司馬遼太郎伝聞の「(戦車で)ひき殺していけ」発言に関する『街道をゆく』異テキスト

これは以下の日記の続きです。
司馬遼太郎伝聞の「(戦車で)ひき殺していけ」発言に対して、軍人は何と言っているか
 
ということで、時間が少し三連休であるので、司馬遼太郎伝聞の「(戦車で)ひき殺していけ」発言に関する『街道をゆく』異テキストを電子テキスト化してみます。
元テキストは、朝日文庫街道をゆく・6:沖縄・先島への道』(初版は1978年12月刊行、手元のものは2006年1月刊行、第30刷。p33-40「ホテルの食堂」の章)。多分週刊朝日の掲載号は、「1974年7月12日号」だと思います。

沖縄戦では、あれだけ惨憺たる状況だったにもかかわらず、県民は、いまからふりかえれば腹立たしいほどにけなげだった。それでも、軍隊がときに住民を適しし、加害者になったりした。
「もともと沖縄人に対し、本土人に差別があったからでしょうか」
と、かつてこの那覇にきたとき、町を案内してくれた沖縄タイムスの大湾さんが、べつに恨みをのべるふうでもなく、町内のうわさ話をしているような調子で、いった。大湾さんは、当時はたくましそうな体を黒いスーツに包んだ三十代の好青年だったが、いまはおそらく、いい初老の紳士になっているであろう。
私は大湾さんと、小さなホテルの食堂----高校の生徒集会室のような----で、コーヒーを飲んでいた。一服してコーヒーを飲んでいるときの話題にしてはすさまじいが、しかし笑顔や声の調子は、一見、茶のみ話ふうなのである。当時の那覇では、一般になんだかそういう感じだったように思えるが、これは確かな感想ではない。さらにいえば、大湾さんもそうであったように、たれもが齢のわりにはどこか枯れていて、突きぬけたところをもっていたような感じがする。
たとえば、私が大湾さんに、話の継ぎ穂としt、大湾さんは戦争末には学生でしたか、ときくと、笑顔で、ええ学生でした、という。話は、それっきりである。
私がかさねて、
「どこで、学生生活をされていましたか」
ときくと、静岡でした、と答えた。旧制静岡高校にいた、という。
昭和十九年十月、沖縄に対し、米軍による大空襲がおこなわれた。ついでながら、年表ふうにいうと、
三月(昭和十九年)
 沖縄方面守備軍の軍司令部首脳が飛行機で着任。
八月(同)
 沖縄からの疎開児童をのせた船団のうち、一隻が米潜水艦の攻撃で沈没。
十月(同)
 米軍による大空襲。
一月(昭和二十年)
 県知事島田叡(戦死)着任。
三月(同)
 米軍、慶良間列島の一つの阿嘉島に上陸。
四月(同)
 米軍、沖縄本島に上陸。
 
大湾さんは、空襲のあと、ご両親の安否をたずねるため、船で帰省した。おそらく二十年に入ってからだろう。船は那覇の沖までたどりついたが、島が見えるあたりで魚雷攻撃をうけて爆沈した。
「それで、どうされたのですか」
「泳ぎました」
大湾さんは、なんでもなさそうな顔で微笑している。泳ぎついて両親をさがしたが見あたらず、そのうち米軍の攻撃がはじまった。ご両親はたしか大湾さんに会えないまま、艦砲射撃のために爆死されたという。私は話がここに至ったとき、声をうしなってしまった。
大湾さんのその時期と私自身のそれとをかさねてみると、私はそのころ自分の連隊とともに栃木県佐野にいた。ついでながら私は大湾さんより五つほど年上かと思う。
その当時、私がいた連隊では、空襲がおこなわれたとchの出身者には数日の帰郷がゆるされていた。これによって私は三月の大阪空襲のあと帰郷したが、街はすっかり焼けている感じで家のあった場所がわからなかった。幸い、両親は死なず、焼けたあと奈良県の親戚に疎開していた。
 
私は、大浦さんの質問に答えねばならないが、それに対して答えられるほどの経験をもっていない。むろん答えにはならないが、自分の中に、多分に仮定に近い経験だけはある。
私は、以下のことは、以前どこかに書いた。大阪駅から東海道線に乗って名古屋を通過すると、大阪へ往くときには車窓からみえた名古屋城天守閣が、栃木県へ帰るときには見えなかった。名古屋は一望の焼野原だった。そういう時期のことである。
連隊に帰ってほどなく本土決戦についての寄り合い(軍隊用語ではないが)のようなものがあって、大本営からきた人が、いろいろ説明したような記憶がある。
そのころ、私には素人くさい疑問があった。私どもの連隊は、すでにのべたように東京の背後地の栃木県にいる。敵が関東地方の沿岸に上陸したときに出動することになっているのだが、そのときの交通整理はどうなるのだろうかということである。
敵の上陸に伴い、東京はじめ沿岸地方のひとびとが、おそらく家財道具を大八車に積んで関東の山地に逃げるために北上してくるであろう。当時の関東地方の道路というと東京都内をのぞけばほとんど非舗装で、二車線がせいいっぱいの路幅だった。その道路は、大八車で埋まるだろう。そこへ北方から私どもの連隊が目的地に急行すべく驀進してくれば、どうなるのか、ということだった。
そういう私の質問に対し、大本営からきた人はちょっと戸惑ったようだったが、やがて、押し殺したような小さな声で、----かれは温厚な表情の人で、決してサディストではなかったように思う----轢っ殺してゆけ、といった。このときの私の驚きとおびえと絶望感とそれに何もかもやめたくなるようなばからしさが、その後の自分自身の日常性まで変えてしまった。軍隊は住民を守るためにあるのではないか。
しかし、その後、自分の考えが誤りであることに気づいた。軍隊というものは本来、つまり本質としても機能としても、自国の住民を守るものではない、ということである。軍隊は軍隊そのものを守る。この軍隊の本質と摂理というものは、古今東西の軍隊を通じ、ほとんど稀有の例外をのぞいてはすべての軍隊に通じるように思える。
軍隊が守ろうとするのは抽象的な国家もしくはキリスト教のためといったより崇高なものであって、具体的な国民ではない。たとえ国民のためという名目を利用してもそれは抽象化された国民で、崇高目的が抽象的でなければ軍隊は成立しないのではないか。
さらに軍隊行動(作戦行動)の相手は単一である。敵の軍隊でしかない。従ってその組織と行動の目的も単一で、敵軍隊に勝とうという以外にない。それ以外に軍隊の機能性もなく、さらにはそれ以外の思考法もあるべきはずがない。
そのとき私が無知にも思ったように、軍隊が関東地方の住民を守るためにあるのなら、やがて加えられるであろう圧倒的な敵の打撃に対し、非力な戦術的抵抗などをせず、兵隊の一人一人が住民の上にかぶさってせめてもの弾よけになるしかない。私は戦車隊にいたから、大八車で北上してくる人々のうちの何人でも乗せられるだけ乗せて、北関東の山地へゴロゴロと逃げてゆけばよいのである。唯一の例外かもしれない毛沢東のゲリラ軍の思想と行動法というのには、あるいはそういう面があったかと思える。
私どもは、学校から兵隊にとられた素人兵であったが、何のために死ぬのかということでは、たいていの学生が悩んだ。ほとんどの学生は、父母の住む山河----そこには当然、人が住んでいる----を守るためだということを自分に言いきかせた。私の世代の学生あがりの飛行機乗りの多くは、沖縄戦での特攻で死んだが、たいていの者は、自分で抽象化した母国の住民群というイメージ上に自分の肉体を覆いかぶせて自分が弾よけになるというつもりであったはずである。
 
軍隊というものの論理は、そういうものから超然としている。
阿南惟幾(あなみこれちか)(終戦時の陸軍大臣)という人は、そういう組織論理の中に属していなければ、人柄から察して別な思想と人格のもちぬしだったかと思えるが、それでも、終戦のとき降伏案に対し、かたくなに反対した。
その理由は、日本陸軍はまだ本格的に戦っていない、というものなのである。あれほど島々で千単位、万単位の玉砕が相次ぎ、沖縄は県民ぐるみ全滅したという情報もあり、広島と長崎は原爆によって潰滅し、わずかな生残者も幽鬼のようになっているという事態のなかで、軍隊の論理でいえば「日本陸軍はまだ本格的に戦っていない」ということになるのである。
島々の守備隊は、戦闘というよりただ潰されるがままに潰された。「本格的に戦っていない」というのはその意味なのである。であるから本土において、本土決戦用の兵力をひきい、心ゆくまで本格的に決戦すべきである、というのが阿南惟幾の思想と論理で、これが、軍隊の本質そのものといっていい。住民の生命財産のために戦うなどというのは、どうやら素人の思想であるらしい。
 
大湾さんの質問には応答せぬまま、私はぼんやりコーヒーをのんでいた。『鉄の暴風』のなかにも、軍隊が住民に対して凄惨な加害者であったことが、事実を冷静に提示する態度で書かれている。もし米軍が沖縄に来ず、関東地方にきても、同様か、人口が稠密なだけにそれ以上の凄惨な事態がおこったにちがいない。住民をスパイ扱いにしたり、村落に小部隊がたて籠もって、そのために住民ごと全滅したり、それをいやがって逃げる住民を通敵者として殺したりするような事態が、無数におこったのではないか。
 
話が唐突ながら、中江兆民にも、この種の事態について多少のイメージがあったらしい。
兆民は、日露戦争の前に死ぬのだが、明治三十三年、愛弟子の幸徳秋水の忠告にもかかわらず、国民同盟会に入った。国民同盟会はロシアとの開戦に積極的な気分があり、秋水は「先生の自説とはちがうではないか」というと、兆民は、「勝てば即ち大陸に雄張して、以て東洋の平和を支持すべし」と言い、
「敗るれば即ち朝野困迫して国民初めて其迷夢より醒む可し。能く此機に乗ぜば、以て藩閥を勦滅(そうめつ)し、内政を革新することを得ん」
といったということが、秋水の『兆民先生』に出ている。兆民は晩年、思想がやや変質したようだし、このときの発言も秋水の追及を言いのがれする遁辞のにおいもあるが、しかし敗ければ国内がどうなるかというイメージは多少あったであろう。
関東地方での決戦がおこなわれた場合、この兆民の無邪気な敗戦イメージなどとは桁ちがいの状況が地すべりのように現出する可能性もある。おそらく住民の大きな人数が、戦況のなりゆきとして米軍の捕虜にならざるをえないであろう。その集団の中から当然反軍感情や行動がおこる。それに反対する側の住民とのあいだにすさまじい争闘がおこなわれて、それが革命政権の樹立への基礎になるか、それとも単に陰画的な面での民族内部の相互の不信という深い傷あととしてのこるか、そのどちらかであったに相違ない。
沖縄では、地域のせまさと、人口のすくなさと、日本軍が比較的短期間に潰滅したため、そのどちらもおこることなく、累々たる住民の屍だけがのこされた。沖縄の悲痛さは、そのどちらもがおこらなかったというところにあるのではないか。
 
しかしこれでは、大湾氏への応答にはならない。
私は、コーヒーが、容器の底にわずかに残ったころになって、
「おなじでしょう」
と、意味不明な返答をして、あとは薄ぼんやりとだまりこんでしまった記憶がある。
 
朝、この新築ホテルのあかるい食堂で、島尾氏とパンを食べた。あと一時間で別れねばならないというのに、ついにどちらも戦争のころの話題に触れなかった。

当時の関東地方の道路というと東京都内をのぞけばほとんど非舗装で、二車線がせいいっぱいの路幅だった。」というのは、今の感覚からはなかなか想像できないところですが、確かに昔の映画で、これは「道路」とか「幹線」とかいうより、江戸時代の「街道」にちょっと毛をはやした程度のものを、少なくとも昭和三十年代はじめぐらいまでは普通に見ることができます。わかりやすいところとしては、映画『ゴジラ』で、ゴジラ上陸と前後して大八車とかで逃げる人たち、というのが、戦後9年ぐらい経ってはいるんですが、ぼくのイメージする「米軍上陸で逃げる人」のシーンに近いです。
司馬遼太郎さん、このテキストの中でも「大本営からきた人」という言葉を使い、上司・上官に相当する言葉は使用していません。「温厚な表情の人」と、性格描写的なものも添付されています。テキスト的には、ぼくの確認した限りではこれは4度目の話なので(「司馬遼太郎伝聞の「(戦車で)ひき殺していけ」発言に対して、軍人は何と言っているか」参照)、だいぶ手馴れてきたという感じでしょうか。
この、「軍隊というものは本来、つまり本質としても機能としても、自国の住民を守るものではない、ということである。」ということは、司馬遼太郎さんの考えを現わすのに適した言葉だとは思いますが、それを引用する人はどうも「日本の軍隊」や「日本の軍国主義」を批判することだけに力を入れて、「古今東西の軍隊を通じ、ほとんど稀有の例外をのぞいてはすべての軍隊に通じる」という部分もあることに触れるのは少ない場合が多いように、ぼくは感じます。
毛沢東のゲリラ軍の思想と行動法」が、戦車に「何人でも乗せられるだけ乗せて」「ゴロゴロと逃げてゆ」く、というようなものだったかは、ぼくは知らないので、毛沢東にくわしい人のご意見をお伺いしたいところです。
阿南惟幾が「降伏案」に対しどのように反対したか、も、少し調べてみたいところです。
『鉄の暴風』のなかにも、軍隊が住民に対して凄惨な加害者であったことが、事実を冷静に提示する態度で書かれている。」というのはどうかなぁ。ぼくが読んだ『鉄の暴風』の、集団自決の章に関してだけ言うと、これはまさに「見てきたような嘘(どこの誰が、そのようなものを見たか、というのが不明、という意味での、嘘)」っぽすぎて、曽野綾子さんの言う「講談」というか、司馬遼太郎さんの小説みたいでした
村落に小部隊がたて籠もって、そのために住民ごと全滅した」という例は、ぼくは沖縄戦では知らないのですが、具体的にそのようなことがあった「村落」というのは存在するのでしょうか。沖縄本島での戦闘とか、いろいろ調べてみなければいけないのです。「全滅した小部隊」は確かにあるようですが。
革命政権の樹立」というのが、「どちらかであったに相違ない」の一方というのは、毛沢東に対する言及と同じく、時代だなぁ、という感じですが、「週刊朝日の1974年7月12日号」に掲載された、つまり1974年の6月中旬〜下旬あたりに書かれたテキストとしては、時代感覚的にも首を傾げたくなる感じです。これが1964年に書かれたテキストならまぁ、わからなくはありませんが…。
ということで引き続き、以下のような、
Fw:Seesaw Game 2nd - 国家と個人

太平洋戦争末期、戦車小隊の隊長であった作家の司馬遼太郎が、東京湾付近に上陸したアメリカ軍を迎え撃つために南下しているとき、北上してくる避難民とぶつかったらどうすればよいかと上官にたずねたら、「軍の作戦が先行する。国家のためである。ひき殺してゆけ」と言われたという。このとき司馬遼太郎は「国民をひき殺して守るべき国家とは何かと思った」と述懐している。国家と個人の関係というのは、いったいどういうものなのだろうか。

国民をひき殺して守るべき国家とは何かと思った」というフレーズが出てくる司馬遼太郎さんの「述懐」テキストは探索中なのです。今回のテキストは、強いていうなら「国民をひき殺して守るべき軍隊とは何かと思った」的な述懐で、軍隊否定ではあっても国家否定ではない、とぼくは判断しました。
前の「まとめ」を少し変えて、また提示しておきます。
1・司馬遼太郎氏の「ひき殺していけ」的記述は「百年の単位」(『歴史の中の日本』)と「石鳥居の垢」(『歴史と視点』)と「「対談・歴史の中の狂と死:司馬遼太郎(作家)&鶴見俊輔(評論家)」(『戦争と国土―司馬遼太郎対話選集〈6〉』)と「ホテルの食堂」(『街道をゆく・6:沖縄・先島への道』)に載っているのが確認できた。
2・誰が違う伝聞を言いはじめたかは不明だが、それを言ったのは司馬遼太郎氏によると「上司」「上官」ではなく「東北出身」の大本営の少佐参謀」である(参謀も広義の「上司」かもしれないが)。
3・この「参謀の発言」が本当にあったか、は、複数証言や公式記録によって確認されているわけではない。誰がいつ、佐野市にある戦車隊に派遣されて行ったかは、当時の記録がもしあるのなら、それを見ると確認できるし、そこに行った人間が「いかにもそのようなことを言いそうな人間」である、という事実も確認できるかもしれない。また「複数証言」も出てくるかもしれないが、今のところそれらは未確認である(誰か暇な人は確認してみてください)。
4・ぼくの解釈としては司馬遼太郎は「軍隊という組織のダメ加減」ではなく、「実践を無視して、イデオロギー的に肥大している組織のダメ加減」を言いたかったという判断で、それは「参謀」という組織の人物(のダメ加減)を通して、である。
5・司馬遼太郎は「旧日本軍(皇軍)」批判ではなく、「思想(イデオロギー)」を「それがいかなる思想であっても」(←原文通り)論理的にわけが分からなくなる、抽象的な国家もしくはキリスト教のためといったより崇高なものを軍隊は守る、という点において否定的である。「とにかく、思想より現実とか技術のほうが大事」と言っている、とぼくは判断しました。