SFマガジン初代編集長・福島正実は理系が好きな人だった。あと石原藤夫の掲載作品について

これは以下の日記の続きです。
本や映画の批評は知識のない「自分語り」レベルじゃ単なる「感想」だよ
 
以下のところから、
ハイウェイ惑星ネット(デュマレスト・サーガ風)

あとhttp://www.sf-fantasy.com/magazine/interview/010402.shtmlにある徳間デュアル文庫で復刊されたときの著者インタビューによれば、福島編集長はこういったハードSFが超お好きでしたとのことです。

以下のところへ。
著者インタビュー<石原藤夫先生>

[雀部]  「ハイウェイ惑星」が掲載されてから、石原先生の短編が次々とSFマガジン誌上を賑わせるようになったのですが、当時の編集長の福島正実さんは、こういうハードSFは、お好きだったんですか?
[石原]  超お好きでした。
いっぱんに当時のSF関係の人たちは、書くものは文系であっても、理系のことに理解のある人たちばかりだったと思いますが、福島さんはその中でも筆頭で、『SFマガジン』でも理系の執筆者を必死で探しておられました。
 しかしなかなか見つからず、そういうときに私がひょっこりと顔を出したので、どんどん載せて下さったというわけです。
[雀部]  そう言えば、あの頃のSFマガジンには「さいえんす・とぴっくす」とか連載異色コラムで「SF人類動物学」が取り上げられたりしてましたね。けっこう好きで、隅から隅まで読んだものです。
 石原先生ご自身は、特にお好きなSF作家とかいらっしゃいますか。
[石原]  書き始めたころのことを思い出しますと、日本の海野十三らは別にしまして、やはり、クラークが随一で、あとアシモフ、ブリッシュ、ブラッドベリ、などでした。同じハードSFでもクレメントはちょっとしんどかったです。
それから少し後になってレムが紹介されるようになって、衝撃を受けました。
あのころ(昭和30年代から40年代前半)に著名な海外作家が良質な翻訳で紹介されたことは、日本のSF界にとって幸運なことでしたが、その点でも福島さんの功績はきわめて大きなものがあったと思います。
[雀部]  クレメントがしんどかったというのは、意外ですね。ハードSF的な設定はともかくとして、あまりお話つくりは上手い人じゃないですからね。

ということなので、前のぼくの日記に追記しておきたいと思います。どうもありがとうございます。
しかしぼくには、ブラッドベリが好きだった石原藤夫さん、というのも意外な一面ではありました。
一応、日本で刊行された翻訳SF作品に関しては日本一くわしいと思われるもののひとつである「翻訳作品集成(Japanese Translation List)」の、「SFマガジンの作品リスト」から(石原藤夫さんによる「SF Database Search」というのもあるのですが、少し細かすぎて逆に使いにくいです)、その中から石原藤夫さんがSFマガジンで発表した作品を紹介しておきます。
「ハイウェイ惑星」1965/8
「天使の星」1967/2
「夢見る宇宙人」1967/4
「安定惑星」1967/5
「画像文明」1967/6
「空洞惑星」1967/9
「バイナリー惑星」1967/10X(増刊号)
「銀河を呼ぶ声」1967/12
「イリュージョン惑星」1968/2
「解けない方程式」1968/4
「愛情惑星」1968/6
「パラサイト惑星」1968/8
「時間と空間の涯」1969/2
「情報エリート」1969/4
「電話でセックス」1969/8
「地球の子ら」1969/12
…この後もまだまだ掲載は続くのですが、残念ながら福島正実さんは1969年の7月号を最後にSFマガジンの編集長を降りることになり、またそれと前後して石原藤夫さんの作品掲載も少なくなるので*1、リストはここまでにしておきます。
1967〜68年の起用のされ具合としては、初期の小松左京とほぼ同じぐらいと思ってもいい感じなので*2 、「福島正実石原藤夫が大好きだった(ラブ?)」と言ってもいいかもしれません。前エントリーを読まれて、「福島正実石原藤夫のようなハード・理系SFは大嫌いだったんだが、読者がいるということがわかったので、嫌々掲載していた」みたいな誤解を招くようなところがありましたら申し訳ありません。
福島正実さんが嫌いだったのは、野田昌弘さんの説によると「スペースオペラスペオペ)」、要するに宇宙冒険大活劇だったらしいんですが*3、正直言って今となっては、ぼくにはスペースオペラとハードSFの違いがよくわかりません。E.E.スミスやエドモンド・ハミルトンは、ジャンル「スペオペ」じゃなくて「クラシックSF」で、アシモフハインラインと同じです。
あと、多分大好きだったのはスタニスワフ・レムだったと思います。それは彼の創作作品(小説)を読むと、何となくわかります。ただ、レムをハードSF作家としてではなく、奇想小説&文学の血も混じっている系SF作家だと思っていたかも知れませんが。なんで『ソラリスの陽のもとに』をSFマガジンで連載掲載しようと思ったのか、謎なんだよな…。ボルヘスも、その存在を知っていたら、絶対掲載していたとも思います。
 

*1:ぼくは石原藤夫さんの本業のほうが多忙になったせいか、とも思いますが。

*2:ちなみに小松左京は1962年10月号「易仙逃里記」でデビュー後、12月号に「終りなき負債」が掲載され、1963年には8作、1964年には2作、1965年には『果しなき流れの果に』を連載しています。小松さんの場合は、1964年以降は他雑誌への作品掲載とかもあったので、石原藤夫さんとは掲載が減った理由は違うわけですが。

*3:これも伝聞情報が中心で、本人がどうもスペオペみたいな小説を好きな読者」を嫌っていたかな、ぐらいのことは、短編「SFの夜」を読めばわかりますが、本人が「俺はスペオペが大嫌いなんだよ!」と言っているテキストはうまく見つかりませんでした。