司馬遼太郎伝聞の「(戦車で)ひき殺していけ」異テキストを読んでマルクス主義の人がこれをあまり引用しない理由を知る(2)

見出しは演出です。
これは以下の日記の続きです。
司馬遼太郎伝聞の「(戦車で)ひき殺していけ」異テキストを読んでマルクス主義の人がこれをあまり引用しない理由を知る(1)
 
ということで、『NHK人間講座・半藤一利/清張さんと司馬さん』(2001年10月刊行・NHK出版)も探して来ました。以下の引用はp109-112です。

「ひき殺していけ」
 
司馬さん自身が書いたり話されたりしているので、よく知られた話から今日ははじめます。
昭和十二年(一九二三)生まれの司馬さんは、昭和二十年八月の大日本帝国の敗戦を迎えたとき、二十二歳の若さでした。戦車第一連隊の、学徒出身の陸軍少尉で、きたるべき本土決戦に備えて栃木県・佐野のとある小学校に駐屯していました。この部隊はこの年の早春にソ満国境から移動してきた虎の子の清栄戦車部隊でした。
このころ、大本営は、この年の秋口に本土防衛線に追い込まれると覚悟していました。このとき、司馬さんの戦車部隊は北から前進して、関東平野の真ん中で米上陸部隊を迎え撃つ任務を与えられているわけです。そのための訓練やら諸準備に大わらわであった初夏のある日のことといいます。郊外に散歩にでた司馬さんは、数人の学校帰りの子供と出会います。そのときのことでした。司馬さんは自分を見つめる子供たちの目がすてきに輝いているのに気づき、思わず声をのんで、その場に立ち尽くしてしまったというのです。
司馬さんから直接に聞いた言い方を、そのまま借りれば、その子供たちの目は「兵隊さんがいて守って下さるから、日本の国は、そして僕たちは、大丈夫ですね」と語っていた、というのです。子供たちの純真な、すべてを信じきったその目に、二十二歳の青年将校は射すくめられ、たじろいだ。司馬さんはそう言うんです。それというのも、その直前に、恐ろしいような非情の言葉を、司馬さんは軍の参謀から聞かされていたからなんです。
わたくしは、二度三度と同様の言葉を、司馬さんからじかに聞かされております。しかし、それは誰か責任あるものの語ったものなのか、については、念押しで確認することもなく、さりとてとことん信じきって聞いたわけではありませんでした。というのも、実際にサイパン島で、あるいは沖縄本島での戦闘のさいに、結果として似たようなことが実行されていました。作戦命令として行われたことではないにせよ、悲劇はげんに引き起こされていた。それで、さながら命令のごとくに、そんな悪魔的な言を吐く指揮官がいたのであろうかと、いささか疑心暗鬼のところがあったのです。
ところが、司馬さんがはっきりと活字にして、その言葉を残していることを知る機会がありました。評論家の鶴見俊輔さんとの対談なんです。その中で、こう明確に当事者の存在をしめしている。もう間違いない事実と、いまは確信することにしています。

(……)東京湾相模湾に米軍が上陸してきた場合に、高崎を経由している街道を南下して迎え撃てというのです。私はそのとき、東京から大八車引いて戦争を非難すべく北上してくる人が街道にあふれます、その連中と、南下しようとしているこっち側の交通整理はちゃんとあるんですか、と連隊にやってきた大本営参謀に質問したんです。そうしたら、その人は初めて聞いたというようなぎょっとした顔で考え込んで、すぐ言いました。これが私が思想というもの、狂気というものを尊敬しなくなった原点ですけれども、「ひき殺していけ」といった。(……)
 
(「朝日ジャーナル」昭和四十六年一月一-八日号)

恐ろしい言葉です。逃げてくる無抵抗な民衆を、作戦の邪魔になるから「ひき殺していけ」と言う。それを軍を指揮する「大本営参謀」が言ったというのです。しかも、司馬さんの質問に答えてなんですから、また聞きとか、伝聞とかではないんです。名前まではさすがに出されていませんでしたが、わたくしには当時の参謀本部作戦課の秀才参謀たchのいくつかの顔が思い浮かんできました。
司馬さんは、田舎の道で行き交わした子供たちに重ね合わせて、いったん緩急あるときには、自分たちが「ひき殺して」いかねばならない多くの無辜の人びとの姿を見たのでありましょう。腹を空かせながら北へ逃げてくる何十万の子供たち、女たち、老人たち、ブリキ同然の戦車ではとても守ることはできない。それどころではなく、集団的狂気のなかにあっては、逆に自分たちが鬼となって轢き殺して前進していかねばならないのです。若い司馬さんが絶望を感じたであろうことは、容易に想像できるのではないでしょうか。

司馬遼太郎さんが戦時中の子供たちの「目」について語った、というのは、半藤一利さんによる伝聞情報なので、本当のところはどうかわかりません(これに関して書いてある司馬遼太郎さんのテキストがあったら、誰か掲載されている本とそのページを教えてください)。
半藤一利さんは、「(戦車で)ひき殺していけ」発言の発言者を「軍の参謀」「大本営参謀」と正確に語っています。
わたくしは、二度三度と同様の言葉を、司馬さんからじかに聞かされております。」と半藤さんは言いますが、そのようなものだけでは、何十回聞かされようが、「司馬さんがそう言った」という証拠にはなりません。今回のケースの場合は、司馬遼太郎さんが自分のエッセイで書いてたり、対談の記録として存在しているので確認は容易ですが、「半藤氏の話によると、司馬氏はこのように言ったということである」というような形で、もう「司馬氏が言った」ということが事実であるかのように「伝聞が」情報としてネット中に広まるのは、いろいろな人が誤解したりするので注意が必要でしょう。
繰り返しますが、恐ろしいのは「軍国主義」ではなく「轢き殺す、という行為に疑問を感じない思想全般の構造」です。
で、次はこの『NHK人間講座・半藤一利/清張さんと司馬さん』の中にある、朝日ジャーナル」昭和四十六年一月一-八日号も探してきました。「対談・歴史の中の狂と死:司馬遼太郎(作家)&鶴見俊輔(評論家)」。
そこからの引用を、もう少し長くやってみます。p12

日本人を占領していた軍部
 
司馬(遼太郎) 私はね、戦後社会を非常にきらびやかなものとして考えるくせがあるんです。これは動かせない。それは自分の体験からくるんですけれども、私は兵隊にとられて戦車隊におりました。終戦の直前、栃木県の佐野の辺にいたんですけれども、東京湾相模湾に米軍が上陸してきた場合に、高崎を経由している街道を南下して迎え撃てというのです。私はそのとき、東京から大八車引いて戦争を非難すべく北上してくる人が街道にあふれます、その連中と南下しようとしている、こっち側の交通整理はちゃんとあるんですか、と連隊にやってきた大本営参謀に質問したんです。そうしたら、その人は初めて聞いたというようなぎょっとした顔で考え込んで、すぐ言いました。これが私が思想というもの、狂気というものを尊敬しなくなった原点ですけれども、「ひき殺していけ」といった。
われわれは日本人のために戦っているんじゃないのか。それなのに日本人をひき殺して何になるだろうと思いますでしょう。私は二二歳か二三歳ぐらいでしたから、もうやめたと思いました。何ともいえん強烈な印象でした。つまり、私たちは、参謀肩章をつっている軍部の人間に日本民族は占領されていたわけですね。それはやはり思想的な背景が強烈にあるんで、集団狂気のなかからいえば、高崎街道を北上してくる避難民はひき殺していけという結論が出るわけです。ぼくは猛烈に幻滅した。これはマルクス思想に対しても、カトリック思想に対しても、思想の悪魔性という点で同じです。
戦後、アメリカ軍がなるほど占領にやってきたけれども、その占領のほうがやや軟弱なる占領であって、その前の占領のほうがきつかったという感じ。ぼくは復員して普通の生活に入るんですけれども、戦後社会を見たときに、これが初めて日本人が持った暮らしやすい社会なんじゃないかという感じがしましたですね。いまだって、戦後社会のそのときに感じた民主主義なら、うまく守っていきたいという感じがついしちゃう。狂気じゃありませんけれども、そういうことを守るためなら自分は死んでもいいという気持がしょっちゅうあります。むろんこの死ぬというのは日本人の口ぐせであって、気持の高揚のときに言うんで、言いながら私は自分を軽蔑してますけれども(笑い)そんな体験がありますね。

(太字は引用者=ぼく)
ということで、司馬遼太郎の「大本営から来た参謀少佐が、「逃げる住民を戦車はひき殺していけ」と言った」発言が、反・軍国主義に基づくものではなく、反・思想&主義に基づくものである、ということがまた再確認されて、ぼく自身はマルクス主義の人がこれ(鶴見俊輔との対談その他)をあまり引用しない理由を知ったわけでした。
だから単純に、これを持ち出して「司馬遼太郎も軍隊はよくないと言った」と言っている、反戦・反軍国主義で、少しイデオロギーの人になりかけている人には、「司馬遼太郎がよくないと言ったのは主義・思想という頭でっかちのもので、特に軍隊や軍国主義に対する言及ではない(もちろんその代表として、「参謀少佐」に代表される軍国主義は入りはするだろう)」と何度も言わなければならないし(その際には必ず、「ひき殺していけ」と言ったのは「上官・上司」ではなく「大本営から来た参謀少佐」であることも何度も言わなければなりません)、そういうイデオロギーな人に対して単純に「司馬遼太郎がそんなことを言うはずがない」「そんなことを言う軍人はいない」と、根拠も示さずに言う人は、その根拠を示さなければ、単に別のイデオロギーの人(それもダメな人の類)か、少し別のイデオロギーになりかけている人だと思います。
ちゃんとマルクス主義イデオロギーを俺は持っている、という人はなかなか立派なもので、司馬遼太郎さんの言葉の半端な引用はしないし、その言葉を反・軍国主義の文脈で語ったりはしないでしょう(多分)。
で、「朝日ジャーナル」昭和四十六年一月一-八日号の、司馬遼太郎さんと鶴見俊輔さんの対談は、司馬さんの話を鶴見さんが受けてこう展開します。p12からの引用つづき。

ベトナム戦争の狂信
 
鶴見(俊輔) 人間は三千年ぐらい、原理原則によって集団の行動を正当化するというくせがつきかかっているでしょう。原理原則を押しつけるということに対するある種のこっけいさと、その非人間性に気がつかないと、人間はいまの状況からなかなか超えられないじゃないでしょうかね。そういうふうな戦争の末期は、まったく集団狂気ですね。一億玉砕して神州を守る、国体を守る、と。
司馬 国体を守るということだけで十分狂気ですから。
鶴見 ベトナム戦争もですね。共産主義が攻めてくるから、共産主義をつぶすため、自由を守るためと、原理を押しつけて、非常に戦争中の日本の感じと似ていますね。日本の特殊性ではなかった。
先日、岩国の米軍裁判に証人としていってきたんですけれども、被告になっている男は一九歳のいい青年です。彼が言ったことを私は証人として紹介しただけなんですが、いまベトナム戦争というのは一部の人間のやっていることなんで、自分たち兵隊は道具として使われるだけで、関係ないということです。それを突きつめていえば、軍人はわれわれ兵隊の敵だということです。あの連中は、日本歴史のなかの日本人とは、すこしちがっていたな。
司馬 そのことばは、戦争末期の私にとってほんとうに毎日の実感でした。

(太字は引用者=ぼく)
ベトナム戦争は、(ちょっと文意が意味不明ですが)「ベトナムベトナム軍」は「第二次大戦中の日本と旧日本軍」に、「アメリカ・アメリカ軍」は「第二次大戦中のアメリカ軍」によく似ていた、というのが21世紀のぼくの感覚です。
アメリカ軍は一貫して「自由を守るため」という原理に基づいて(押しつけて)戦争をしていました。なんで一方では勝ち、一方では負けたか、は、「時代」としか言いようがありません(もっと言うためには、ぼく自身の「ベトナム戦争」に関する知識を深める必要を感じます)。
鶴見俊輔さんは人の話をあまり聞いていない人なのか、時代(1971年ごろ)がそういうわけのわからない「ベトナム戦争アメリカ軍」を批判するのが流行していた時代だったのか*1、あるいは何でもかんでもイデオロギーにしてしまう人だったせいなのかは不明ですが、ちょっとこの部分の司馬さんと鶴見さんとのやりとりには、あまりかみ合わないものをぼくは感じました。
 
これは以下の日記に続きます。
愛・蔵太の少し調べて書く日記 - 司馬遼太郎伝聞の「(戦車で)ひき殺していけ」発言に対して、軍人は何と言っているか

*1:なにしろまだ、時代はベトナム戦争の真っ最中で、鶴見俊輔さんはそれに反対する「ベ平連ベトナムに平和を!市民連合)」の中心メンバーだったわけです