司馬遼太郎伝聞の「(戦車で)ひき殺していけ」発言に対して、軍人は何と言っているか

これは以下の日記の続きです。
司馬遼太郎伝聞の「(戦車で)ひき殺していけ」異テキストを読んでマルクス主義の人がこれをあまり引用しない理由を知る(2)
 
ということで、
1・雑誌「正論」2002年3月号、「NHKウオッチング」(中村粲)が、
2・『NHK人間講座・半藤一利/清張さんと司馬さん』(2001年10月刊行・NHK出版)で語られていると言っている(正確には、NHKで言った、と中村さんが言っている)、
3・「朝日ジャーナル」昭和四十六年一月一-八日号「対談・歴史の中の狂と死:司馬遼太郎(作家)&鶴見俊輔(評論家)」
まで、基礎資料として探してきたわけですが、「1」をめぐって「正論」の読者ページでは、前に引用したこのような意見がありました。
月刊「正論」・2002年4月号読者投稿欄

☆編集者へ=長野県東部町の奥村直さん(画家・67歳)から。
三月号、「NHKウオッチング」で中村先生が、教育テレビ〈人間講座アンコール〉の「司馬さんと昭和史」について厳しく批判されています。陸軍参謀の「避難民を轢き殺して行け」といったという司馬証言について、又聞きなのか直接体験か、と鋭く迫っておられます。
そこで私の手持ち資料を調べてみました。司馬氏の随筆「石鳥居の垢」の中に、まさに司馬氏自身の体験として、しかも氏自身の質問に対する直接の返答として記されていました。氏の質問に対してその参謀は−−しばらく私を睨みすえていたが、やがて繡然と、「轢っ殺してゆけ」と、いった−−とあります。
まさしく司馬氏自身の「体験」として語られています。これは昭和四十九年、新潮社から刊行された司馬遼太郎著『歴史と視点』に収録されています。
そして中村先生は、草柳大蔵氏の「同じ戦車群に配属されていた将校や下士官たちから、『そんな言葉は一度も聞いたことがない』との反論が出て云々」という一文を引用されていますが、これについても資料があります。昭和五十八年八月の中央公論社『増刊・歴史と人物』誌に「座談会 もしも本土決戦が行われたら」が掲載されています。その中で司会の秦郁彦氏が司馬氏の「轢っ殺して行け」説を紹介したところ、近藤新治氏(元戦車第二十八連隊中隊長)が「司馬さんといっしょの部隊にいた人たちに当たったけれど、だれもこの話を聞いていない」と答えています。
近藤元大尉は「あの話は、われわれの間で大問題になったんです」ともいっています。確かに旧帝国陸軍軍人として、ましてや誇り高い戦車隊将校として、聞き捨てならぬことと問題になったのは無理からぬことです。
私は司馬氏の随筆「石鳥居の垢」を二度と読む気になりません。もちろんここに記されたことが事実かどうかはわかりません。また、ある意図をもって執筆されたのかどうか勘ぐるのも失礼でしょう。ただひとついえることは、この僅か数行の文章が誠実な旧戦車隊員を傷つけたという事実です。

(太字は引用者=ぼく)
で、この「昭和五十八年八月の中央公論社『増刊・歴史と人物』誌」の「座談会 もしも本土決戦が行われたら」を探してきました。
なんか、全編通して読んだらめちゃくちゃ面白いんで、機会があったら全文引用してみたくなるようなシロモノですが、今回は司馬遼太郎さんの発言関連に限定しておきます。
座談会の出演者のメンバーは、以下の通りです。
高山信武(たかやまのぶたけ):当時、陸軍省軍務局軍事課兼参謀本部第三課高級課員兼大本営陸軍参謀・陸軍大佐
藤原岩市(ふじわらいわいち):当時、第五十七軍高級参謀・陸軍中佐
近藤新治(こんどうしんじ):当時、戦車第二十八連隊中隊長・陸軍大尉
千早正隆(ちはやまさたか):当時、海軍総隊・連合艦隊参謀兼第一・第二総軍参謀・海軍中佐
野村実(のむらみのる):当時、海軍兵学校教官兼監事・海軍大尉
檜山良昭(ひやまよしあき):作家
〈司会〉秦郁彦(はたいくひこ):拓殖大学教授
教授の人と作家の人が入ってますが、他の5人は第二次大戦当時のことを実体験として知っているかたがたです。
では「座談会 もしも本土決戦が行われたら」の、司馬遼太郎発言の関連部分です。p350-351

秦 実際には七、八歳の子どもが戦うことだってあり得たんですね。檜山さんの小説では、小学校の三、四年生が、女の先生といっしょに戦車に向かって突撃する場面がでてきますね。
まぁ、そうした国民ぐるみの戦法が一方にあるわけですが、最精鋭の戦車連隊中隊長として、近藤さんは戦車を並べた正々堂々の攻撃も考えられたのでしょう。
近藤 それが正々堂々じゃないんですよ。向こうのM4戦車にはこちらの一式中戦車の正面射が通用しないんです。弾がとおりません。そこで考えついたのが、夜のうちに飛白状にこちらの戦車を配置しておいて、向こうが攻撃してくるのを横から撃とうという刺しちがえ戦法でした。九五式の軽戦車は爆弾を積んで体当たりさせる。
それからもう一つ、田圃の畝(うね)のようなものをウネウネと並べて作っておく、その畝にM4が乗り上げるとキャタピラの半分くらいが上がって、薄い底板が見えますから、そこを狙ってこちらの戦車が撃つことも考えました。こちらは戦車を土の中に入れ姿勢を低くしておく、したがって射界は限定されますから、自分の射界内のものだけを確実に狙うことにしたのです。言うならば、弱者の戦法に徹したのです。
秦 司馬遼太郎さんは、そのころ宇都宮の戦車隊にいて、大本営の参謀が来たときに、九十九里浜まで戦車が進出する場合、避難民が逆流してきたらどうするのか、と質問したそうですね。参謀はしばらく考えていたが、轢いてけ、と答えたというんですよ。
近藤 あの話は、われわれの間で大問題になったんです。司馬さんといっしょの部隊にいた人たちに当ったけれど、だれもこの話を聞いていない。ひとりぐらい覚えていてもいいはずなのですがね。
秦 もっとも、無理に住民の中へ突っ込めば、大八車なんかもあるし、戦車のキャタピラの方が壊れてしまうのではないかという意見もありますがね。
近藤 当時、戦車隊が進出するのには、夜間、四なり五キロの時速で行くから、人を轢くなどということはまずできなかったですよ。夜光虫をビンに入れて背中にかけた目印の兵が戦車の前に立ち、それの誘導でノロノロ進むのです。
轢き殺して行けと言ったとしたら、その人は、戦車隊のことがよく分かっていないのではないですか。
秦 夜光虫とはおどろいた。
近藤 これが、まっすぐ見たら見えないんです。少し横から見ると見える、ですからそういう訓練もしましたね。
藤原 今になってみると、ずいぶんくだらんことを考えたと思われるかもしれんが、当時は、絶体絶命、藁をもつかむ境地だったんだな。理屈に合わんと知りつつ、淡い願望をつないだんだ。

「飛白状」というのは、多分「かすりじょう」と読むのだと思います。
参考テキスト・画像。
飛白 (かすり) - 関心空間
秦さんは、司馬遼太郎さんの言葉の引用として、「大本営の参謀」というのは間違っていませんが、「九十九里浜まで戦車が進出」というのは間違っています。司馬さんは、具体的に米軍がどこに上陸したら、とか、どこに進出する場合、というような形での言及はしていません。
ぼくの日記の、以下のテキストを参照なのです。
司馬遼太郎伝聞の「(戦車で)ひき殺していけ」はいつどこで誰が言ったのか
しかし、当時の戦車の移動が「夜間、四なり五キロの時速」で、「夜光虫をビンに入れて背中にかけた目印の兵」を使って行く、なんて全然知らなかったし、誰もこのテキストに言及しているのを見たことがありませんでした。なんとなく不謹慎ですが、「のどか(田園的)」というか、「旧日本軍、やはりそこまでになってしまうともうダメだろう」とつくづく思ってしまいました。
ということで、司馬遼太郎伝聞の「(戦車で)ひき殺していけ」に関する関連テキストの紹介は、これで一段落なのです。
また何か面白いものが見つかったら言及するかもしれません。
(追記)
以下のコメント欄で、
司馬遼太郎伝聞の「(戦車で)ひき殺していけ」異テキストを読んでマルクス主義の人がこれをあまり引用しない理由を知る(2)
「イッセイ」さんに司馬遼太郎さんの「ひき殺していけ」伝聞の異テキストとして「街道を行く6」(沖縄・先島への道、初出74年朝日新聞)というものを教えていただきました。
テキストそのものは朝日文庫のほうで確認したんですが(初版は1978年12月刊行、手元のものは2006年1月刊行、第30刷。p33-40「ホテルの食堂」の章)、電子テキスト化して言及する時間がちょっとないので後日にしてみます。
これで、司馬遼太郎さんの「ひき殺していけ」伝聞は、以下の4つになりました(なんとなく古い順)
1・「百年の単位」1964(昭和39)年2月号『中央公論』(中公文庫『歴史の中の日本』収録)
2・「対談・歴史の中の狂と死:司馬遼太郎(作家)&鶴見俊輔(評論家)」1971年1月1-8日号『朝日ジャーナル』(「日本人の狂と死」に改題のうえ、文春文庫『戦争と国土―司馬遼太郎対話選集〈6〉』に収録)
3・「石鳥居の垢」1972年6月? 初出誌調査中(新潮文庫『歴史と視点』に収録)
4・「ホテルの食堂」1974年7月12号『週刊朝日』(朝日文庫街道をゆく・6:沖縄・先島への道』に収録)
まだまだいろいろ出て来そうですが、今のところこの「ひき殺していけ」発言をした者が、その細かなニュアンスに違いはあっても、「大本営から来た参謀」以外の、たとえば司馬遼太郎さんの所属する部隊の上官・上司である、というような資料は確認されていません。また、司馬遼太郎さんの記述以外にその「参謀将校」がそのようなことを言った、ということを確認できる方法はありません。戦車の移動で大八車をひき殺した事実は確認されていません。戦車の移動方法で、「夜間、四なり五キロの時速」で「夜光虫をビンに入れて背中にかけた目印の兵」を先頭に立てた戦車が、人をひき殺せるかどうかは確認できません。