ワッツ)では、当該箇所は以下のように書かれています。p39、赤松大尉が1970年に渡嘉敷島の慰霊祭にやってきたときの話。

赤松元大尉は、沖縄戦史における数少ない、神話的悪人の一人であった。私の目に触れる限り、彼は完璧に悪玉であった。その人物を、今人々は見たのだ。それは面長で痩せた、どこにでもいそうな市井の一人の中年の男の姿をしていた。

こういう微妙な言い回しの違い(パラフレーズ)はけっこうあるので、気をつけたいところです。赤松元大尉を悪玉と見る見方に関して、曽野綾子さんは「そう見る側」を客観的に見ているように、ぼくには思えました。
さらに曽野綾子さんは、「神話」というものについて以下のように語ります。p39-40

神話は神話として、深く暗く遠いところに置かれている限り、そして実態が決して人々の目にふれない限り、安定した重い意味を持つのだった。しかしそれが明るみに取り出された場合、神話の本体を目撃して人々はたじろぐのが普通である。なぜなら、悪に於いても、善においても、それほどに完璧だというものは、このようにめったにあり得ないからだ。
赤松神話も、まさにその日、ふとしたことから深い暗い沖縄の記憶から取り出されたのである。

これを、石川為丸さんの以下のテキストと比べてみます。
『ある神話の背景』の背景 曽野綾子の一書にふれて(石川為丸)

「神話」とは、言うまでもなく、古くから人々の間に語り継がれている神を中心にした物語のことである。が、普通は、「客観的根拠なしに人々によって広く信じられていることがら」といった意味で使われている。曽野はかつての沖縄戦における日本軍のなした悪業の事実を、客観的根拠のない「神話」という水準のものにしたかったのだ。沖縄戦にまつわる島々の重たい歴史を、軽い「神話」にしてしまおうとする意図。

客観的根拠のない「神話」の軽さを語る石川為丸さんと、深く暗く遠いところから出てきて、善悪の面における完璧さで人をたじろがせる「神話」の重さを語る曽野綾子さん。神話が軽いか重いか、についての二人のずれはけっこう大きいように思えました。
沖縄戦に“神話”はない」の引用を続けます。

曽野氏は、沖縄タイムス社刊『鉄の暴風』を、戦後、沖縄住民によって書かれた沖縄戦記録の原典と見ているが、その中の第二章「悲劇の離島」の第一項「集団自決」が、『ある神話の背景」で問題とされている箇所である。
実は、その部分は、当時、沖縄タイムス社の記者だった私が執筆したもので、いわば〈赤松神話〉の作り主は私だった、ということになる。そして、赤松神話は『ある神話の背景』によって突き崩されたとする見方が、沖縄の戦記作家たちの間に出てきている。
『鉄の暴風』のなかの=集団自決=の項は、伝聞証拠によって書かれている、赤松の自決命令は事実に反するとする『ある神話の背景』の主張に同調する意見である。もちろんが『ある神話の背景』をそのままみとめているわけではない。手きびしい批判をくわえながらも、曽野氏が指摘した集団自決に関する事実関係については、曽野説を支持し、『鉄の暴風』の記述は訂正を迫られているとしている。

連載第一回の最初のフレーズまでなんですが、思った以上に長くなったので、今日はこれまでにします。
調べたいことのメモ。
・『鉄の暴風』の当該箇所に目を通す。
・「沖縄の戦記作家たち」は、『ある神話の背景』についてどのような感想を述べたり、見方を変えた、のような発言をしているのか(それに関するテキストを探す)。
 
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割と大きい書店だったら、今だったらアマゾンで買うよりも比較的簡単に手に入ると思います。
(2006年9月4日記述)
 
(追記)
人名の「太田良博」さんを「大田」さんと誤記しました。どうも申し訳ありません。
見出しも直しましたので、言及する場合はよろしくお願いします。
 
これは以下の日記に続きます。
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060909/oota012