沖縄出張法廷での安仁屋政昭さんの証言を電子テキスト化する(5)

 だいぶ間があいてしまいましたが、これは以下の日記の続きです。
沖縄出張法廷での安仁屋政昭さんの証言を電子テキスト化する(1)
沖縄出張法廷での安仁屋政昭さんの証言を電子テキスト化する(2)
沖縄出張法廷での安仁屋政昭さんの証言を電子テキスト化する(3)
沖縄出張法廷での安仁屋政昭さんの証言を電子テキスト化する(4)
 
 これは、『裁かれた沖縄戦』に掲載されている、1988年2月10日の「沖縄出張裁判」における安仁屋政昭さんの証言を電子テキスト化してみたものです。
 元テキストは、『裁かれた沖縄戦』(安仁屋政昭編・晩聲社・1989/11)p23-124です。
 原文の「注(頭中)」も、注釈として掲載します。
 ただ引用しているだけではナニなので、ときどきぼく自身の意見や疑問点なども書くことにします。
安仁屋政昭証言テキスト・5

75・南部戦線の摩文仁の例について、意見書で瑞慶覧長方氏の証言内容が記載されておりますが、瑞慶覧さんという方はどういう方なんですか。
 この方は、沖縄戦に関連して言えば、沖縄戦における住民虐殺目撃者の会という会がございますが、そのメンバーで、現在は沖縄県会議員社会大衆党の委員長であります。
76・この方に直接お会いして取材なさったものですか。
 そのとおりです。
77・内容を簡単に言っていただけますか。
 これは南部の今の平和祈念堂のある辺りです。そこまで追い詰められていった段階で、米兵のほうから捕虜になった住民を、褌一枚で白旗を持たせて派遣して、もう戦争は終わったんだから米軍の保護下に入ったらどうかと、住民説得に来た、米軍の使いになった住民を、日本軍がいきなり軍刀で惨殺をしたということが一つ。勧告に応じて米軍の保護下に入れば、おそらく瑞慶覧さんは二万人近いと言いますけれども、数は明確ではありませんが、とにかく大勢の人が助かったはずなのに、そういう惨殺を米軍は見ていまして、やんぬるかなというわけですね。米軍は直ちに集中砲火を浴びせて、そこにいた住民のほとんどが殺されてしまうと。中には、追い詰められて断崖から飛び降りるわけですね。この飛び降りたことを集団自決などと言うことができるのかと、絶対にそうは言えないということですね。これは客観的な状況をよく御覧になったら、とてもこれは集団自決とは言えないわけです。日米両軍の狭間に追い詰められて、断崖から飛び降りるしかなかったということですね。
78・証人は、集団自決という言葉をお使いになるときには、大体、カッコをつけて使っておられるようですね。
 はい。
79・今日の証言でも同じですね。
 そのとおりです。
80・いわゆる「集団自決」と言われている事件は、どのような地域で発生しておりますか。
 これは、まず慶良間列島といいますけれども、島の名前で言いますと座間味島慶留間島渡嘉敷島、それから沖縄本島の上陸地点である読谷村波平のチビチリガマ伊江島、先程申しました沖縄本島の最後の激戦地、南部戦線ということになります*1
81・そういう集団自決のあった地域の、特徴的な点としてはどういうことが言えますか。
 これは日本軍と住民が雑居していた地域というふうに特徴があると思います。
82・軍と民間が混在をしておるというところなんですか。
 はい。もっと戦闘に即して言いますと、じゃあ米軍の上陸してきたところでは起きてないのかといいますと、米軍が上陸してきても、そこに日本軍がいなかった地域では起きていないということです。
83・日本軍と民間が雑居していなければ、米軍が上陸しても集団自決という悲惨な事例は起こっていないということですか。
 はい、そうです。
84・今言われた慶良間諸島の例について、そこではどういう状況下で、今言われたようないわゆる集団自決と言われるようなものが発生したんでしょうか。
 状況下というのはどういうことでしょうか。
85・それではこういうふうに聞きましょう。慶良間諸島では日本軍はどういう配置をしておったんですか。
 慶良間諸島の大きな特徴は、いわゆる地上戦を闘う戦闘部隊ではなくて、米軍の艦船に、ボートに爆雷を積んで体当たりをする、いわゆる特攻艇、これは海上挺身隊*2と言っておりますが、約三〇〇隻のボートを備えた海上挺身隊が配置されていたということです。
86・対する米軍は、どうですか。
 第三二軍の判断と米軍の判断が、違いがあったようですけれども、米軍はまず慶良間諸島を攻略すると、それは、これもこの場に行って御覧になったらよくおわかりですけれども、慶良間海峡というのは艦隊投錨地としては最適の所です*3。で、水上機基地も置けると、そういう意味でそこを確保した上で、沖縄上陸作戦を行うと。これに対して第三二軍の側は、沖縄本島西海岸つまり嘉手納、読谷一帯に上陸するということを予想しまして、険しい山のある島だから、飛行場としても適当でないから、米軍はおそらく最初に慶良間諸島を攻撃することはなかろうと、だからここに特攻艇を隠しておいて、背後から米艦船を攻撃しようと思っていたわけですけれども、逆になったということですね。
87・慶良間島でも集団自決が発生しているわけですけれども、その状況を簡単に言ってください。
 集団自決ではありません。集団的な死というふうに明確に申しあげたいと思います。人々は追い詰められて、恐怖と絶望の中で死んでいっております。例えば木麻黄*4という木があります。これに首を吊って、自分で吊るわけじゃありませんよ、親が子供の首を吊る、子供が親の首を吊るといったような形で、真っ黒にして人が群れてぶら下がっていたと。座間味島でも同じような状況が起きております。これは手榴弾を、手榴弾というのは民間人の持つものじゃございませんね、武器というのは厳重に管理されているものです、これが民間人の手に渡っていたということが私共には不思議でなりませんけれども、手榴弾を使って死んでいっているということ。その他に、剃刀でのどを切ったり、鎌で切ったり、我が子を火に投げ込んだり、子供の足を捕まえて岩に叩き付けてぼろ雑巾のように殺したり、猫いらずを飲んで、あるいは飲ませて殺したりと、こういう場面が起きているということです。

(調べたいことのメモ)
 「捕虜になった住民」を、「使い」として「白旗を持たせて派遣」させた例は、他のどの戦争・どの戦場であったのか(沖縄戦以外でもあったのか)。あった場合は、その「住民」はどういう扱いを受けたのか。
 瑞慶覧長方氏の「二万人近い人が助かった」という、数の根拠。
 「追い詰められて断崖から飛び降り」た具体例と、それを「集団自決」と言っている例(テキスト)。
 「集団自決のあった地域の特徴的な点」は「日本軍と住民が雑居していた地域」という以外にはないのか(「日本軍と住民が雑居していた地域」でも、集団自決がなかった場所というのは存在しないのか)。
 「追い詰められて、恐怖と絶望の中で死んでいっ」たのでは、「日本軍の命令・関与」とはあまり関係がなさそうな気がするのだが、それに関して関係者の発言の整合性はどうなっているのか。
 「木麻黄」の首吊り死体に関する証言の確認。
 座間味島で手榴弾を手に入れた民間人の入手方法。
 「我が子を火に投げ込んだり」「子供の足を捕まえて岩に叩き付けてぼろ雑巾のように殺したり」の2件に関して、証言以外の具体的な場所・人名が特定できるようなものがあるのか。
 
 タイプミスと思われるものがありましたら、コメント欄でご指摘ください。

*1:本書二二ページの図を参照

*2:海上挺身隊というのは海上特攻隊のことである。マルレと呼ばれた一人乗りのボートに一二〇キログラムの爆雷を積んで米艦船に体当たりして破損させようというものであった。この海上挺身隊は、淡路島・江田島で特訓をして沖縄に配備されたものである。第三二軍は、米軍の主上陸地点を沖縄本島の西海岸(現在の嘉手納基地一帯)と予想し、慶良間諸島が最初に攻撃されることはないと考えた。そのため第三二軍は、米軍の上陸船団を背後から攻撃するために、海上挺身隊三百隻を慶良間諸島に配置して海上特攻の作戦準備に専念し、地上戦闘の準備は全くしていなかった。しかし米軍は予想に反して、まず慶良間諸島に攻撃をしかけてきたのである。第三二軍は「米軍主力上陸前に特攻艇を使用することは、企図秘匿上適当ならず」として、海上挺身隊は一隻も出撃することなく自沈した。

*3:慶良間海峡(渡嘉敷島座間味島の間の海峡)は、長さ約一一キロメートル、可航幅の最狭部は約一七〇〇メートル、水深は四〇メートルから七〇メートルで、島々によって各方向の風を防ぎ、補給の船舶にとっては最適の投錨地であった。(本書二七五ページの図を参照)

*4:木麻黄(もくまおう)。防潮林・防風林として海岸線に植えられた。